第4話:そして君は僕を見る

「前田くんってさー」

 向かいのテーブルにクタクタと伸びながら、マミは上目づかいで僕を見つめた。

「ん?」

 手を動かしながらマミを見る。

「あんがい、可愛い顔してるよねー」

「そうかな?」

 マミのおしゃべりにいちいち付き合っていると、いつまで経っても補習が終わらない。僕は適当に聞き流しながらマミの顔の写生を続けた。

 結局、マミは断固として僕の絵の提出を拒否した。曰く、こんなブサイクに描かれた絵を先生の部屋に飾られたらたまらない、これはわたしの顔じゃない、こんなの人に見られるくらいなら死んだほうがマシ……。

 一方、マミの絵は先生が受け取りを拒否した。曰く、抽象画を描けと言った覚えはない、真面目さが感じられない、もう一度もっと写実的に描くように……。

 そういう訳で、僕たちは今、美術の補習授業というとても悲しい補習を受けさせられている。まさか美術に補習があるとは思わなかった。数学や社会ならまだしも、美術なんておまけじゃんか。なんでそんなに必死にならなきゃならないのさ。

「前田くんってさー」

 マミの目の前のケント紙は真っ白だ。

 まだやる気にならないらしい。

「耳、大きいよね?」

 耳が大きい?

「言われたことないよ」

「福耳っていうのかなー、耳たぶが大きくて触り心地が良さそう」

 言いながら「きししっ」とマミが笑い声を漏らす。

 これは絶対僕をからかっている時のマミだ。

「ね、触らせて♡」

 マミが右手をつと伸ばす。

「ダメだよ」

 僕はマミの手の甲を軽く叩いた。

「それよりも早くマミも絵を描きなよ。今度は具象画ね。写実じゃないとダメだって先生が言ってたよ」

「えー、つまんない」

 マミは口を尖らせた。

「早くしないと日が暮れちゃうよ。描き終わるまでは帰れないんだからさ」

「いいじゃん」

 マミはゴロンと寝返りを打った。

「そしたら学校に泊まろ? お泊まり楽しそうじゃん」

「あほ」

「二人でねー、学校にカンキンされて、そんで抱き合って死ぬの」

「死なないから」

 僕は適当に受け流しながらマミの絵を描き続けた。

 この前と同じだとつまらないので、今度は全身にした。僕の大好きな振り返るマミの姿。正確には写生とは言えないが、マミの姿は僕の目に焼きついている。ポーズをとってもらわなくてもいつでも描ける。

「……しかたない、描くかー」

 ようやくやる気になったのか、マミが身体を起こした。

「写実だよ、写実。抽象画はダメだからね。ルールはちゃんと守らなくちゃ」

 と一応念を押す。

「わかってますうー」

 やる気なくマミが答える。

 マミは尖らせた唇と鼻の間に青鉛筆を挟むと何やら考え始めた。

「構図が大切なのよねー」

 うちの学校の制服はブレザーだ。男はネクタイ、女子はリボンタイ。流行なのか、スカートはタータンチェックのおしゃれなタイプ。

 ブレザーの背中はつまらない。のっぺりしてて、セーラー服のような華がない。

 僕はマミのスカートの丈を思い出した。

 マミは意外と真面目なんだよな。

 不純異性交遊してそうだし、ルールは破るためにあるとかうそぶいている割には校則をちゃんと守ってる。

 スカートは膝丈、短くも長くもない。細い脛を包む靴下は黒のハイソックス。これまた膝までの真面目なタイプ。クラスの中にはサイハイソックスにしたり、ルーズソックスにしたりしている子もいたが、マミの格好は優等生だ。

 成績は普通。マミはいつも真ん中ら辺をうろうろしてる。僕は上の下、たまに廊下に名前が張り出されるくらい。この点だけはマミに勝ってる。

 今日もマミはポニーテールを大きなリボンで縛っていた。今日のリボンはピンク色のギンガムチェック。

(マミのタンスの引き出しってどうなってるんだろう?)

