人外のカノジョなしでは生きられない
@hizirian
シーン1 出会い
気が付くと三十路になっていた。
大学を卒業して親の勧めもあり地元の企業に就職。
元々、社長と父親は同級生という間柄なので昔からお互いに知った仲でもあった。
言ってみれば縁故での就職ではあったものの、同級生の息子だからといって甘やかされることはなく一般の社員と同等の扱いだ。
入社当時は同僚から社長と親しく話す姿を疎まれることもあったが、彼らと特別待遇が違ったわけでもないので特に気にしては居なかった。
どちらかと言えば陰で努力をするタイプなので必死に仕事を覚え、残業も厭わない姿勢は直属の上司からも一定の評価を受けている。
ただ、それが良かったのか、今になって思えば疑問にさえ思う。
それはこの三十年間、一度も異性とお付き合いをした経験がないからだ。
同級生や同僚の中にはすでに結婚をして子育ての真っ最中という境遇の者も少なくない。
どちらかと言えば世間は晩婚化が進んでいるとは言えこのまま一生独りなのかと不安さえ覚える年頃だ。
そもそも彼女さえ居たことのない人間に嫁が来るという姿は到底想像できるものではなかった。
両親も彼女を連れて来いと常々言ってはいるものの、女友達さえまともに連れて来たことがないのに彼女など明らかに無謀な話というものだ。
実際、両親は内心早く孫の顔を見たいと思っていることだろう。
先月、従兄弟に子どもが生まれたという話を聞いた時、父親の横顔が少し悲しそうだった。
やはり、孫の顔を見ずに逝くのは親不孝というものだろう。
頭ではわかっているものの、どうしたら彼女が出来るのかその方法さえわからないのだから今のところ打つ手はない。
彼女を作るにはどうするべきか、何も手を打ってこなかったといえば嘘になる。
まずは外見を気にするという最低限の身だしなみはクリアしているつもりだ。
無精髭を生やしているわけでもないし、髪も清潔感を出すために短く切りそろえている。
服装はどちらかと言えばあまり個性的ではないものの、物の本で学んだスマートカジュアルを心がけているので一言で言えば無難だろう。
残念なことにこれと言って趣味がないというのは弱みだろうか。
旅行や温泉は好きなので休みの日には比較的外出をするのだが、今のところ旅先で異性と出会ったためしはない。
一人の時間が長いとどうしても自問自答する時間が長くなってしまう。
結果として自問自答の終着点はネガティブなものであることが多く精神的に参ってしまう。
それが普通ではないと気が付いたのは社交的で彼女が何人も居るという同級生の話を聞いた時だった。
人一倍器用な性格をしているらしく時間があれば次はどの彼女とどこへ遊びに行こうか考えを巡らせているようだ。
誰かのことを思う時間があれば必然的に自問自答をする時間はなくなってしまう。
そうすればネガティブな考えにも陥らず精神衛生上も常に前向きになれると言っていた。
その話に納得をすると当時に彼が別の世界の人間のようで眩しくて直視できなかったことをよく覚えている。
彼のアドバイスは何か一つでもいいからやりたい事を決め、一歩踏み出してみることが大切だと教えてくれた。
待っていても状況は好転しない。
自分から状況を好転させるために今いる場所から前に進むしか方法はないということらしい。
もっともな意見で何も言い返すことができなかった。
そもそも今の会社に入ったのも何か強い思いがあり、自己実現のために選んだ仕事というわけでもない。
むしろ、よく知っている人が社長をやっているから安心だろうという安易な気持ちがあったことは確かだ。
それを考えれば今の状況が周りに流されてたどり着いた場所だということに気が付く。
いまさらかもしれないが、自分がしてきたことはあまり正しい選択だったと言えないだろう。
この考え方自体もすでにネガティブが始まっているので早々に脱却する必要がある。
思い立ったが吉日というのは実に合理的な考え方だと思う。
やりたいと思った時が始め時なのだから。
会社の帰り道、気分転換にと普段とは違う道で家路を急いだ。
