シーン15 雨の日
今朝は生憎の雨だった。
天気予報によればこの雨は夜まで断続的に降り続くらしい。
最近は天気の良い日が続いていたので中には雨を待ちわびた人もいただろう。
これが平日なら雨の中を通勤しなければいけないため気分も落ち込み億劫だったに違いない。
雨の日の外出はどうしても気持ちが重くなる。
不幸中の幸いは今日が週末で外出の予定がないこと。
元々雨が降ることは天気予報を見て事前に知っていたので外出が必要な予定は先に延ばしてある。
こんな日は部屋の中でまったり過ごすのも悪くない。
外出の予定もないので朝から寝間着のままベッドの上で籠城を決め込むつもりだ。
ただ、ベッドの上では眠ること意外にやることもないのでテレビのチャンネルを適当に変える単純作業を繰り返している。
暇つぶしの選択肢としては決して賢い方法ではないがたまにはこんな風に過ごしてもバチは当たらないだろう。
この時間帯は各局がこぞって情報番組を放送している。
中でも気になったのは最近流行りの飲食店を紹介していく番組だ。
早雪も番組に興味を持ったらしく人間の姿になってテレビの前で行儀良く座っている。
さすがに食べることとなれば優先順位は高いらしい。
新しい食べ物への執着は人並み以上に持ち合わせているので毎度のことながら感心してしまう。
ちなみにテレビでは流行のヘルシーランチを特集していた。
低カロリーで栄養が豊富なメニューが次々に登場するのは見ていて飽きないから不思議だ。
また、見た目にもカラフルで豪華な盛り付けが施されているところは写真映えを意識する風潮が流行する時代の流れによるものだ。
「うーん、これなら作れそうだな」
「ヌシ様がこれを?」
「見たところ難しいのは盛り付けくらいで材料さえあれば出来る…はず」
「なるほど!ヌシ様は器用ですね」
「いや、今のメニュー、鶏の胸肉が茹でられたら誰にでも出来るって」
詳しいレシピは紹介されていなかったが手間のかかる工程は最後の盛り付けくらいだろう。
調理と呼べるのは鶏の胸肉に包丁で下処理をして茹でることくらいだ。
茹でた胸肉は食べやすい大きさに手で千切り、好みの葉物野菜と一緒に盛り付けをしてドレッシングをかけるだけだった。
ヘルシーメニューというだけあって見た目にもカロリーを感じない。
健康志向の女性向けメニューといったところか。
一通り店の紹介が終わって出演者たちのフリートークが展開された。
早雪はテレビに食べ物が映らなくなると興味を失ってしまったようだ。
そんな姿を後ろから眺めているだけでも面白いと感じてしまう自分がいる。
早雪は何かを思い出したようにそのままベッドへとやってきた。
人の姿なので途端にベッドの上が窮屈になる。
「早雪…さん?」
「ヌシ様、少し我慢をしてくださいね」
そう言って早雪は堂々とベッドの半分近い領地を奪っていった。
領地を奪い合う戦争を仕掛けるつもりはないが少し理不尽な気もする。
当の本人は侵略をしたとは思っていないらしくベッドの上でくつろいでいた。
何か考えがあっての行動なのだろうか。
思案をしても答えは見つからなかった。
そもそも深い理由があったとは考えにくい。
仮に何か理由があるのであれば最初に言葉による訴えかけがあるのだから。
「…狭い」
「こうして身体を寄せ合えば平気ですよ」
早雪は悪びれる様子もなく至極当然といった顔で身体を寄せてきた。
身体が触れ合う距離に思わず緊張から全身に力が入る。
早雪と一緒の生活にも慣れてきたがやはりこうした場面では調子が出ない。
いつもならベッドに上がる時は猫の姿が定番だが何故か今日は人の姿のままだった。
本人が意図して人の姿のままなのか、それとも単に猫の姿に戻るのを忘れただけなのだろうか。
どちらにしてもこの密着した状況が変わるわけではない。
「ふふッ、ヌシ様は色々と考え過ぎです。意図などありませんよ」
「うぅ…ごめんなさい、頭の中を覗かないでください…」
「いけませんか?」
「いけません、大変申し訳ありませんがご遠慮ください…」
早雪が主導権を握る時は決まって敬語になってしまう。
その方が降伏したことを伝えやすく攻撃の手が緩くなることを期待しているからだ。
そもそもこの方法は処世術の一つとして昔から使っている。
きっかけは小学生の頃に担任の先生から叱責を受けた時のことだ。
その場で不意に出た敬語を聞いた担任は表情を和らげて許してくれたのを良く覚えている。
そんな成功体験が今も続いているのだ。