 毎日変わるリボンを思い出してふと不思議に思う。

(ぎっしりリボンが入ってたりして)

 真面目に手を動かし始めたマミをみて、僕はマミの絵を覗き込んでみた。

 なんでか眼鏡だけが描かれている。

「うわ、だめッ」

 マミはすぐに机に伏せると慌てて自分の絵を身体で隠した。

 そのまま紙を胸の前で抱きしめる。

「真ん中から描くと最後は変になっちゃうよ?」

「いいのっ」

 マミは顔をしかめた。

「わたしはわたしが描きたいように描くんだからっ! チャームポイントから始めるの!」

 チャームポイント? じゃあ僕のチャームポイントは眼鏡なんだ。

「うーっ」

 気の立った子猫のように唸ると、マミは片腕で隠しながら再び絵を描き始めた。


 シャッシャッシャッシャッシャ……


 二人だけの教室で、下書きの鉛筆の走る音だけが大きく響く。

「……どこまで進んだ?」

 しばらく経ってから、僕はマミに訊いてみた。

 僕の方は下書きが終わったところだ。これからペンを入れないと。先生はGペンがいいぞって言っていたけどそんなもの使えない。この前の授業以来持ち歩くことに決めた製図用の細いペンをペン入れから取り出す。

「……どこまでって、前田くん、すごいこと聞くんだね……」

 一体何を考えていたんだろう?

 マミの顔が真っ赤になっている。

 なんで?

 僕は写生の進み具合を訊いただけなのに。

「…………」

 マミは小声で何か言った。

 でも全然聞こえない。

「?」

「…………」

 マミが上目づかいに僕の顔を見る。マミは口を尖らせると、もう一度今度はもう少し大きな声で

「……キス、だけだよ」

 と言った。

「……だってわたし、ショジョだもん」

「……は?」

 処女?

 あまりに生々しいマミの言葉に、今度は僕の顔が赤くなる番だった。

 下から一気に血液が沸騰し、顔が真っ赤に熱くなる。

「……フジュンイセーコーユーとか、校則違反じゃん」

 マミの顔はまだ真っ赤だ。口を尖らせて俯いて揺れている。

 キスまでは不純異性交遊に入らないってマミのルール、今知った。

「……そ、そうですか」

 僕はようやくそれだけの言葉を絞り出した。

「ま、前田くんこそどうなの?」

 相変わらず真っ赤な顔をしながら、少し潤んだ目でマミは僕に訊ねた。

「ぼ、僕はまだ……」

 キスもクソも、手だって握ったことがある女の子はマミだけだ。

「……じゃあ、今しちゃう?」

 マミは表情がコロコロ変わるところがとても可愛い。

 いつの間にか、マミは小悪魔バージョンになっていた。

 見えない尻尾が後ろでゆらゆら揺れている。

「……前田くんとなら、いいよ」

 マミが大きな目を閉じる。柔らかそうな唇がこちらに迫る。

「わたしが前田くんの一番」


 と、その時。

 ガラッと扉を開けて先生が入ってきた。

「なんだ、お前ら? 二人して真っ赤な顔をして」

 先生は呆れたように言った。

「不純異性交遊はダメなんだからな。そういう羨ましいことは大学に入ってからやりなさい。そうしないと先生が悶え死ぬ」

 何を言ってるんだ、この先生は?

「どれ?」

 先生はスイッとマミの絵を手に取ると、腕を伸ばして眺め始めた。

「あっ! ダメっ!」

「なんだ岡崎、目と眼鏡しか描いていないじゃないか。また抽象なのか?」

「り、輪郭はあとで……」

「まあそういうのも天才っぽくて先生好きだけどな。でも全体から描いた方が簡単だぞ」

「そ、そうですね……」

 今度は僕の番。

「前田は全身像か。でもなんで後ろ姿なんだ?」

「そ、そっちの方が好きだから……」

「ふーん、前田は背中フェチか。お前、顔に似合わずマニアックなんだな」

 先生は僕に絵を返すとため息を吐いた。

「ともかく、早く仕上げてくれよ。お前らが終わらないと先生帰れないからな」

 ガラガラッ、ピシャン。

 先生が履いている健康サンダルの音がペタペタと廊下に反響する。

 先生が去ってしばらく経ってから、顔半分を紙で隠しながらマミは僕に話しかけた。

「……続き、する?」

「しない」

 紙から目だけが覗いたマミはかわいい。

 僕は紙を机に広げると、ペン入れを始めた。


 うん。しない。

 ルールは破らない。

 キスはもっとロマンチックなところじゃないと、しない。

 でも僕の胸はその後も高鳴りっぱなしだった。

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