車通りの多い幹線道路を避けて住宅地の路地を抜けるルートは幼い頃に持っていた冒険心をくすぐるのに必要にして十分だった。
最後にこんな気持ちになったのはいつ頃だっただろうか。
それさえも思い出せないほど遠い日の記憶だ。
自然と足が前へと進み身体が軽くなったようにも感じる。
そんな時だった。
ショートカットをするために公園を横切ろうとしていると植え込みの中から物音が聞えた。
普段なら聞き逃してしまいそうな小さな音だったが何故か今日ははっきと聞えた。
もう一度同じ場所から物音が聞え、音の主が気になって仕方がない。
茂みに近付くと後ろ足に深い傷を負った黒い猫がうずくまっていた。
どうやら他の猫とケンカをしたのだろう。
痛々しいその姿は何故か自分を見ているようにさえ思った。
誰かに助けを求めたいのに、どうして良いのかわからない姿がそこにある。
無意識に手を差し伸べると猫は前足で強烈な猫パンチを放った。
爪をむき出した一撃は右手の人差し指を深く抉り出血が始まっている。
思ったよりも傷が深かったのか出血はすぐに止まらなかった。
ポタポタと滴るほど血が流れ出ているのに何故か痛いという感情は沸き起こらずどこか他人事だ。
内心では猫を不安にさせないよう平静を装う気持ちが勝っている。
そんな熱意が伝わったのか猫は震える身体を持ち上げると差し出した両手の匂いを嗅いだ。
その間も警戒心を与えないようゆっくりと腰を下ろして視線の高さを下げてやった。
しばらく膠着状態が続いていたが、その均衡を破ったのは猫の方だった。
猫は身体を振るわせながらも傷ついた右手に顔を近づけて頬ずりをしている。
まだ完全に心を開いたとはいえないが当初よりはいくらかマシだろう。
両手で包み込むように猫を抱えると不思議と無抵抗のままに抱き上げることができた。
そこからのことは正直あまり覚えていない。
無意識に猫を抱えたまま公園を飛び出し、タイミングよく現れたタクシーに乗って夜間診療を行っている動物病院に駆け込んだ。
普通、自分のペットでもなければここまでする必要はなかったのかもしれない。
ただ、この判断は正しかったようでこのまま処置が遅れていれば傷ついた足は動かなくなり最悪切断もありえるような酷い状態だったようだ。
開いたままの傷口を塞ぎ感染症を防ぐための点滴を受けさせることになった。
診療台で暴れないよう鎮静剤を投与して賢明な治療が続いている。
「やれるだけのことはやりました。あとは彼女の生きる力がどれだけ残っているか…」
「先生、この子は死なないですよね!?」
「お、落ち着いてください。酷い怪我ではありましたが、命に別状はありません。ただ、傷口が完全に塞がるまでは感染症の心配もあります。元気になるまで出来る限り愛情を注いであげてください」
「そう…ですか。よかった…」
獣医の言葉に緊張の糸が切れてしまい膝から床に崩れ落ちてしまった。
身体から力が抜けるということはこのことだ。
自分でもここまで緊張していたのだと気が付かなかった。
「それよりも気になったことがあります。アナタ、手を怪我されていますね。それはこの子に?」
「え?ええ、まあ…」
「それはマズイですね。早く消毒をした方がいい。放置すると取り返しのつかないことになるかもしれません」
放心状態の僕をよそに獣医は慣れた手つきで消毒液とガーゼを取り出し傷口の処置を始めた。
今まで痛みを感じていなかった傷口に消毒液が染みると自分でも驚くほどの悲鳴を上げ、この世の終わりかと思うほどにのたうちまわった。
それでも獣医は顔色を一つ変えることなく消毒を済ませてガーゼで傷を覆っていた。
「この処置に関する御代は結構です。お大事に。それと、あの子は一晩入院させましょう。明日迎えに来てきてください」
獣医は淡々と業務連絡のように話を終えるとにこやかに笑った。
心根は優しい人のようだが仕事熱心が過ぎて少し怖いと思うところもある。
今日のところは猫を病院に預けて帰宅することにした。
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