シーン8 願い事

 彼女が素性を明かした深夜。

 暗闇の中でゴソゴソと音が聞こえてきた。

 音の主はソファーで眠っていた早雪だ。

 電気を消す瞬間までは猫の姿だったと記憶している。

 しかし、この物音は猫の姿ではなく人間の姿になっていることが想像された。

 なるべく足音を立てないよう忍び足で近寄ってくるものの完全には音を消しきれていない。

 むしろ、こちらへ存在を気付かせるためにわざと不快にならない程度の音を立てているようにも感じる。

 相手が彼女なのでそこまで計算されていても不思議ではなかった。

 徐々に近付いて来る気配はベッドの真横で止まり、そのまま布団の縁が持ち持ち上げられていくのが分かる。

 夜の少し冷えた空気とともに布団の中へ侵入してくる様子は一切の躊躇がない。

 あたかもそれが当たり前と言わんばかりの振る舞いだ。


 「…あの、何をしているんですか?」

 「ヌシ様、起きておりましたか」

 「いやいや…わざとでしょ?」

 「お気づきでしたか?」

 「さすがに気付くって。それで、これは何の真似かな?」

 「夜伽というそうです」

 「それ、わかって言ってる?」

 「もちろんです」


 自信たっぷりに話す姿にこれ以上言葉が出てこなかった。

 そもそも夜伽というのは女性と男性が一緒の床に眠ることだ。

 言葉の意味を理解して自らを確信犯だと自白した彼女にどう接すれば良いのだろうか。

 先ほどまで眠っていたので頭の回転が悪く最善の選択肢が思い浮かばなかった。

 ここに来て彼女が居ない歴イコール年齢というハンディキャップも重くのしかかってくる。

 異性との交際経験があればこんな瞬間はチャンスとでも捉えるだろうか。

 少なくとも健全な男性なら興奮が抑えられない状況だろう。

 待ち伏せていたライオンが獲物に飛び掛る勢いで彼女を抱きしめても不思議ではない。

 余計なことを考えられるほど頭は冷静なはずなのに、何故か心は落ち着かずザワザワと沸き立っている。

 

