シーン3 一人と一匹の食事

 気が付くと辺りはすっかり暗くなっていた。

 猫を見守っている間にそのまま眠ってしまったようだ。

 背中らから温もりは失われ、先ほどまで身を寄せていた猫の姿はない。

 辺りを見回すとベッドの上で丸くなって眠っていた。

 猫は温かい場所を好むというので自分で過ごしやすい場所を見つけて移動をしたようだ。

 良く眠っているのでなるべく起こさないように行動を心掛ける。

 立ち上がったところで腹の虫が鳴いた。

 安心感から気が抜けてしまったようだ。

 そういえば昼食を食べていなかった。

 普段は三食きっちりと食べるタイプなので一度食事を抜いてしまうと身体の力が出ないような気がする。

 久しぶりにお腹が空いたという気持ちになった。

 どこかへ食事に出かけても良いがこの子を残したまま出かけるのは少し後ろめたい気持ちになる。

 幸い食料の買い置きがあるので今日は適当に済ませることにした。


 キッチンに立ってさっそく準備に取り掛かる。

 簡単なものなら調理ができるので食料の買い置きと相談をしながら今日のメニューを決めた。

 今日のメニューは買い置きの鯖缶とパスタのレトストソースを組み合わせた鯖トマトパスタ。

 基本的に麺は茹でるだけなので気を使うのはパスタソースくらいだ。

 一から作れば手間のかかる料理かもしれないがレトルトのソースを使えば作業は大幅に簡略化される。

 もっとズボラな調理に徹すれば、温めたレトルトソースを皿に盛り付けた麺に掛けているところだが、それでは味気ないので少しアレンジを加えるのが自分流だ。

 アレンジと言っても出来合いのレトルトソースにそのままでも食べられる鯖缶を合わせるだけなので難しいことはない。

 先に鯖缶を開封してフライパンへ豪快に中身を投入する。

 この時、煮汁をそのまま入れるのがポイントだ。

 少し温めるためにフライパンを加熱して煮汁から湯気が立ったところでレトルトソースを投入する。

 レトルトソースは本来なら湯煎や電子レンジでしばらく過熱しなければならないが、フライパンで調理をする場合はグツグツと沸騰するところまで熱を通せば問題ない。

 ただ、フライパンで沸騰させてしまうと湯煎をした時より水分が飛んでドロっとしたソースになる。

 時間がなければそのままと言うこともあるが、今回は気分が乗ってきたのでさらなるアレンジを加えることにした。

 フライパンにケチャップを適量投入して水分の確保と酸味を加え、隠し味のにんにくチューブを小指の先ほど搾り出しよくかき混ぜる。

 濃い味がよければここに粗挽き胡椒を加えればよい。

 パスタが茹で上がったところで湯切りをしていると、ベッドから起き上がった猫が足元までやってきた。

 美味しい匂いに誘われたのだろうか。

 今回は猫が好きそうな鯖缶を入れていることが原因だろう。

 ただ、レトルトのソースには原材料に玉ねぎが含まれているのでこの子に食べさせるわけにはいかない。

 

 「わかった、わかった。お前の分はちゃんと用意してあるから、待っててな」


 猫に向けた独り言も自然と様になっている。

 まだ正式に飼う事を決めたわけではないものの、すでに長らく一緒に生活してきたような気持ちになるから不思議だ。

 最初は警戒して牙を剥いていたのだが、今はすっかり大人しくなっている。

 この場所が安全だとわかって気を許してくれているのだろうか。

 何かのタイミングで嫌われてしまいわないよう少し意識しておく必要がある。

 自分の食事が出来たところでこの子の食事も用意した。

 買って来た荷物の中から猫用の缶詰を取り出して皿に移してやる。

 同時に水が飲めるよう水飲み皿も用意してやった。


 「これ、気に入ってくれるか?」


 返事のない猫に餌の皿を差し出した。

 食べるのか食べないのか緊張の一瞬だ。

 そんな不安もよそに猫は餌の皿に夢中だった。

 よほどお腹が空いていたのだろう。

 いつから食事をしていなかったのか分からないが、もしかすると朝から何も食べていなかった可能性もある。

 思えば一人ではない夕食は久しぶりだった。

 会社の付き合いで飲みに行くことはあるものの、基本的に夜は一人で食事をする。

 実家にいる時は両親や兄弟と食事をするのは普通だったが、一人暮らしを始めてからは今のスタイルが当たり前だ。

 一人と一匹の食事というのも悪くないと思った。

 ありきたりのパスタが今日はとても美味しく感じるから不思議だ。

 

