第二章

第二章

久子が警察から亀山旅館に帰ってきたのは、かなり遅くなってからだった。

「おかえり、心配だったんだよ。なにか言われたかい?」

重子が久子に聞くが、久子は答えが出なかった。

なんと言っても、被害者はすでに死んでいる。そして夫が、その被害者におかしくさせられてしまったのは計算違いだった。

「ええ、まあ事件のことについて。夫については、正当防衛で、なんとかなると、警察も言ってました。加害者が、顔見知りでも何でもないし、特に何かあるわけでもない、ただの通り魔だったわけですから。」

「本当にそれですむといいんだけど。」

久子の話に、重子は心配そうに言った。この時は単に年寄りゆえの、心配性かと思った。

「お母さん、他には何もありませんよ。あたしは本当に、名の知れない通り魔が襲ってきただけだと思いますから。栄蔵さんもそうだとおもいます。」 

「そうね。そうよね。」

重子も、そうだねと言った。でも、そこには何か疑いの目が見え始めてきていた。

「杉ちゃんたちはどうしてる?」

久子はわざとずらした。

「もうこんな時間だし、当の昔に寝てますよ。」

そうだといいのだが。

「ちょっと話してご覧。警察で何か言われたでしょう?」

「お母さんどうしたんですか、そんな疑いなんか持っちゃって。ほんとにこれは、ただの通り魔事件ですよ。通り魔がたまたま栄蔵さんを襲っただけの話で、ほかは何もありません。それを栄蔵さんは返り討ちにしただけのことです。それは正当防衛で認められると思います。」

「そう、分かったわ。じゃあ、こちらにも考えがあります。栄蔵には、杉三さんたちが紹介してくれた小久保弁護士をつけさせましょう。さきほど、今西由紀子さんが電話してくださいました。すごく優秀な弁護士さんだそうだから、ちゃんと栄蔵を見てくださるでしょう。」

母はまた、おかしなことを言い始めた。こういうときは、国選弁護人で十分なはずなのだが?なんでまたそんなことを?

「じゃあいいですね。明日、小久保先生が来てくれるそうだから、一緒に病院に行ってもらって、お話を聞いてもらいましょうね。全くあの杉ちゃんという人は、色んなところに人脈があってすごいのねえ。」

まあ確かに、それはそうなのだが、何でもそうやって決めてしまう母に、久子は嫌悪感を持ってしまった。

その頃、杉ちゃんも由紀子もまだ起きていた。

「おい、寝られないじゃないか!」

というほど、水穂は咳き込んでいたのである。由紀子が水穂さんの背中をさすって慰めていた。

「少し薬のむか。吸飲みがないから、これで我慢してくれよ。」

由紀子が水穂のかばんから、赤い粒と黄色い粒の薬を出して、湯呑みで薬を飲ませた。次第に咳き込む音は静かになったが、二人の人物が話している声が聞こえてきた。

あれえなんだと聞いていると、杉三は、あることを直感的に感じとってしまう。

でも、由紀子さんにはいわないでおいた。とりあえず、明日に備えて、眠っておくことにした。

その翌日も、いつもと変わらない朝であった。奥大井の湖上駅には、また大勢の観光客がやってくる。杉三たちも、少し、接阻峡を散歩してきたらいかがですかと重子さんたちに言われたが、水穂のことがまだ心配だったので、それはやめておいた。テレビをつけると、キツネの帽子をかぶった通り魔が、返り討ちに会って殺害されたことを盛んに報道していて、一部ではやっと奥大井が安全になったという声も報道された。

ところがところが。警察に華岡警視がやってきて、須田昭男という男性が、殺された男性の顔をみたいというので、見せてやってくれないか、といった。須田は、富士にすんでいたが、狐の帽子を被っていることにピンときて、こちらにやって来たという。

「もしかしたら、その狐の帽子というのは、息子かもしれません。亡くなった妻が、買ったもので、肌身離さず持っていました。」

とりあえず、遺体を安置してある部屋に案内された。

「息子さんでしょうか?」

華岡がそう聞くと、

「はい。間違いはありません。息子の須田幹夫です。」

と、須田昭男は、わっと泣き崩れた。

「あの、本当に幹夫は、通り魔だったんでしょうか?それが、返り討ちにあって殺されたのでしょうか?」

「ええ。そう聞いていますけど。」

華岡がいうと、

「そうでしょうか?うちで飼っていたリスザルの世話も率先してしていましたし、妻の最期にもしっかり立ち会いました。そんなわけですから、他人に危害を加えることは、まずないはずなんです。絶対に誰かにマインドコントロールされたとしか思えません。幹夫が通り魔を起こすなんてあり得ない話なんですよ!どうか、その辺りをしっかり調べていただきたい!」

