時雨逅太郎

 僕は手の中の簪をころこと弄んでいた。簪を見ると恋人のことを思い出す。僕の恋人は簪が好きでよく玉虫のような鈴を頭でちりちりと揺らしている。僕の恋人は長い髪を結い上げて美しい姿でいつも僕の目の前に現れる。

 彼女の簪を外して口づけをする時、僕はよくない妄想をする。いや、衝動か。僕はこの手に持った簪を彼女の首に刺しこんでやろうと、その光景がありありと僕の目の前に浮かんでくる。サイコなものではない。彼女の身体をずたずたに切り裂くような有り様ではない。ただ彼女を後ろから抱き締める時、すらりと流れる首筋と妖艶な鎖骨との間に簪を、

 すぅっ

 と。入れ込んでやりたいのだ。もちろん簪はそんなに鋭利なものじゃない。実際にそんなことは不可能だ。だが空想の中の僕があまりに容易く首元に簪を差し込むものだから、僕は彼女の鎖骨を、愛撫するように簪で何度も行ったり来たり。ここでさっくりと入るはずなんだ、等と思いながらなぞり続けるとやがて彼女はその身体を縮めて、熱い吐息を、はぁ、と吐く。僕の試みはそこで終わる。

 彼女に簪を差し込みたいのか差し込みたくないのかよく分からない。衝動があったら、それはしたいことなのか。そこまでの熱意はないのだけれども、僕は麗人に誘惑でもされたかのように衝動が沸き上がるのだ。簪を見ると。あの玉虫色の鈴が、ちりちりと、彼女と僕のそばで肢体を揺らしながら。あの簪が最早彼女の一部に見えて仕方がない。

 手の中の簪には鈴などない。これは今さっきの道すがら拾ったよく分からない代物で、酷く劣化していた。僕が簪に異常なほどの執念を見せていなかったらこれを拾うことなどなかっただろうが、その僕でも五分とするとゴミ箱を探し始めた。要らない。単純にゴミなのだ。

 しばらく歩くとふたつきのゴミ箱を見つけた。この道は数年と通ってきたが、こんなところに立派なゴミ箱だ、と思った。見上げると、キラキラ光るようなマンションが建っていて、ここの住人達の要らぬものが次々と放り込まれているのだろうな、等と思った。簪を捨てた。玉虫色の鈴音が恋しい。

 簪が突然、僕の方に先端を向け、首に突き刺さる。そんな白昼夢を見た。僕の右に錆びた鋏のように軋みながら。僕は首が重みを感じているかのようなそんな錯覚に踊りながらゴミ箱を離れた。

 さてすることもないしと家に帰ろうとする道すがら。僕の恋人が前からやって来た。ああちょうど君のことを考えてたんだ。僕は嬉しくなって手を振ると彼女は小走りで駆け寄ってきた。

 彼女は簪をしていなかった。まるで漉き下ろされたかのような黒髪をたなびかせ、あどけなく笑う僕の恋人。

 別によかった。

 軽い挨拶と軽いハグ。また明日ねと去り行く姿をずっと見ていたい。ぼーっとしていると彼女がこちらに気づいてもう一度手を振った。

 彼女に簪を差し込みたいとは別に考えなかった。簪がないのだから。僕は自らの首元をなぞる。僕がいつも思い描いている位置。ここじゃないといけない気がしている。いつもここじゃないといけない気がしている。

 鍵穴みたいにすっぽりと、ここに簪を差すべきなのだ。頭じゃなく、この首に。差し込んでおくべきなのだ。鍵のように。あの簪を彼女のここに。

 僕はふと捨ててきた簪のことを思い出した。思い出すとなんだか居ても経っても居られなくなってゴミ箱に走って戻った。ゴミ箱から簪が消えてしまっているのでは、そんな焦燥感にも駆られ、シュレディンガーの猫でも確認するかのように、そっとゴミ箱を開けた。簪はあった。僕はその簪を握ると、ゴミ箱の中のゴミ袋にずぶりと差し込んだ。

「よし」

 爽快な気分だった。今開けているのは悪臭漂うゴミ箱だが、新鮮な春風が僕の身体を通り抜けたかのように感じた。僕はゴミ箱を閉じるとスキップ混じりに帰路についたのだった。

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時雨逅太郎 @sigurejikusi

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