 食事が終わって後片付けが終われば特にやることがない。

 ちなみに洗濯物や掃除といった家事は週末にまとめて行っている。

 普段なら少し時間を空けてシャワーを浴び、歯を磨いて眠るだけだ。

 一人の時間には慣れているものの決して静かな空間が好きなわけではない。

 ご近所へ迷惑のかからない程度にテレビやラジオをつけて耳から音を楽しんでいる。

 ただ、今はこの子が居るため環境に慣れてもらうまではそれも控えようと思う。

 今のところこの子優先になってはいるがそれが苦痛とは思わないから不思議だ。

 

 そういえばまだ名前を決めていなかったことに気が付いた。

 呼び名がないと何かと不便になる。

 オイとかオマエなどと呼ぶつもりはない。

 家族として過ごしていくにはしっかりとした呼び名が必要だ。

 食事を終えて満足そうにする猫を眺めながら最適な名前を思案した。

 ありがちな名前と言えば身体の色や外見からシロやクロ、チビやマルといったものが多いだろうか。

 他にも花や植物の名前、食べ物の名前であったりする場合も多い。

 とりあえず性別は雌のようなので女の子らしい名前を選んでやりたいところだ。

 ただ、すぐに良い名前が見つかるとは思えないので少し時間が必要だろう。

 できれば古風な名前を付けたいと思っている。

 

 名前を考えている間にシャワーを浴びることにした。

 今日は不思議と心地よい疲労感ある。

 仕事は半日だったとはいえ、初めての出来事が続いたので気持ちが休まる時間は思っていた以上に少なかった。

 むしろそんな緊張感が心地よい疲労感を生んでいるようだ。

 決して嫌なことをしたわけではない。

 どちらかと言えば自分から積極的に望んだことなので達成感にも似た感覚がある。

 こんな気持ちになるのは仕事以外では最近感じたことのない経験だ。

 仕事であれば思った通りに案件を消化することが出来ればやりがいを感じることもある。

 ただし、それはあくまでも仕事が無事に達成出来たという安心感も付随することなので、どちらかといえば楽しいという感情とは違う。

 そう考えれば猫と過ごす時間が自分にとって大きなものだということに気が付いた。


 シャワーを浴びて脱衣所を出ると扉の前で猫が待っていた。

 猫の表情は川崎と違って読み取ることが難しいが、何となく不安な様子にも見える。

 猫は僕の姿を確認すると自分の縄張りとでもいうようにベッドの定位置へと戻っていった。

 その後姿は軽やかではるものの、やはり傷ついた足を引き摺っているため痛々しく見える。

 そういえばそろそろ包帯を交換してやった方がいいだろう。

 あまり長くつけておくと剥がすのが大変になるだけでなく、治りにも影響してくるのだから。

 

 「うーん、えっとね、包帯を交換したいんだ。いいかな?」


 まだ上半身裸という風呂上りの状態で猫に話し掛けた。

 もちろん人間の言葉がわかるはずもない。

 しかし、何故かこの猫は人の言葉がわかっていると言った様子にも見えてしまう。

 そう感じたのはどこか観念した表情に見えたからだ。

 試しに近付いて見ると逃げる様子はない。

 頭を撫でてやると目を細くした。

 顎の下を撫でてやるとゴロゴロと喉を鳴らしている。

 完全に警戒心は失われておりリラックスしているのがわかった。

 

 着替えを済ませて包帯の交換に取り掛かる。

 やはり観念した様子には違いがなく包帯に手を掛けても逃げる様子はなかった。

 むしろ、これから行われることを悟ったように包帯から顔を背けている。

 まるで人間と同じような行動だ。

 ここは手早く包帯を交換してしまった方がお互いのためだろう。

 包帯を解いて外側を覆うガーゼを取りはずす。

 そして、傷口に覆いかぶさっている小さめガーゼに手を掛けた。

 しかし、しっかりと固着したガーゼを予想していたのに結果はそれを裏切るものだ。

 何の抵抗もなくガーゼは取り払われ、昨日見た痛々しい傷はすっかり塞がっている。

 縫い合わされた痕は残っているため怪我をしていたことは間違いない。

 まるで狐につままれたような気分だ。

 このままでも良い気がするものの、やはり大事を取って包帯を巻いておいた方がよいだろう。

 手早くガーゼと包帯を巻いて交換作業を終了した。

 借りているケージを返しに行かなければならないので、明日にでも獣医に聞いて見ようと思う。

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