と、昭男は、華岡に突っかかるような態度でいった。

「待ってくださいよ。子供の頃は確かによいこだったのかも、しれないけど、それが大人になって犯罪者になる例はいくらでもありますよ。ほら、洲本の大量殺人だって、そうでしょう?そういう例は、本当にたくさんあるんですから。」

華岡が、犯罪人の専門家の立場からそういうと、

「いえ、それはありません。」

昭男は、きっぱりといった。

「幹夫は知的障害がありました。だから、いつまでも大人になれない、永遠に子供です。」

「そうなんですか!」

今度は華岡のほうがビックリする番だった。

「うちへ帰れば、療育手帳もしっかりありますよ。」

「わ、わかりました。ちょっとお伺いしますが、幹夫さんは、何をやっていたのでしょうか?」

華岡が、思わず聞くと

「はい。大工をしていました。言語的なコミュニケーションは、非常にむずかしい子でしたが、家をたてるとか、そういう作業には向いていたようです。よく、親方と一緒に、静岡県内の様々な場所で家をたてにいって、いく先々で手紙を寄越してくれました。ほとんどひらがなばかりでしたけどね。最近は、奥大井の老舗旅館の建て直しにいったようです。」

「奥大井の老舗旅館!それは何て言う旅館ですか!」

「いや、わかりません。固有名詞を覚えるのは、非常に苦手でしたので、いつも親方から名前を聞いて把握していました。」

「その、親方といいますのは?」

「はい、村井建設という、建設会社です。静岡県の様々な場所で、家をたてたりしています。」

これがわかると、華岡はすぐに、村井建設の所在地を調べるようにいった。部下が調べると、村井建設は、静岡市内にある建設会社であるようだ。そこで華岡は、部下を連れて、自らそこへ行ってみることにした。須田幹夫が、どんな勤務ぶりだったのか、それがどうしても気になったからである。

村井建設は、本当に小さな建設会社で、社長、つまり親方と呼ばれている経営者と、三人ほどの弟子で成り立っていた。そんなところにわざわざ老舗旅館が頼むのかと思われるほど小さかったが、日本的な和風建築の作り方を知っている大工の数が激減しているので、こういうところに頼むしかないのだと、親方は説明した。

「はい。須田さんなら確かに、うちで働いていました。あの狐の帽子は、確かにいつでもどこでもかぶっていました。」

と、華岡の問いかけに、親方は答えた。

「しかしですね、須田さんの住んでいるところは富士市ですよね。なんでまた静岡市のこんな離れたところに、働いていたんですか?」

「いやあそれは、わかりませんが、まあ、富士に知的障碍者を働かせてくれる職場がなかったからではないですか?それに、親御さんのできるだけ早く自立させたいという思いも、あったのではないでしょうか。」

「はあ、そうですか。それは俺もよくわからない言葉ですな。早く自立させたいというか、そもそも知的障害者なんですから、できる限り家族と一緒に暮らすべきではないのでしょうかな?」

「うーんまあそうですね。でも、最近はできるだけ親とは別々に暮らす方がいいという考えが流行っているみたいですよ。」

華岡がそういうと、親方はそう答えた。あーあ、こういうところこそ、障害者とは、困ってしまう者だろうな、と華岡は思った。

事実、自分の担当した刑事事件で、知的障害者が絡んでくると、親に捨てられてしまったという人も多いからだ。たぶんきっと、親が、終始面倒を見てくれたのに、それを突然切られてしまって、うまく対応できないのだろう。そこらへんの説明は、まだまだ不十分だ。

「で、親方。もう一回聞かせてください。その、須田幹夫ですが、勤務態度はどうだったんでしょうか?」

「ええ、至って真面目でした。普通のやつより真面目でした。なんでも、お兄さんが、重い病気にかかってしまったようで、僕は少しだけでも、お兄さんに何とかしてやりたいと、口癖のように言っていました。たしかに、知的障害があるというのは認めます。お客さんとの会話も長続きしないし、ほかの者が助け舟を出さないと、ものすごく混乱するんですよ。でも、其れと引き換えに本当にまじめによく働いてくれました。それは、親方の私が、保証します。」

