第143話 いとしいとしと呼ぶ声は 八

 そんな風にしてあたしは、少しずつ引退の準備を進めていく。引退と夢を諦めることは同義じゃないってわかったから。

 でも、そのためにやることはたくさんある。

 お馴染みのお客さまたちへのご挨拶、桜と梅たちのこれからのこと、品物の手配、そして――。


「山吹殿」

「あれ、桔梗殿、良いところに」


 そして、戦友への、宣言。


「「わっち、話が」」


 そう思って、廊下ですれ違いそうになった桔梗を呼び止める。それから、お互いに同じことを言いかけて、あたしたちは思わず吹き出した。


「なんでござんしょう。どうぞ、お先に」

「山吹殿こそ」

「では、お言葉に甘えなんして。ああ、その前に、わっちの座敷に来てくんなんし。ここでできるような話ではござんせん」

「わかりんした」


 うなずいた桔梗と、あたしは自分の座敷に戻る。

 じっくり話したいから、桜と梅にあったかいコーヒーをオーダー。

 そして、二人で湯呑を手に話を始める。


「おたいさんの婚礼、ようござんしたなあ」

「ええ、まっこと」

「それでの、桔梗殿……桔梗殿には話そうと。その、わっちにも身請けの話が来ておりんす」

「まあ、なんと」


 桔梗が切れ長のはずの目をまんまるにして、驚いた声をあげた。


「ほんに?」

「あい。馴染みの御大名から話を頂戴なんして、長く悩んでおりんしたが、こたび有難く受けることにいたしんした」

「……その客を、好いておりんすか?」


 ちょっとの沈黙のあと、桔梗がめずらしくおずおずといった感じで聞いた。

 なんだか、なにかを怖がってるみたいだ。


「もちろん! 他にも身請けを申し出た客はおりんしたが、わっちが選ぶのは土屋さまだけ。心の底から好いておりんす」


 いまならわかる。土屋さまを思うと胸が苦しくなったのも、弱音を吐かれたら叱咤したくなったのも、みんな、あたしがあの人に本気だったから。

 簡単なことだったのに、気づくのは難しかったね。


「さよでおりんすか……」


 そう言って、ほう、と桔梗が息を吐く。


「どうぞ、続きを」

「とは言っても落籍ひかは今日あすの話ではござんせん。馴染みに挨拶もせねばなりんせんし、桜と梅のこともありまする。まあ、幸い、桜と梅はよう育ちんしたゆえに、振新に……という話をお内儀さんはしておりんすが、その時は桔梗殿にご迷惑かけることもあるやもしやんせん。されど、未熟者のすることだと、どうかよしなに……」

「ようござんす。山吹どんの妹分はわっちにとっても妹分。椿と一緒に面倒をみんしょう」

「ありがとござりんす。ただわっちのこと。ただの身請けにはなりんせん」

「なんと?」

「皆を驚かせたくて、まだお内儀さん以外には内密にしておりんすが、桔梗殿には特別に――」


 あたしは桔梗の耳元に顔を近づけて、お内儀さんに前代未聞と言われたあたしの計画を囁く。


「……え! そたあこと、まことに……?!」

「あい。わっちの夢は名実ともに吉原いちの花魁になること。落籍ごときではその足を止めませぬ。わっち、恋も夢も諦めませんえ」


 あたしは桔梗ににっこりと微笑んでみせた。



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