シーン4 そういうもの
今日は会社が休みなので心にゆとりがある。
ベッドから身体を起こそうとするとお腹の辺りにほどよい重さを感じた。
視線を移すと猫が丸くなって気持ち良さそうに眠っている。
昨晩はベッドを明け渡すようにと説得をすると素直にソファーへ移動をしていったので、今朝もその場所に居るものだと思っていた。
この子は寝静まった頃を見計らって気配を消しつつ大胆にベッドを侵略したようだ。
幸い苦しいと感じるような重さではなく、どちらかと言えば心地がよい。
寝ている間に何度か寝返りをうっていた記憶があるものの、その時はどうしていたのだろうか。
下手に寝返りをうてば身体で押し潰してしまう危険性もある。
今回は無事のようなのでホッと胸を撫で下ろした。
仕方がないので猫を両手で抱えて脇へと移動をさせる。
この時点で猫の目は薄っすらと開いていたものの抵抗はされなかった。
「まさか、確信犯か?」
その言葉を聞いて表情がわずかに変わり口許が緩んだように見えた。
いたずらっ子のように笑ったつもりなのだろうか。
どこか憎めない性格をしているため怒るという気持ちにはならない。
むしろ、手のひらの上で転がされている気分だ。
顔を洗って歯を磨き朝食の準備に取り掛かる。
朝は大抵洋食になることが多い。
買い置きのトーストを焼いて目玉焼きかスクランブルエッグを作るのが定番だ。
今回はトーストの上にマヨネーズで四方を囲む堤防を作り、真ん中に生卵を落としてそのままトースターの中の放り込むことにした。
焼く時間は普通にトーストを焼くより掛かるものの、フライパンを準備することなく目玉焼きトーストを作ることができる。
玉子の焼き加減は黄身が半熟になったところを狙うのがポイントだ。
あらかじめマヨネーズを使っているので余計な味付けは必要ない。
あとは焼き上がったところでトーストを目玉焼きごと内側に折り曲げサンドイッチのようにしてそのまま頬張るだけだ。
時短のズボラ飯ではあるものの何度食べても飽きないためこれも定番メニューになっている。
猫もトーストの匂いに釣られてベッドからこちらへやって来た。
すぐに餌を準備してやりたいところだが、まずはトーストの耳を小さくちぎって手のひらから与え様子をみる。
人間の食べ物は味が濃くなっているので与え過ぎは厳禁だ。
思えばこの短い間で猫の知識が深くなってきたように思う。
時間があればこの子のことをもっと知りたいと思った。
今は簡単に情報を集められる時代なのでとても助かっている。
猫を飼う上で最低限知っておかなければならない知識くらいは覚えておいて損はないだろう。
今朝も昨日買っておいた猫用の缶詰を与えることにした。
一人と一匹の朝食が終わったところで外へ出かける準備を始める。
今日は借りていたケージを獣医のところへ返しに行く予定だ。
それと昨日見た傷の状態についても聞きたいことがある。
縫い目は残っているもののあれほど早く傷口が塞がるものなのだろうか。
昨日に比べれば傷ついた足を引き摺る仕草も見られなくなってきた。
まだ完治というには早いものの回復の早さが気になっている。
そんなことを考えながら着替えを済ませた。
「ちょっと出かけてくるから、大人しく待っていてくれ。すぐ帰ってくるから」
猫にそう伝えると尻尾が垂れ下がり心なしか元気がなくなったようにも見える。
出かける間際、玄関まで見送りにきた姿は何とも微笑ましい。
後ろ髪を惹かれる気持ちを何とか抑え、戸締りの確認も済ませて外に出た。
あまり長い時間留守にするわけにはいかないので今日もタクシーを使って移動をする。
自家用車を持っていればちょっとした用事の際に重宝するのだが、一人暮らしで車を維持するのはそれなりに費用も掛かるため今のところその予定はない。
タクシーに揺られながら三度目となる動物病院に到着した。
今回は借りたものを返すだけなので用事は早く済みそうだ。
「こんにちは。借りたケージ、返しに来ました」
「うむ、律儀にありがとう。そこに置いてくれるかな」
獣医は一瞥してケージが並べられた棚を指差した。
何かの作業をしている途中で手が離せないらしい。