しかし、それが有効なのはあくまでも相手が年上や知恵者である場合がほとんどで、早雪の場合は頭の中を覗けることからあまり効果はないように思う。
むしろ、普段とは違う言葉使いや雰囲気から本心を読み取ろうと頭の中を覗かれることが多い。
つまり、この対応は逆効果になるのではないだろうか。
ただ、今更この癖を直すのは難しいように思う。
考え事をして頭が混乱しているところに早雪はさらに身体を寄せつつ右手で頭を撫でてきた。
それはまるで小さな子どもをあやす母親のようだ。
早雪の実年齢を考えれば千歳以上なので三十年程度生きた僕などは子ども扱いなのだろう。
今はこの状況に身をゆだねるしかない。
不思議と頭を撫でられたらだけで心が落ち着いていることに気が付いた。
「やはりヌシ様は素敵な方ですね」
「な、何がだい?」
「…やはり覚えていないのですね」
「覚えて?」
「いえ、何でもありません。私の勘違いみたいです」
今まで機嫌よく頭を撫でていた早雪の表情が少し曇ったように見えた。
しかし、そんな感情の変化は一瞬のことで次の瞬間にはいつもの笑みを湛えている。
思えばこうして頭を撫でられたのは思い出せないほど久しぶりのことだ。
その相手は母親だったのだが今では立派に成人をしてしまったので頭を撫でられることもなくなってしまった。
時より見せる早雪の表情が何故か母親の面影と重なるような気がしている。
「早雪、君は…」
「どうかされました?」
「いや、何でもない…」
「そう…ですか。でも、たぶんそれは違うと思います。ヌシ様の気のせいですよ」
「ま、また頭の中を覗いたのかい?」
「それはどうでしょうか?」
「ホント、敵わないな…」
「人生、諦めも肝心といいますからね」
「それ、猫の君が言うのかい?」
「今は人の姿をしているので間違ってはいないかと」
早雪は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
今は何を言っても彼女に勝てない気がしている。
そもそも主導権は彼女に渡ったままなのでよほどのことが起きない限り勝機は微塵もないだろう。
気が付くとすでにベッドの上の領地が半分以上奪われていた。
頭を撫でる振りをしながら徐々に領地を完全掌握しようとしている。
僕に残されたのは寝返りも打てない僅かなスペースで背中はすでに壁と接触していた。
その間にも早雪は肌を密着させながらゆっくりと侵略を続けている。
もはや抱きついているといっても過言ではない密着ぶりだ。
彼女の顔は僅かな吐息の音が聞えるほどで耳元の近くにある。
「たまにはこういうのも良いものですね」
「ご、ごめんなさい、許してください…」
「こういうものはお嫌いですか?」
「い、いや、とりたてては…。むしろご褒美の類かと…」
「素敵ですね、ヌシ様」
早雪は耳元に吐息を拭き掛けてきた。
耳をくすぐるような優しい吐息に思わず背筋がムズムズとしてくる。
彼女の髪からシャンプーの良い匂いがした。
僕と同じ物を使っているというのに何故そう感じるのだろうか。
思わず生唾を飲み込んだ。
「ヌシ様、失礼します」
「…え?」
反射的に疑問符を浮かべたところで口を塞がれてしまった。
口を塞いだのは早雪の柔らかい唇だ。
これが俗に言うキスというものだと理解したのは数秒経ってからのことだ。
人生で初めてのキスは異性から奪うのではなく奪われる形となってしまった。
まるで時間が停止してしまったように頭の中が真っ白になっている。
しばらくして冷静さを取り取り戻せたのは呼吸を忘れ酸欠の一歩手前になっていることに気が付いたからだ。
「さ、早雪…」
「しばらく忘れていました。接吻がこれほど気持ちの良いものだったと」
「か、からかっているのかい?」
「いいえ、そうではありません。そうしたと思ったから、そうしたのですよ」
満足そうな笑みを浮かべる早雪は絵に描いたように恍惚としている。
今日の早雪はどこか積極的だ。
気が付くと今度は僕の方から彼女の手を取って指を絡めていた。
何故そうしたいと思ったのか言葉にすることは難しい。
強いて言うなら本能がそうしたいと命令したからだ。
続けざまに二度目のキスが始まり三度、四度と触れては離れる動作を繰り返した。
キスの経験がないのでこれで正しいのか分からない。
ただ、そうしたいからという本能が飽きることなく彼女を求めた。
相手を好きになるというのはこういう気持ちなのだろうか。
今日をきっかけに彼女との関係が変わっていくような気がした。
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