シーン6 アヤカシ
ソファーに身を沈めてどれくらい経っただろうか。
時計を見ると十数分しか経っていないことに気が付いた。
自分の感覚では数時間ほどこの場所に居たような気がする。
それだけ短い間にいろいろなことを考えていたということだろうか。
普段ならこれだけ頭を使うことはほとんどない。
再び大きな溜め息が漏れて全身の力が抜けていった。
「ヌシ様、お腹が空きました。この袋は昼食でございますか?」
早雪は再び女の子の姿に戻っていた。
彼女の身長は僕より少し低い程度だ。
どちらかと言えば男性の中では背が高い方なので、彼女の身長が如何に高いかが分かる。
和服を着ているので身体のシルエットは分かりづらいものの、先ほど和服の裾から覗いた足からも分かるように細身だろう。
身長がある細身の体形の造形美は非の打ち所がない。
「ん?ああ、そうだよ。僕の分しか買ってきていないけど、よかったら食べるかい?」
「よろしいのですか?」
「ああ、いいよ」
今は食事どころではないので彼女の要求も素直に受け入れた。
ちなみに人の姿であれば自分で昼食を準備することも可能らしい。
その気になれば料理もできるのだとか。
買ってきた袋の中にはおにぎりが二種類と中華マン、ホットメニューのチキンナゲットとデザートの抹茶を使ったチーズケーキが入っている。
買い物をする時点で女の子が喜びそうなものを買っていれば良かったのだが、生憎自分好みのものしか購入していない。
早雪が喜びそうなモノがあれば良いのだが、彼女がどのような反応をするのか気になるところでもある。
コンビニの袋から取り出したのは鮭のおにぎりとチキンナゲットだった。
猫が魚好きなのは何となく分かるが、揚げ物はいかがなものか。
おにぎりの袋には袋の開け方が書いてあるものの、上手に開封が出来るのか興味がある。
人の姿をしてはいるが人間の常識に精通しているとは限らない。
様子を伺っていると思った通り袋の開け方が分からず苦戦をしている。
ソファーから立ち上がっておにぎり開封方法を教えてやった。
「ちょっと貸してみて。ここを下に引っ張って…あとは横に開けば…はい、出来上がり」
「おお!さすがヌシ様ですね」
「これくらい常識だって。それより、何で僕のことをヌシ様なんて呼ぶんだい?」
「ヌシ様はヌシ様ではありませんか?」
「いや、それじゃあ答えになってないんだけど…」
「理由…何か深い意味があったような、無かったような…」
女の子は頭を抱えて何かを思い出そうとしている。
苦悩した姿は見ていて微笑ましい。
「そんなに悩むこと?」
「年を取ると昔のことがすぐに思い出せなくなるもので…」
「昔って、キミは一体いくつなんだい?」
「女性にあまり歳を尋ねるものではありませんよ?でも、ヌシ様は特別です。およそ千年と六十数日といったところでしょうか」
「せ、千年!?」
「見ての通り猫が長い年月を生き延びた半神半妖の身。アヤカシとも呼ばれております。早雪という名前は、季節外れの雪が降る晩に生まれたと母が申しておりましたので、あとから自分で名付けたものです」
彼女は自らを半分は神様で半分は妖怪やもののけの類いだと教えてくれた。
妖怪といえば江戸時代の浮世絵にも登場する題材で今も熱狂的なファンがいる。
ただ、妖怪は人間を驚かせたり、死に追いやる恐ろしい存在だと描かれることが多い。
中には人間に好意的な妖怪の物語もあるがどちらかといえば少数派だ。
アヤカシというのは神様と妖怪の中間に位置する彼女のような存在を表す言葉らしい。
「神様と妖怪の間?」
「はい、今は妖怪の側面も持ち合わせておりますが、あと数百年もすれば神として奉られるような身分になるでしょう」
「動物の神様?」
「神と妖怪とアヤカシ。長生きをした生き物は大きく分けてこの三つに分けられます。妖怪というのは本能のままに行動をする乱暴者が多いですね。アヤカシは神通力という力を使うことができます。半分神様というのはこの力のおかげです。神様というのは神社に奉られているような方々のことです」
早雪はおにぎりを器用に食べながら説明してくれた。
どうやら彼女はそのアヤカシという不思議な存在らしい。
ただ、幽霊のように足がなかったり姿が透けていたりと不確定な存在ではなく、実際にふれ合いことのできる実体を持っている。
ここで獣医の言葉を思い出した。
何が起きても驚かないでという言葉の真意は早雪の正体を知っていて言ったものだったのではないかという疑問だ。
あの意味深な言葉から今起こっていることを推測すると辻褄が合う。
