シーン5 カノジョの名前
動物病院での用事が済んだので帰路についた。
待合室で過ごした待ち時間もあったので予定していたより少し押している。
家に残してきた猫のことが心配なので一分でも早く帰ってやりたいところだ。
しかし、日曜日ということもあってか、なかなか思ったようにタクシーが捕まらない。
タクシー会社へ電話をして配車の手配している間に近くのコンビニで昼食の買い物を済ませることにした。
コンビニの駐車場で待ち合わせたタクシーに揺られながらアパートに到着する。
いつものように鍵を開けて玄関で靴を脱ぎ、鍵を定位置の棚に置いてスリッパを履きながら室内灯のスイッチを押す。
ここまでの動作はいつも行っているので特に何か考えて行動しているわけではない。
身体が覚えていることなので例え別のことを考えていても同じ行動を取るだろう。
それくらいの自信があるほど毎日繰り返している動作だ。
買って来たコンビニの袋をテーブルの上に置いたところであることに気が付いた。
今朝方、出かける間際まで名残惜しそうにしていた猫の姿が見当たらない。
犬とは違って尻尾を振りながら玄関先まで迎えに来てくれるということはないようだ。
元々、猫は気に入った場所を見つけるとそこで何時間も過ごすことがある。
猫にとって時間の感覚というものが人間とは根本的に違うのだろう。
自由気ままに生活する姿は見ていて羨ましくも思う。
部屋の中を見渡すとある一点から目が離せなくなった。
それは普段から身体を休めるために使っている愛用のベッドだ。
そんなベッドの布団から見慣れないモノが覗いている。
それが人の頭だと気付いた瞬間、背中に冷たいものを感じた。
身体が硬直していつものように思考が働かない。
今までに感じたことのない不安が押し寄せてくる。
まさかここは自分の部屋ではないのだろうか。
そんな疑問が脳裏に浮かんだもののすぐに自己否定した。
玄関の扉には鍵かかかっており、持っていた鍵で難なく開けることができたのだから他人の部屋へ間違って入ったという可能性は微塵もない。
そもそも、玄関からここへたどり着くための一連の動作で不自然なものはなく、明らかにここが自分の部屋だという自信がある。
そこまで理解しておきながらベッドの上で起きている現実を理解することができなかった。
一体何が起きているのだろうか。
空き巣が侵入したとしてもベッドで眠っているというのは説明がつかない。
そんなことを考えているとベッドから覗いていた頭が動いた。
正確にはベッドで眠っていた何者かが目を覚ましたのだ。
布団から顔を出したのは見知らぬ黒髪の女の子だった。
女の子といっても小中学生くらいの幼さが残る少女ではなく、どことなく大人の色気が漂う二十歳前後の女性だ。
髪は背中まで伸び上等な生地で作られたと思われる黒の和服を着ている。
良く見ると和服には金と銀の糸で施された山茶花があしらわれ、素人目に見てもわかる程に手の込んだ逸品らしい。
ただ、寝ている間に着崩れたてしまったのだろうか。
片方の肩口が大きく開いて鎖骨が見えるほどセクシーな姿だ。
花魁の煌びやかな和装とは違うものの、どことなくそれに似た妖艶さがある。
顔は日本人形のように整っており肌は色白で化粧をしている様子はない。
ちなみに女の子と形容したのは年下の女性のことを総じて女の子と呼ぶ普段の習慣からだ。
「おや、おかえりなさいませ、ヌシ様。思っていたより早かったですね」
女の子は僕の姿を見つけると両手を上に伸ばしてストレッチをしながらそう告げた。
まだ眠りから完全に覚めているわけではなさそうだ。
寝起き特有のゆっくりとした動作でアクビした口元を手で隠している。
「き、キミは…」
「あ、そうでした。この姿は始めてでしたね。ヌシ様に助けていただいたあの猫でございます」
女の子はそう言うと満面の笑みを浮かべた。
