シーン17 緊張の糸

 早雪の姿から察するに緊張をしているようだ。

 それを証拠に周囲への警戒を強め普段はほとんど見せることがない険しい表情をしている。

 しばらくすると何もない空間から突如あのアヤカシが飛び出してきた。

 狸のアヤカシで名前は観凪というらしい。

 どうやら彼女もまた別の空間に身を隠していたようだ。

 狸のアヤカシではあるものの今は早雪と同様に人の姿に化けている。

 改めて見ると外見は早雪と同様に二十歳くらいで濃紺の和服姿だ。

 顔立ちはファッション雑誌のモデルを思わせる容姿端麗でそれなりに身長もある。

 客観的に見れば彼女のことを美しいと感じる男性陣はきっと多いはずだ。

 帯には花鳥風月をあしらった豪華な刺繍がほどこされ、足元は真っ赤な鼻緒が目を引く草履に白い足袋を履いている。

 

 早雪とは昔の顔馴染みということもあり彼女には何か考えがあるらしい。

 僕に出来ることは鏡映しになった世界を黙って見ていることだけだ。

 外の世界から干渉を受けないということは早雪たちが話している言葉も聞えてこないことを意味している。

 そのため二人のやり取りは身振り手振りや顔の表情から読み取るしかない。

 こんな時、読唇術が使えればどれだけ役に立っただろうか。

 もちろんそんな特殊な技能など習得しているはずもない。

 早雪は目を細くしながら険しい表情で観凪を睨みつけている。

 一方の観凪は嬉々とした笑みを浮かべ何やら楽しそうだ。

 表情から読み取れる情報から対照的な感情が渦巻いていることがわかる。

 一見すれば笑みを浮かべ余裕の表情の観凪が優勢のようにも見え、険しい表情の早雪にはいつもの余裕が感じられない。

 

 対峙した二人は何やら言葉を交わしているようだが、鏡の世界にいる僕の耳には一切届かず無声映画を観ている気分だ。

 二人は身振り手振りを交えながらしばらく会話を続けた。

 どちらかと言えば観凪の方が感情豊かに身振り手振りを交えて気持ちを表現している。

 そして、何かを言ったあとに両手を広げて見せた。

 それが無抵抗で危害を加えないという意思を表現したのだろう。

 表情は非常に穏やかで余裕に満ちている。

 これが先ほどまで僕の命を狙っていたアヤカシとは到底思えない。

 観凪のことを別人だと錯覚してしまうほどの変わり様だ。

 

 早雪は一つ息を吐くと何かを決意したように改めて表情を引き締めた。

 そして、ゆっくりと観凪に歩み寄り目にも止まらぬスピードで頬に平手打ちを加える。

 頬を打たれた観凪は動揺をしながらも全身を震わせて興奮をしている様子だ。

 動揺と歓喜が入り乱れる感情から明らかに普通ではない姿に思わず背筋が冷たくなる。

 世の中には虐げられることを喜ぶ一種の性癖も存在するらしい。

 彼女の行動もその一種なのだろうか。

 特異体質とは無縁のノーマルな僕には到底わからない世界だ。

 

 早雪は追い討ちをかけるように何かを伝えると、観凪の表情が途端に曇りだして大粒の涙がこぼれ落ちた。

 今まで見せていた余裕のある姿からは想像ができない感情の落差だ。

 観凪はそのまま後ろを振り向きもせずどこかへ走り去ってしまった。

 早雪は一体何を言ったのだろうか。

 一つわかるのは暴力によって撃退したわけではないという点だ。

 厳密に言えば平手打ちも暴力の一種なのだろうが、平手打ちを受けた瞬間はまだ余裕を感じる事ができた。

 事態が大きく動いたのはやはり早雪が観凪に対して何かを伝えたあの場面だろう。

 まるでこの世の終わりといわんばかりに絶望した表情が印象的だ。

 観凪が去ったことで外の世界に再び平穏が戻った。

 早雪はこれまで続けていた警戒と険しい表情を解いて一安心と言った様子だ。

 そして、次の瞬間には僕の居る鏡の世界へと戻ってきた。


 「ヌシ様、終わりました」

 「ああ、見てたよ。無事でよかった」

 「思っていた通り、危険はありませんでした。もしかすると、逆上をして襲いかかってくるかもしれないというところまで想定をしていましたが、どうやら取越し苦労だったようですね」

 「あまり無茶はしないでくれよ。さすがに今のアレは肝が冷えた…」


 早雪の無事に戻ってきたことで急激に緊張の糸が切れたのか、僕は膝から下に力が入らずその場にへたり込んでしまった。

 そもそもあれほど緊迫した時間を経験すれば誰でも腰を抜かすだろう。

 無事に事が済んだことで早雪の表情は晴々としている。

 ここで気になったのはどのようにして観凪を撃退したのかという点だ。

 何かを言ったことはわかっているものの、具体的に何を伝えたのか見当もつかない。


 「そういえば、最後に何を言ったんだい?」

 「特にたいしたことではありませんよ。ただ、二度と姿を見せるなとだけ伝えました」

 「それだけ?」

 「はい、それだけですね」

 「それで、あんな世界が終わってしまうような悲壮感に満ちた表情になるのかな?」

 「あの子は少し変わっているのです。昔から私のことを姉様と呼んで慕っていましたから」

 「慕っていた?じゃあ、何で僕を襲おうとしたんだろうか」

 「それはあの子が言っていました。姉様の横に並び立つのは私だけだ、と」

 「…え?」

 

 思わず間の抜けた声が漏れてしまった。

 それだけ想像をしていた答えとは違うものが飛び出したからだ。

 早雪によれば観凪は彼女のことを本当の姉のように慕い献身的に尽くしていたらしい。

 どうやらその献身的な性格が歪んでしまい、早雪の隣にいた僕を憎悪の対象としたようだ。

 こちらとしては一方的に敵視をされて大変迷惑な話だった。

 嫉妬から命を狙われるというのはどうにも納得がいかない。

 早雪が毅然とした態度で観凪を拒絶してくれたおかげで今後の心配はなさそうだ。

 ただ、この時はまさかあんな事になるとは想像もしていなかった。

 これも何かの因果なのだろうか。

 早雪がたまに口にする何かを覚えていないという趣旨の言葉も何故か気になっている。

 彼女は何を知っているのだろうか。

 そもそも、僕のことをヌシ様と呼ぶ理由もはっきりとは答えてもらえなかった。

 僕は何か重要なことを忘れているのだろうか。

 思い出そうとしても答えは見つかりそうになかった。

 出来ることなら何かヒントの一つでも欲しいところだ。

 考えたところで答えが見つからないというのはどうにももどかしい気持ちになる。

 結局、鏡の世界を出られたのは観凪とのやりとりがあってしばらく経ったあとだった。

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