ただし、今はそれを証明する手段がないため、日を改めて確認するつもりだ。
「キミはどうしてあの公園に?」
「あの辺りを縄張りにするアヤカシに襲われてしまったのです。普段なら簡単に追い返すこともできたのですがあの時は油断をしてしまって…」
最後の一口になったおにぎりを口に放り込みながら当時のことを振り返ってくれた。
怪我を負わせたアヤカシは昔からの旧知ではあったものの、何かにつけて因縁を付けてくる面倒臭い相手らしい。
生まれた年もほぼ一緒なのでライバル視をしているのではないかというのが早雪の見解だった。
「早雪に怪我を負わせた相手は危険なやつなのかい?」
「そうですね、一度怒ると手がつけられなく乱暴者です」
「乱暴者…それは会いたくない相手だね」
「一応、こちらから危害を加えなければ平気です。私の場合は過去の因縁もありますから例外ではありますが」
早雪の説明によればアヤカシは特別危険な相手ではないらしい。
ただし、こちらから危害を加えれば反撃をしてくるようなので、敵意を持たなければ問題はないようだ。
話の合間を縫って早雪はチキンナゲットを口にした。
確か袋の中にケチャップとマスタードが入っていたはずだ。
そんなことは気にもせずそのままチキンナゲットを食べている。
ここは教えてあげた方が良いだろう。
「ちょっと待って、これを使うといいよ」
「これは?」
「ナゲットを美味しくする調味料。でも、マスタードは好みが分かれるかな」
「なるほど…」
早雪はさっそくチキンナゲットにケチャップを付けた。
この辺りの素直さは美味しいものを食べたいという欲求からくるものだろう。
「うん、美味しいです。こんな食べ物があるんですね」
「千年も生きてるのに食べたことはなかったの?」
「人と交わるのはあまりありませんでした。人の命は儚いですからね」
「それは、何度も別れを繰り返してきたからかな?」
「はい、悲しい別れは何度もありましたから…」
早雪は食べる手を止めて遠い目をしている。
あまり触れられてはいけない話題だったようだ。
「ごめん、嫌なことを思い出させて…」
「いいえ、ヌシ様が謝ることではありません。そういう運命ですから」
「運命?」
「はい、私はいつの頃からか寿命で死ぬことがない身体になってしまいました。おそらく私を生んだ母の力によるものでしょう」
「寿命では死なない理由が君のお母さん?」
「母は亡くなる前に私の身を案じていました。私は生まれた時から身体が弱かったらしく、一緒に生まれた兄弟たちより親離れが遅れていたんです。普通、猫の母というものはある程度子どもが成長をすると親離れを促すために距離を取るのですが、母は他の猫よりもずっと母性が強かったようですね」
「人一倍面倒見の良い母猫がキミの身を案じた結果、それが寿命で死ななない身体になった。うーん、よく分からないな」
「あくまでも私の推測です。他に思い当たることがありませんから」
早雪が寿命で死ななくなったというのは具体的な原因がわかっていないらしい。
他のアヤカシたちも何らかの理由で寿命より長く生きた結果、不思議な力が宿ってアヤカシになっている。
それは本人が望むか望まないかという問題ではなく、まるで運命のように決まってしまうようだ。
彼女自身、アヤカシになってしまったことを喜ぶわけでも悲しむわけでもないらしく、そういうものだと理解している。
「ヒィッ!?」
考え事をしていたら早雪の悲鳴にも似た声が聞こえた。
視線を彼女に向けるとマスタードのかかった食べかけのチキンナゲットを涙目になりながら睨みつけている。
どうやらマスタードの辛味成分はお好みではなかったらしい。
「あー…ごめん、最初に説明しておくべきだったかな」
「舌がヒリヒリします…」
「無理に食べなくていいよ。ケチャップは気に入ってくれたんだろう?」
「こちらの赤いのは美味しかったです。黄色いのは嫌いです」
猫舌は熱いものが苦手な時に使う言葉だが、猫は辛いものも苦手らしい。
千年近く生きていても苦手なものはあるようだ。
本人には悪いが人間らしい姿に思わず笑みがこぼれた。
彼女が猫でも人間でもない存在だとしても、このまま仲良くやっていけないかと考えている僕がいることに気が付く。
元々、猫との暮らしを想像していたのだが、こうして話してみれば以外にも好意的で接しやすい印象だ。
まだ僕のことをヌシ様と呼ぶ理由はわからないが、今はそんなことを気にせず仲良くやっていく道を模索したと思っている。
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