シーン16 鏡の世界

 今日は今朝からツイていなかった。

 一つ一つは些細なことかもしれないが塵も積もれば山となるとはよく言ったものだ。

 そして現在、状況はこれまでで一番悪いといっても過言ではない。

 おそらく生まれて初めての修羅場に遭遇している。

 決して出会ってはいけない相手が目の前に佇み何かをブツブツと呟いた。

 何を呟いているのか聞き取ることはできない。

 逃げようとしても身体が動かないのは神通力によって金縛りの状態になっているからだ。

 どんなに頑張っても身動きが取れず逃げ出すことができない。

 さながら蜘蛛の糸に絡んだ獲物の気分だ。

 何とか脱出を試みようと努力はしてみたが徒労に終わる現実を変えることはできなかった。

 対峙するアヤカシはもがいている間にもブツブツと呟く不気味な姿でこちらを見つめている。

 それが僕に向けられた呪詛だとわかったのは視界が暗転して意識を失うほんの少し前のことだ。

 薄れゆく意識の中で抗えない現実に思わず死を覚悟する。

 何とも呆気ない最後なのだろうか。

 死ぬということは想像をしていたよりも容易いことなのかもしれない。

 最後に見たのは口角を歪ませて高らかに笑うアヤカシの姿だった。


 一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 心臓を外から強く撃たれる衝撃が走り暗転していた視界に光が戻った。

 意識を失っている間に呼吸だけでなく心臓も止まっていたらしい。

 重い身体を起こすと今にも泣き出しそうな早雪の顔があった。

 心配そうに顔を覗き込みながら僕の肩を抱いている。


 「…早雪?」

 「よかった、間に合ったのですね…」

 「間に合った?」

 「はい、ヌシ様は彼の者によって命を奪われるところでした」

 「命を…そうだ!?さっきあのアヤカシに身体の自由を奪われて、それで…」

 「心配ありません。私の力でヌシ様にかけられた呪詛は取り除きました。もう安心です。それに、ここは鏡の世界ですから」

 「鏡の世界?」

 「はい、私が作り出した不可侵の世界です。私が許可をしない限り外部から干渉することは出来ません。もちろん、こちらから出る場合も同様に私の許可が必要になります」


 どうやらここは早雪が作り出した別の異空間のようだ。

 彼女の言葉通りならこの場所は世界のどこよりも安全ということなる。

 辺りを見渡すと風景が鏡映しになっていることに気がついた。

 街の風景に溶け込む看板の文字も鏡文字になっていて読み取りづらい。

 

 「そ、そうだ!あのアヤカシは?」

 「わかりません。私がヌシ様を見つけた時にはすでに姿を消したあとでした」

 「そういえば、何故早雪はここに?」

 「あの雨の日のことを覚えていますか?」

 「雨の日…」

 「ヌシ様とした接吻のことです。あれは私の力をヌシ様に少しだけ分け与える儀式でもありました。なので、ヌシ様に何かあればその感覚は私にも共有されるのです」


 雨の日の出来事で覚えているのはベッドの上で過ごした熱い抱擁とキスの記憶だ。

 あれから数日が経っているとはいえ今でも昨日のことのように覚えている。

 それだけ衝撃的な出来事だった。


 「突然あのアヤカシが現れて、身体の自由が奪われて…気付いたら視界が真っ暗になって…」

 「本当に危ないところでした。あの呪詛は魂を封印してしまうものですから」

 「封印?死ぬとは違うのかい?」

 「死とは魂の循環です。輪廻転生ともいいますね。封印とはその魂が捕らわれてしまうこと、つまり死んでしまうわけではありません。魂が肉体を離れてどこにも属さない状態をいいます」

 「そうなるとどうなるんだい?」

 「私も詳しいことは分かりません。ただ、意識もなく永遠の闇を漂うと聞いたことがあります。それが本当なら死よりも恐ろしいことです」


 早雪は深刻そうな顔をしている。

 それだけ危険な状態だったのだろう。

 彼女の到着が少しでも遅れていれば今頃どうなっていたのか分からない。

 それを理解して背筋が冷たくなるのを感じた。


 「あのアヤカシ、何故僕を狙うんだろうか」

 「実はあのアヤカシについてわかったことがあります。名前や素性も」

 「名前まで?」

 「はい、あのアヤカシは観凪。狸のアヤカシです。一時期ではありますが、私と共に行動をした時期がありました」

 「じゃあ、知り合いだったのかい?」

 「すみません、今まで気付くことができず…」

 