 「緊張されていますね」

 「な、何故それを?」

 「呼吸の乱れ、心拍の上昇、顔の紅潮が見られます」

 「く、暗いのに見えるのかい?」

 「夜目が利きますから、見え方は普段と変わりませんよ」

 「それは…猫だから?」

 「さあ、それはどうでしょうか?」


 質問に質問で返されてしまった。

 この場合、どちらに主導権があるのだろうか。

 客観的に見ればベッドの持ち主である僕に軍配が上がるだろう。

 ベッドの侵略者を擁護する言葉は見当たらない。

 しかし、客観的な立場が上でも少ない言葉のやり取りからすでに主導権は奪われつつあった。

 少しでも冷静になろうと必死に頭を働かせているものの、そんな様子は彼女に筒抜けのようだ。

 そもそも、彼女には人智を超えた神通力があるため、その気になれば何を考えているのか頭の中を覗くことも可能だろう。

 取り繕えば後から不利な立場になることも容易に想像できる。

 ボロが出る前に降伏した方が身の為だろう。


 「悪かった、だから許して欲しい」

 「何故謝るのですか?」

 「気付いているんじゃないのかい?」

 「女性経験がないという話でしょうか?」

 「ぐはッ!?」


 心の声がそのまま言葉になってしまった。

 やはり想像したことは現実に起きてしまうらしい。

 心はすでに読み取られているようだ。


 「ご心配なさらず。必要なこと以外は覗き見ていませんよ」

 「もう、どうにでもしてくれ…」

 「何もしませんよ。ヌシ様が何も望まなければ」

 「そうしてくれると助かる…」


 先ほどまで眠っていたはずなのにすっかり眼が冴えてしまった。

 このまま再び眠りにつくためにはそれなりに時間がかかりそうだ。

 むしろ、朝まで眼が冴えたままという可能性もある。

 相手は人間ではなく、あくまでも人の姿をしたアヤカシだ。

 頭ではわかっていても肌から伝わってくる温もりは間違いなく本物だった。

 思えば誰かと一緒の布団で眠るのは両親を除いて記憶が無い。

 そんな両親でさえ小学生になる頃にはすでに一人で寝るようにしていたため、人肌の温もりがこれほど温かいと感じたのはまさに衝撃的だった。

 それ以上に驚いたのは直接肌に触れてくる感覚だ。

 布団の中は怖くて覗くことができないので想像力だけが無駄に働いている。

 この感覚は着衣を通したものではない。

 直接、素肌が触れていることがわかる。


 「フフッ…ヌシ様は面白いことを考えていらっしゃいますね」

 「や、やめてもらえませんか…」

 「古来より男女は肌と肌を重ねることでお互いを大切に思ってきたのですよ。これは自然な形です」

 「…わかってやってるんだろう?」

 「お察しの通りです。お嫌いなら布団を出ますが…どうやらそうではないみたいですね」


 考えていることは筒抜けだった。

 実際、このような状況は一生無いと思っていたのだから。

 本音をいえばこの時間がずっと続けばいいとさえ思っている。

 彼女が猫でも人間でもない人外の存在だったとしても、この温もりは現実のものとして存在しているのだから。

 意識をしたことはなかったが肌が触れ合う温もりを心の底から望んでいたらしい。

 人肌が恋しいと思うのは人間らしい関わりを求めた結果だろう。

 誰かに求められることが自分の存在証明のように思えた。


 「ヌシ様は本当に面白いことをお考えですね。そのような感情に触れたのはいつの事だったでしょうか」

 「他の人もこんな風に考えるのかな?」

 「私の知る限り、そう考える方は何人か見てきました。ヌシ様と同じように優しい心の持ち主でしたよ」

 「優しいかどうかは分からないよ。どう接していいか分からないから優しくしているのかもしれない」

 「優しさを求めて優しく接するのは間違った方法ではありません。親が子を思う気持ちも一部にそんな側面がありますから」

 

 早雪は布団の中で体勢を変え始めた。

 彼女が動いている間は身動きが取れない。

 そんなことをしてしまえばこちらから恥部に触れてしまう可能性があるのだから。

 こちらはあくまでも不可抗力という立場を取りたい。

 彼女は慣れた様子で僕に覆い被さるような体勢を取った。

 布団が軽く持ち上がり再び夜の少し冷たい空気が布団の中に入って来る。

 彼女が上で僕が下だ。

 黒髪が前へ垂れ下がり普段は見られない真下から見上げる姿は妖艶さが増している。

 彼女は右手で髪をかき上げて笑みを浮かべた。


 「殿方はこのようにすると喜ぶらしいです。ヌシ様もそうでありましょう?」

 「ひ、否定はできません…」

 「あまり硬くならず…と言ってもコチラは難しいようですね」

 「もう…頭の中を読まないでくれ」

 「健康な男性であれば正常な反応ですよ」


 彼女がそれ以上何も言わなかったのはこちらの考えを読み取ったからだろう。

 もし、それ以上の言葉で責められていたら自尊心が崩壊してしまったかもしれない。

 この状況は目の保養になるものの、心拍数は全力疾走をした後のように早くなっている。

 心臓が爆発してしまうのではないかと不安になるほど身体が熱くなっていた。

 お互いの顔の距離は十数センチほどしか離れておらず身体は先ほどより密着していない。

 そんな状況から視線を移すと布団の中の暗闇に二つの丸みを帯びた影が見えた。

 重力に逆らわない二つの膨らみが確かにそこにある。

 今の状況は非常に危険だ。

 むしろ、このまま死んでしまった方が幸せなのだろうか。

 男としては本望なのかもしれない。


 「ヌシ様に一つ提案があります。私を助けて頂いたお礼に何か一つ願いを叶えたいと思います」

 「ね、願いを?」

 「はい、例えばお金持ちになりたいと思えば、神通力でそれを叶えてあげましょう。神通力を使えば大抵の願いは叶えることができるのです」

 「…何でもいいのかい?」

 「そうですね、大抵低のことは」

 「急な話だね…」

 「先ほど思いつきましたので、朝まで待つよりは良いかと思いまして」

 「案外せっかちなんだ…」


 時刻は深夜の三時を過ぎている。

 仕事のことを考えれば出来る限り身体を休めておかなければならない。

 学生の頃は徹夜でも平気で動き回ることができたが、三十路になった今ではそれも当時のようにはいかなくなっている。

 健康は大切なので彼女にそれを叶えてもらってもいいかもしれない。

 しかし、口を突いて出た言葉は考えていたものとはまるで違っていた。


 「…一緒に居て欲しい」

 「なるほど、やはり私の考えていたヌシ様でした。おめでとうございます」

 「え?」

 「今、願いは叶えられました。ヌシ様は今日から私だけのヌシ様です」

 「ちょ、ちょっと待って。それって…」

 「今日より正式にヌシ様へお使いいたします。それが叶えられた願いです」


 早雪は笑みを浮かべながら平然と言ってのけた。

 彼女の言葉が本当なら願いが叶えられたことになる。

 主従関係が結ばれたということだろうか。

 今のところ身体や感覚で実感するものは何もない。

 全ては彼女言った言葉の中にあるようだ。

 嬉しそうに笑みを浮かべてはいるものの、彼女が嘘や冗談をいうようには見えない。

 事実だとすれば大変な願いを望んでしまったことになる。

 考え方によっては呪われたのではないだろうか。

 幸いにして彼女は悪霊の類ではなさそうなので、仮に今晩のようなことが続くのであれば男冥利に尽きるといったところか。

 異性と付き合うよりもハードルの高い約束をしてしまったように思う。

 初めて付き合う相手が人外になるとは夢にも思っていなかった。

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