と、いう事はつまり、優しくて真面目だったという事だったんだろう。そういうんだから。それがなんで、通り魔をやったのか。うーん、よくわからないな。と、華岡はあたまを傾げた。

「それではですよ。幹夫が最後に建設活動に携わったのは、どこでしょうか?」

「はい。えーと、井川の接阻峡温泉だったと思います。そこの老舗旅館の改築を手伝いました。名前はたしか、えーと、亀山旅館だったかな。」

華岡は、部下に亀山旅館を調べるように言った。急いで部下がタブレットを取りだして、亀山旅館と入れて調べてみると、

「い、いやー、遠いですねえ。こんな山の中に旅館があるんですか。こっりゃあ、通り魔というより、クマが出るんじゃありませんか?」

と、おどろいてしまうほど山の中であった。

「よし、今からそこへ行ってみよう!」

「何を言うんですか、こんな遠いところ、車で行っても着いたら夕方近くになってしまいますよ。」

部下にそういわれても華岡はお構いなしだ。丁寧に親方に礼を言って、すぐにパトカーに乗り込んでしまった。まったく、こういうところが、強引なんだからと、部下はぶつぶつとつぶやいていた。

そのころ。

杉三から、事情を聞いて、朝一番の電車で小久保さんがやってきてくれた。亀山旅館に着いた小久保さんは、すぐに、話を聞きに行きましょうと、とりあえず、栄蔵が入院している病院に向かう。

「亀山さん、もう落ち着いたかな?今日は、弁護士の先生が来てくれたのよ。一寸お話をしてみよう

か。」

と、看護師に言われて、呆然としていた栄蔵はやっと、顔を挙げた。

「ああ、もしよければ寝たままでも構いませんよ。初めまして。弁護士の小久保哲也と申します。」

すでに、高齢となっている、小久保さんだったが、かえって若手より、こういう人のほうが、安心感は持てると思われるところもあった。

「えーと、鉄パイプで殴られたそうですね。その時の状況とか、できる限り教えていただけないでしょうか?」

ところが、栄蔵は涙を流したまま、なにも答えを出すことができないようであった。

「あの、相手の男ですが、キツネの帽子をかぶった男というのは、間違いないですか?」

栄蔵は、そこだけは通じたようで、静かに頷いた。

「では、キツネの帽子をかぶった男に、何か心当たりはありませんか?面識があったとか、どこかであったことがあるとか。」

栄蔵は、頭をあげて、天井を見つめたまま、何も答えを出せなかった。

「あの、先生。申し訳ないのですが、もう、質問はその程度にしてもらえないでしょうか。余り、質問してしまうと、彼は、また混乱してしまうと思います。昨日も、私が質問した程度で、かなりショックを受けたようで、かなり不安定な状態でした。」

と、看護師が、心配そうに言った。

「まだ不安定とは?」

「ええ、まだ関連性は詳しく調べてみないとわからないのですが、医師によりますと、殴られた時のショックと恐怖で、かなり精神状態が安定していないそうです。」

「ああ、わかりました。じゃあ、一度退出いたしますよ。たしかに命を狙われたときのショックは大きなものですからね。ゆっくりペースでいいですから、よく治していってください。」

とりあえず、小久保さんは、今回は、退出することにした。軽く頭を下げて、部屋を出る。

病院の石段を歩いていると、

「心配になって、来ちゃったよ。」

杉三と由紀子に出くわした。

「あれれ、杉ちゃん。どうしたんですか?」

「いや、心配になって、こっちへ来ちゃったんだ。水穂さんの事なら、弁蔵さんが見てくれるから、大丈夫だって、言ってたから。」

杉三はカラカラと笑った。

「それでは、カフェでも行って、お話してみますか?」

「おう、待ってたよ。そうしようぜ。」

それでは、と言って、カフェを探したが、カフェらしきものはほとんど立っておらず、しかたなく接阻峡温泉駅の待合室で話すことになった。

「で、どうだった?亀山栄蔵さんは。」

「ええ、かなり精神的なショックが大きかったみたいでね。余り話もできなかったよ。ただ、きっと自分が襲われるとは思ってなかったんだろうね。まあ、それは誰でもそうなんだけど。それに、返り討ちにしてしまったことで、其れも大きな衝撃だったんだじゃないかなあ。きっと正当防衛とはいえ、人を一人殺してしまったわけだからさ。」