健全な男子ならこの笑顔を見てときめかないはずはない。
そう思わせるほど可愛らしい笑顔を見せてくれたものの、それ以上の動揺が心を支配して感情をどう表現していいのか分からず引きつった笑みを返した。
「き、キミがあの猫?」
「はい、助けていただいた猫の早雪(サユキ)と申します。お礼を言うのが遅くなり申し訳ありませんでした」
「さ、早雪?キミが…あの猫?」
「はい、この通り助けていただいた者でございます」
女の子は布団から足を覗かせ和服の裾をたくし上げた。
そこには治りかけではあるものの痛々しい傷の縫い目が見える。
「ま、まさか…いや、そんなはずは…」
「そのまさかでございます。なかなか言い出せずおりましたが、お帰りになる際にお伝えしようと思っておりました」
「嘘だ…嘘だと言ってくれ…」
「このような姿はお嫌いですか?何なら猫の姿に戻って見せましょう」
そういうと女の子は再び満面の笑みを浮かべた。
おそらく瞬きをするよりも短い時間だっただろうか。
一瞬という言葉が適切なほどのスピードで女の子はあっと言う間にあの黒猫の姿になった。
夢でも見ているのだろうか。
疲れから幻覚を見たという可能性もある。
試しに両手で頬を強く叩いた。
眠気が原因ならこれで解消されるはずだ。
頬から伝わってくる痛みは現実的で少し力を入れ過ぎたかもしれない。
思い切り叩いてしまったのでしばらく頬の痛みが引かなかった。
「ヌシ様、それは何ですか?」
「猫が喋ってる…。夢じゃ…ない…」
「まだ信じていただけないのですね」
黒猫はその姿のまま人の言葉を話した。
その声は先ほどまで目の前にいた女の子と変わらないものだ。
頭が混乱して全身から嫌な汗が噴出している。
心臓がいつもより強く早く鼓動して全身に血液を送り出し、身体は芯から熱くなっていた。
身体には妙な力が入って自分の意思で自由に動かすことができない。
金縛りにあったというのは大袈裟だが身体が言うことを利かないのは事実だ。
「ヌシ様、顔色がすぐれませんわ?」
「本当にあの猫なのか?」
「まだご理解いただけませんか?仕方ありませんね、少し時間を置けば理解もできるかと思います」
猫はそのままベッドで腰を下ろしてこちらを見ている。
透き通った瞳は吸い込まれしまいそうなほど綺麗だった。
姿そのものは今朝のそれと変わらない。
変わってしまったといえば人の言葉を話すようになってしまったこと、見ず知らずの女の子の姿に変身できるということだ。
この現実をどう受け止めろというのだろうか。
誰かに話をしたところで僕の頭がおかしくなってしまったと白い目で見られる未来が容易に想像できた。
混乱する頭は考力が著しく低下していることがわかる。
自分の部屋だというのに酷く居心地が悪い。
まるで見ず知らずの他人の家に上がり込んでしまったようだ。
借りて来た猫ということわざの通り、普段とは違って行動の一つ一つがどれもぎこちない。
無理やり身体を動かして近くのソファーに身を沈めた。
顔を動かすのも大変なので視線だけ移して壁に掛けてある時計を一瞥する。
時刻はまもなく正午になろうとしている。
そろそろお腹が空いてくる時間だというのに食欲が一向に沸いて来ない。
今はお腹を満たすよりこの混乱の解消が最優先事項だ。
無意識に大きな溜め息が漏れた。
これから猫との楽しい生活が待っていると思っていたのに、まさかその正体が人の言葉を話す見知らぬ猫だか女の子だか分からない謎の生き物だったとは。
幸いなことにペットとの同居は認められていないが、女の子との同棲は禁止されていない。
何かあれば彼女や妹ですとでも言い張れば言い逃れはできるだろう。
頭の中で徐々にこの猫の存在を受け入れつつある自分に驚いていた。
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