シーン2 温もり

 翌日。

 昨日の出来事が夢ではなかったと気付いたのは指に巻かれた大袈裟なガーゼを目にしたからだ。

 あれからどうやって自宅まで帰ってきたのかよく覚えていない。

 暗い夜道を一人歩いて帰ってきたのだが無意識ながらも入浴と歯磨きだけは済ませていた。

 どうやら長年染み付いた習慣だけは身体が覚えていたようだ。

 今日はあの猫を迎えに行かなければならない。

 公園で拾った猫とはいえ心を開いてくれたことは正直なところ嬉しかった。

 両手から伝わってくる猫の体温は忘れかけていた温もりを思い出させてくれるには十分な出来事だ。

 今日は仕事が午前中までなので昼過ぎには迎えに行くことができるだろう。

 今後のことを考えながら会社に行くと上司が指のガーゼを見て驚いていた。

 やはり大袈裟なガーゼは一目を引くらしい。

 実際に利き手の人差し指を怪我しているので生活にもある程度の支障がある。

 ガーゼは取り替えなければいけないので帰りに薬局にも立ち寄る予定だ。


 「おいおい、狭山どうしたんだよ?」

 「ああ、川崎か。猫にやられた」

 「猫?お前、猫飼ってたっけ?」

 「いや、野良猫」

 「野良猫?ちょっかいでも掛けたのか?」

 「怪我をしてたから助けようと思って手を出したらこのザマだよ。まあ、何とか病院まで連れて行ったから、今日は迎えに行かなくちゃいけない」


 そこまでの話を聞いて同僚の川崎は眉間に皺を寄せた。

 彼自身は良く表情で感情表現をするため何を考えているのかわかりやすい。

 表情から感情を読み取るとお人好しが過ぎる性格を訝しく思ったらしい。

 彼とは違って仕事中はあまり感情を表に出していなかったので僕が冷血人間に映っていたのだろう。

 

 「狭山って人間らしいとろもあったんだな」

 「元から人間だよ」

 「うーん、それもそうか。でも、いいんじゃないか?猫の話をしてるお前の顔、生き生きしてるぞ」

 「え?」

 「思ったより面白いヤツだな。おっと、部長だ」


 川崎はそのまま自分の持ち場へ戻っていった。

 彼の言葉で心の奥がザワザワとしている。

 生き生きしていたという言葉を掛けられたのは初めてだ。

 思えば会社でプライベートの話をするのはこれが初めてだった。

 川崎とはよく昼食を食べる仲ではあるものの、会話の内容はほとんどが仕事に関するもので決して面白い話ではない。

 彼自身はどちらかと言えば面倒見の良い性格なので昼食中の会話が仕事の内容であってもちゃんと話しについてきてくれる。

 それに気づくことができたのはやはり昨日の猫のおかげだ。


 仕事が終わると同時に会社を出た。

 本来なら翌日以降の仕事が楽になるよう次の準備をするために居残るところだが、今日ばかりは早く帰らずにはいられない。

 会社を出たところでタクシーを捕まえて昨日の動物病院へと急行する。

 病院に着くと昨日の獣医が出迎えてくれた。

 

 「おや、アナタでしたか」

 「あの子を迎えに来ました。容態は…」

 「心配要りません。少し食欲がないようですが、身体を休めればそのうち回復するでしょう。それよりも、アナタのガーゼを取り替えた方が良さそ…」

 「遠慮します!」


 獣医の話を遮るように申し出を断った。

 またあの痛い思いをするのはできる限り避けたいところだ。

 あとで薬局に寄るつもりなので自分で処置をすれば事足りるだろう。

 

 「そうですか。では退院の準備をしましょう。待合室でお待ちください」

 

 獣医は処置室に戻ると昨日の猫をケージに入れて戻ってきた。

 よく見ると足には真っ白な包帯が巻かれている。

 

 「お待たせしました。こちらのケージはお貸します。後日お持ちください。それと、包帯ですが傷が治るまで何度か交換が必要です。処置に自信がなければまた連れて来てください」

 「ありがとうございます」

 「それと、この子アナタの飼い猫ではりませんね?」

 「な、何故それを?」

 「いくつか思うところがありますが、一つは首輪をしていなかったところでしょうか。

大切に思われている割には首輪をつけていなかったので疑問に思っていました。今はICチップというもので個体の識別もしています。調べさせて頂きましたがこの子にはそれがありませんでした」

