第120話 異国嫁取物語 拾~牡丹の覚悟~
場所をあたしの座敷にうつして、あたしと牡丹さんが向かい合って座る。
「牡丹殿」
あたしの呼びかけにも、うつむいたまま牡丹さんは答えない。
沈黙の中、二人を隔てる卓の上の、ふわふわしたコーヒーの湯気が宙に上がっていくのが見えるだけ。
「のう、牡丹殿、わっち、ややこしいいことはなにも言いませぬ。ただ、チェスター殿に不満もありんせんのなら、なにゆえ
「さよ申しても……」
「わっちはチェスター殿ともその友とも
牡丹さんは、お金や地位に惹かれてチェスターさんの所に行ったんじゃないとあたしは思ってるから。
ぶっちゃけ、牡丹さんはお金持ちのお客さまならたくさん持ってたし、武士とかの地位のあるお客さまだってそれなりにいた。
牡丹さんが望めば、その中には正妻として迎えてくれるお客さまだっていたはずだ。
でも、牡丹さんはチェスターさんを選んだ。
見た目も言葉も全然違うチェスターさんを。
ほと、と牡丹さんの目から涙が落ちた。
「牡丹殿?」
思わず差し出したあたしの懐紙を受け取って、牡丹さんがそれを目元に当てる。
「あい。まっこと恋しゅう思いなんした。唐渡りの絵巻物の
「ならばお屋敷の方になんぞ言われなんしたか」
「いな、いなでおりんすよぅ。皆さま方、ほんに優しゅうおりんした。わっちをれでぃと呼んでくんなんして、それはもう、ひいさまのように……」
あたしはさっぱりわけがわからなくなる。
牡丹さんは泣いてる。
でもチェスターさんとケンカしたわけでも、お屋敷の人にいじめられたわけでもないらしい。
じゃあ、なんで?
なにが牡丹さんを泣かせるの?
「……されど……それらみな、わっちにはもったいないことでありんす……」
すっと、牡丹さんが顔を上げた。
そして、きゅうっと唇を噛んでから言葉を続ける。
「わっちはてて親もいない身。独り身で誰とも知らぬ子を産んだ
「さよでござんす。幸せになりなんし。チェスター殿もさぞ心配しておりんしょう。早う屋敷に帰りなんしな」
「いけませぬよぅ」
泣きながら、牡丹さんが微笑んだ。
「チェスター殿のお傍にいるほど、申し訳なくなりまする。チェスター殿は、わっちが思いなんしたより、ずうっと高貴な身分の方でおりんした。不義の……卑しいわっちがいてはならぬお方……」
「なにを言いなさる!そたあ理由だけでチェスター殿を見捨てるのでありんすか!」
「だけ、ではござんせん。それがすべてでおりんす。いまのようにチェスター殿の気が逸っているうちはようござんしょう。でも……チェスター殿はきっと後悔いたしんす。なぜ家柄の合う同じ異人の娘を選ばなんだかと。不義の子の花魁なぞを妻に迎えたかと……」
目元の涙をぐっと拭って、牡丹さんは見世でするように華やかに笑う。
心と裏腹なのが丸わかりの、見てる方が胸が痛むような笑顔だ。
「わっち、はじめは焦がれ浮かれておりんした。でもだんだんに正気に戻りんしてなぁ……。チェスター殿を好いたのならば、身を引くのが定めとようやっと心得ましたえ……」
……どうして?どうしてそんなこと言うの?
幸せになるのに資格なんてない。どんな生まれだって、どんな体だって、一生懸命生きてる限り、幸せにならなくちゃいけないんだよ!
なんだかあたしまで泣きたくなってくる。
そんなのおかしいって言いたいのに、うまく言葉が出てこない。
あたし、いま、現代での自分のことを思い出してる。どれだけ努力しても、産まれや育ちのせいで夢がかなわなかったことを。牡丹さんもそうなの?
そんなのいやだ。悔しい。でも。
ああもう、いまのあたしは頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「だからの、山吹花魁、わっちのことはもう気にせんでおくんなんし。わっちはまたよう働きまする。いつかは良い人もできるやもしやんせん。チェスター殿とのことは、ひとときの……けれど死ぬまでの宝といたしまする……」
牡丹さん……。
「それでは、わっちはこれにて……」
牡丹さんが立ち上がろうとしたとき、階下がざわめくのが聞こえた。
そして、そこに混じって少し変わったイントネーションの……。
「ボタン! マイレディ! 私の、ボタン!」
それは、チェスターさんの声だった。
<注>
ひいさま:「姫さま」のこと。「ひめさま」の音が「ひいさま」に転じたものです
てて親:父親のことです
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