 早雪は肩を落として謝罪の意を見せた。

 この場合、彼女に非があるとは思えない。

 悪いのはあくまでもこちらに危害を加えてきた観凪というアヤカシだ。 

 相手の素性がわかっていれば対処できることもあるのではないだろうか。

 淡い期待を持ってしまうのは今のところこの状況に好転する兆しが見出せないからだ。

 

 「早雪は悪くないよ。それに、こうして命を救ってくれたじゃないか」

 「出来る限りのことはしました。本当によかったです。」

 「ところで、その観凪っていうアヤカシのことについて何か知っていることはいのかい?」

 「観凪は私とほぼ同時期に生まれたアヤカシです。具体的には私の方が少しだけ早く生まれています」

 「じゃあ、あのアヤカシも千年近く生きているというわけか…」

 「神通力は私とほぼ同等といったところでしょうか。私と関わっていない時間に力を蓄えていれば話は変わってきますが」

 

 早雪によれば神通力は力を蓄えることによってその力を増大させることができるらしい。

 力を蓄える方法はいくつかあるのだが、一定期間ずっと神通力を使わない方法や他のアヤカシから奪う方法、胆力と呼ばれる神通力の元となる物を多く取り込むことなどが挙げられる。

 特に他のアヤカシから直接神通力を奪う方法は即効性があり短期間で力を蓄えることができるようだ。

 そのため何かの事情でより強力な神通力を必要とするアヤカシは積極的に別のアヤカシを襲って力を蓄える者もいるらしい。


 「もし、早雪よりも強大な神通力を使うことができるとしたら、それは…」

 「はい、ヌシ様の考えている通りです」

 「じゃあ、どうすれば?」

 「今のところこちらから動くより相手の出方を見る他に良い手はありません。下手に動けば予期せぬ事態に陥ることもありますから」


 幸いにして鏡の世界では外からの干渉は一切受け付けない。

 完全に隔離された世界なのでこちらの位置を把握することも不可能だ。

 鏡の世界にいる限り安全は保証されているが裏を返せば打つ手がないことを意味している。

 外に出ればどこから狙われるのか検討もつかないのだから。


 「そういえば、あのアヤカシは突然目の前に現れたような…」

 「それは私も感じました。急に気配が現れたのですから、おそらく観凪も鏡の世界に身を潜めていたのでしょう」

 「そういうことか…」

 「あまり賢い方法ではありませんが、私に考えがあります」


 早雪は古墳公園で見せた険しい表情を浮かべた。

 また何やら強硬な手段に出ようとしているようだ。

 僕から彼女の頭の中を覗くことはできないがこれまで一緒に生活をしてきたおかげで何となく考えることはわかるようになってきた。

 だから彼女に危険な思いをさせるのは得策ではないと思っている。

 彼女の手を取って目を合わせた。


 「危険なことはダメだ、絶対」

 「危険は…少しだけあります」

 「危険じゃない方法を考えよう。そういえば、あの観凪というアヤカシは何故僕ばかりを狙うんだろうか?」

 「そうですね、おそらく昔と変わっていないのであれば私ではなくヌシ様を敵視していると思われます。ですので、私へ直接危害を加えられる可能性は低いと思います」

 「それって…?」

 「見ていてください。この中に居れば安全です」


 そういって早雪の姿が目の前から消えてしまった。

 どうやら鏡の世界を飛び出して外に出たらしい。

 周りを見渡すと鏡映しになった彼女の姿を見つけた。

 外の世界へは干渉ができないので彼女を追いかけても決して捕まえることができない。

 彼女の言ったとおり見ていることしかできない状態だ。

 何も出来ない自分を不甲斐なく思った。

 今出来ることは彼女の無事を祈ることくらいだ。

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