 「確かにその通りです。この子は昨日、公園で怪我をして動けなくなっているところを見つけてここへ連れて来たんです。どうしても放っておけなくて…」

 「なるほど、そういうことですか。このまま飼われるおつもりですか?」

 「たぶん、そうなると思います。まあ、この子が僕を気に入ってくれたらの話ですけどね」 


 獣医からケージを受け取って退院の手続きをした。

 人間のように保険の適応ができないので請求された金額はそれなりだ。

 治療に加えて入院費も含まれているためこれくらいの出費は仕方がない。

 出費のことは気にしないと自分に言い聞かせて病院を後にした。

 本当はこのまま薬局に寄りたいところだがこの子をこのまま連れて歩くわけにもいかない。

 再びタクシーを拾って一度家に戻ることにした。

 このままこの子を飼うことが出来るだろうか。

 そもそもアパートでペットを飼っていることが大家に知られたら追い出されてしまう可能性もある。

 今のアパートはペットとの同居は不可という条件が付いていたのだから。

 その時はその時と割り切って今はできることをしよう。

 心が決まると次の行動は早かった。

 まずは当初の目的であった薬局へ買い物にいかなければならない。

 アパートから歩いて数分のところにドラッグストアのチェーン店があるのでそこで必要な物を揃えようと思う。

 ケージを部屋の隅に置いて上からバスタオルを被せた。

 これは初めての場所で不安にさせないテクニックの一つらしい。

 専門的な知識はなく猫も飼ったことがないので獣医のアドバイスに従っただけだ。

 

 ドラッグストアでの買い物は普段と違って少し戸惑うことがあった。

 まずは自分の為に消毒液とガーゼを購入する。

 ここまでは問題なく買い物は順調だったのだが、ペットのコーナーに移動したところで買い物をする手が止まった。

 棚には各種さまざまなタイプの餌が並んでいる。

 カリカリと呼ばれるドライタイプ、缶詰などに代表されるウエットタイプ、その中間のソフト・セミモイストタイプがあり、さらに年齢別や特定の用途に対応した物まで多種多様だ。

 値段もそれぞれ違っていて低価格なものから高価なものまで多岐にわたる。

 基本的に猫の知識がないため何を買えばよいのか分からずしばらく棚の前で立ち尽くしてしまった。

 商品の裏面とにらめっこをしながら時間だけが過ぎていく。

 なるべく気に入ったものを購入したと考えているものの、やはり好みになるのでこの場で決めるということは難しい。

 結局、一種類と決めず気になる商品をカゴに入れて反応を見ることにした。

 他にも猫が用を足せるトイレと砂、ペットシートなどを購入して帰路を急いだ。

 どれかは気に入ってくれるだろうと期待しつつアパートに帰るとケージの中で音がしていた。

 慌ててケージに駆け寄ると不安になった猫が中で暴れていたらしく牙をむき出しにしている。


 「悪かったな、一人にして。大丈夫だから、落ち着いてくれ」


 ケージの入口を開けると猫は勢い良く外へと飛び出した。

 俊敏な動きをする辺りはさすが猫と言ったところか。

 怪我をしている割には元気があるようだ。

 後ろ足はまだ満足に動かすことができないので引き摺っている姿が痛々しい。

 猫はそのままソファーの下に駆け込んでこちらを睨んでいる。

 初めての場所に連れて来られて混乱しているようだ。

 そもそも安心させる対処として行った行動に何かを間違えてしまった気がする。

 もう少し環境に慣らして様子を見てからケージの外へ出すべきだったのだろう。

 今度は広い空間に放り出されてしまい落ち着かない様子だ。

 今さら仕方がないので落ち着くまで根気よく見守るしかない。


 その間に買って来た荷物を取り出して指に巻かれたガーゼの交換を開始する。

 あまり指先が器用な方ではないため交換作業は慎重の上に慎重を要する。

 まずは外を覆う大き目のガーゼを取り除き、傷口に密着する小さめのガーゼに指を掛けた。

 簡単に外れないのは傷口の血や体液と癒着して剥がれにくくなっているためだ。

 こんな時は無理にはがさず消毒液を使って少しずつ取り除くしかない。

 今回は自分で行っているため作業は慎重に行えるが、あの獣医に任せれば大胆にガーゼを引き剥がして交換を終わらせただろう。

 想像をしただけでも背筋が冷たくなる。

 一つ大きく息を吐いて気持ちを落ち着けた。

 覚悟を決めてガーゼを剥がしにかかる。

 良く観察すると思ったよりもしっかりくっついているようだ。

 長期戦を覚悟して痛みに耐えた。

 ガーゼの交換にどれほどの時間を使っただろうか。

 途中で嗚咽にも似た声が漏れていたことは自覚している。

 あと何回この作業をしなければいけないのだろうか。

 考えただけでも気が滅入ってしまう。

 そんな時だった。

 背中に何か温かいものが当たっている。

 ゆっくり振り向くと猫が背中に身体を預けて丸くなっていた。

 いつの間に近寄って来たのだろうか。

 おそらくガーゼと格闘をしている隙を見て近付いて来たのだろう。

 先ほどまでの警戒はどこにもなくすっかり安心しきっているようだった。

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