第144話 いとしいとしと呼ぶ声は 九

 あたしは桔梗ににっこりと微笑んでみせた。



「それで桔梗殿の話は」


 あたしはすっかりぬるくなったコーヒーをちょっと飲んでから、桔梗に水を向ける。

 すると、桔梗の頬にほわっと朱がのぼる。

 お、もしかして……。


「実は……わっちにもいい人が……。おたいさんの婚礼で話した通り……」

「まあ、めでたきこと。どのような方でおりんすか」

「馴染みの……倭文しず屋の若旦那でありんす」

「あれ……あの大店の?」


 倭文屋はその名前の通り、反物を扱う呉服屋だ。しかも、もうめちゃくちゃすごい繁盛店。ここで仕立てた着物は江戸の女の子の憧れで、上流階級にも人気って話。

 て、ええー! すごいやん! 大金持ち!


「若旦那もわっちを憎からず思うておいででな、その……わっちをさいにしたい、と……」

「そこまで! では身請けの話ももう出ておりんすか?」

「それはわっちがいなやと……」

「なぜ? 好いた殿御に落籍されるのは望むことだと先にも桔梗殿は申していたはず」

「……恐ろしゅうなりんした……」


 あたしは、ツンデレで思い切りのいい桔梗の口から、イメージとは違う言葉がこぼれてきて驚く。恐ろしい? あの桔梗が?


「これは桔梗殿らしくもない」

「山吹殿の言う通り、わっちは、吉原の中のことならば怖いもの知らずでござんす。けれど、江戸の街に出て、大店のお内儀になれるかと考えなんすと……。わっちは貧しい百姓の娘、それが栄えた商家の切り盛りができんすのか、子をなしてよう育てることができんすのか……若旦那に深く肩入れされるたびに、わっち、しんねり考えてしまいんす」

「あれ……」

「囲い者なら屋敷で笑っていればようござんす。ええ、囲い者にしたいという話ならば、わっちはすぐに身請けを受けなんした。けれど若旦那はそうは言いんせん。わっちにあの倭文屋のお内儀になって、御大層な家に住み、跡継ぎを産んでほしいと言いなんす。そう思えば、なまなかに若旦那に「はい」と答えるのもはばかられて……のう、山吹殿、わっちはいい妻になれんしょうか?」


 桔梗がすがるような目であたしを見た。


「わっち、若旦那をまことに好いてしまいなんした。ゆえに、このことを、玉の輿じゃと軽々しゅう喜べやしやんせん。わっち、若旦那を気落ちさせとうはありんせん……」

「なるほど……」


 桔梗のためらい、わかる。好きだけじゃ踏み出せない理由も納得できる。確かに、花街だけで生きてきて、いきなり堅気の奥さんになって!って言われたらためらうかもしれない。

 でも。

 それはもったいないよ。

 好きな人に好かれるなんてマジなミラクルに出会えたんだから、今度はそのミラクルがずっと続くようにがんばればいい。

 好きな人のためなら、できるでしょ?


「桔梗殿」

「あい」

「なれど、身請けは嫌だと申しても、若旦那が気落ちするのは同じでは?」

「さ、さよ申されればその通りでござんすが」

「確かに大店のお内儀となれば苦労はござんしょう。子のころに売られた身では、自らが親になり子を育てるのに気がかりがあっても致し方ないことでござんす。されど、まだ起きてもいないことを憂うて、いとしき殿御の手を離すのは異なことではありんせんか?」


 桔梗のまなざしは、まだじっとあたしにそそがれたままだ。


「わっちも土屋さまのお話を受けるのを、さんざん迷いなんした。今でも気がかりはありんす。それでも、わっち、必ず二人で幸せになると誓いんす。それが、土屋さまとわっちの間でいっとう大事なことだと思うからですえ。桔梗殿はいかがでござんしょう。桔梗殿がおらずとも、若旦那は幸せになれるとお思いでありんすか?」

「あ……」


 桔梗が、ちいさな声をあげた。そして、ほっそりした指先を胸に当てる。


「おわかりになったようでおりんすな。ならば、体裁より、その気持ちを大事にしなんし。好いた殿御とならばどこまでも行けまする。おたいさんのくれた花、無駄にしては罰が当たりますえ」

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