急いで処置室へ戻っていく背中を見送った。
気になって小窓から覗いて見ると急患で運び込まれた小型犬の治療をしているところだ。
聞きたい事もあるため処置が終わるまで待合室で待つことにした。
改めて病院の中を見渡すと白を貴重にした清潔感のある内装にセンスのよいアンティークの調度品が壁や棚に飾られている。
最初に来た時は気付かなかったが、あの時はそれだけ余裕がなかったということだろう。
獣医の趣味が何となくわかったような気がした。
日曜日の午前中ということもあり病院の外は行き交う車や人の姿が見える。
町の中心部から比較的郊外に立地しているとはいえ、この辺りは市内でも有数の住宅地や商用地として盛んに開発が行われる新興地域だ。
そういえば昔はこの辺りに広大な森が広がっていたと記憶している。
当時はまだ小学生の頃だったので、同級生たちとよく森に立ち入って探検や秘密基地を作って遊んでいた。
開発が始まったのは今から二十年ほど前になるので、当時の姿から考えれば発展の度合いは著しい。
昔の記憶を懐かしく思っていると作業を終えた獣医が待合室までやってきた。
「お待たせ。それで、何か用かな?」
「処置して頂いた猫のことです。言われた通り包帯を変えたんですが、ちょっと気になることがありまして」
「気になること?」
「はい、もう傷が塞がっていたんです。こんなことってあるんですか?」
「ああ、そのことかい。うーん、何と説明していいのかな。困ったな」
獣医は腕を組んで何かを考え込んでいる。
そして、一つ頷くといたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「野生で生きる動物は傷の治りが早いのを知っているかい?」
「そうなんですか?」
「うん、外敵に襲われないためにね。だから、人間と違って傷の治りが早くなっているんだ。もちろん、動物によって、それぞれの個体によっても治る早さは違うのだけれど、君の猫は特別治りが早い子だったじゃないかな」
「はあ?」
「あれ?これでは納得してくれないか。じゃあね、私が何故、そのまま退院させたと思う?それと、薬も出していないよね。人間だったら、傷口が化膿しないよう抗生剤を出すと思うんだけど、あの子にはそれが必要ないと判断したんだ。もちとん、入院している間に感染症の注射や止血の処置もしっかりと施しておいたからね」
饒舌に喋る姿を見てどこか納得してしまった自分がいる。
そもそも医療や動物についての知識がそれほど豊富というわけでもない。
それらしい理屈を並べられれば納得してしまうのは仕方のないことだ。
それにこの獣医が嘘や冗談をいう人物には見えなかった。
傷口が塞がっていたところを見ると腕のいい医者であることには違いない。
ただ、どこか引っかかる部分もある。
それが何なのか言葉にすることは難しいものの、今は深く考えるより今後のことを考えている方が建設的だ。
「な、なるほど…」
「君はあの猫が気に入っているんだろう?それだったら、出来る限り愛情を注いでやって欲しい。それが動物に関わる仕事をする私からの願いだよ」
「それはもちろん。一晩でかなり懐いてくれました。何となく表情から何を考えているのかわかるくらいには意志の疎通も出来ています」
「それは素晴らしい。きっと相性が良かったんだね。また、困ったことがあったらいつでも訪ねてくるといい。私でよかったら相談に乗るよ」
「ありがとうございます」
「それと、今後何が起きても決して驚かないであげてね。たぶん、あの子はそういうものだから」
「そういうもの?」
「いずれわかるさ。私はたくさんの経験をしているからね。勘というやつだよ」
どうにも腑に落ちない言葉であったものの詳細は教えてくれなかった。
そもそも本人が勘だといっているので根拠はないのかもしれない。
驚くことといっても猫を飼うのは初めてなので戸惑うこともあるだろう。
昨日も買い物をするだけで一苦労だったのだから。
そういう意味だと解釈すれば何となく獣医の言葉を理解することができた。
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