「だよねえ。ダブルパンチで、大変なこったな。被害者でもあり、加害者でもあるわけだからなあ。」

杉三は腕組をして、ため息をついた。

「奥さんは、平気なのかしら。あたし、そこが不思議でしょうがないんです。なんで平気な顔していられるんだろうなって。ご主人が、それだけ大変なのに。」

由紀子が、女性としての疑問を投げかける。

「平気な顔をしている?」

小久保さんがそう聞くと、

「ええ、そうですね。もしかしたら、奥さんが、人間的に強いだけなのかもしれませんが、平気な顔をして、おかみさんをしていると、いうところがまたすごいと思って。旦那さんが、そんなひどい状態なのに平然としているんですもの。」

「まあ、接客業だからねえ。顔に仮面をかぶって生きる技術は、それはなんぼでもあるだろう。」

杉三が口を挟む。

「ですけど杉ちゃん、少なくとも、身内の誰かがけがをしたり何とかしたりすれば、誰だって、態度が多かれ少なかれ変わるはずよ。それは、誰でもそうなんじゃないんですか?」

「うーん。そうだねえ。まあ、馬鹿な僕みたいに、すぐに感情を出さないと思うんだが、、、。」

由紀子の発言に杉三は、また揚げ足を取った。

そのころ、亀山旅館では。

「どうですか、ご気分は。」

と、弁蔵さんに言われて、

「はい、変わりありません。」

と、水穂は静かに答えた。

「今日は、いい天気ですよ。少し暖かくなるのではないでしょうか。昨日は、さむかったですけど、布団、足りましたでしょうか?暖かく、眠れましたか?」

「ええ、問題ありません。」

と、いってみたのだが、静かに眠れたのは、ほんの数時間だったのである。

「本当は、違うでしょう?」

弁蔵さんはそういった。

「本当は、結構苦しかったのではないですか?」

「あ、ああ、すみません。」

「いえ、言わなくて結構です。誰でも、他人に迷惑はかけたくないと思いますので、本当のことはなかなか言いませんから。」

弁蔵さんは、優しく言った。なんだか、経験者のような口ぶりだ。誰でも経験しないとわからないという事はあるが、その口調は、まさしく、介護を経験した人の口ぶりである。

「いいんですよ。ここでゆっくりしてくだされば。お昼、何か食べたいものでもありますか?」

「あ、はい。そうですね、、、。」

考えてみたが、思いつくことはできなかった。

「なんでもかまいません。適当に何か作ってください。」

「それはだめですよ。何か、食べなくちゃ。僕もそうだったんですけどね、どんな薬よりも、食べ物にはかないませんよ。食べ物に勝る薬なんて存在しませんよ。」

こんな発言ができるなんて、やっぱりこの人は、何かしら事情があって、誰かに看病してもらった経験がある人だと思われた。

「一体、このお宅には、何か訳があるのでしょうか?もしかしたら、僕たちがここに泊めてもらっているのも、何かわけがあるのでは?」

水穂は、弁蔵さんに言った。

「いえ、単に、水穂さんたちが大変そうだから、何かお手伝いできるかなと思って、提供しているだけですよ。」

「本当は、何かわけがあるんでしょう?そういう訳でもなければ、ここまで親切にしてくれるはずがないですから。」

弁蔵さんは、少し考えて、もうこうなったら、水穂に本当のことを言った方がいいのかなと思った。

「まあねえ、、、。仕方ないのかもしれないですけど。本当は、先延ばしにさせて起きたい事情がありまして。」

「先延ばし?」

「ええ、ちょっと難しい話ですけど、妹と、母が対立してましてね。何もできない僕は、返ってつらいんですよ。」

弁蔵さんは、結構つらそうに言った。

「妹、というと、久子さんですね。」

「ええ、久子は、とにかく、この旅館の経営方針をめぐって、母とよくケンカしてしてましてね。そのたびに、弟がよく仲裁に入ってましたが、よく怒鳴りあってました。女同士の喧嘩というのは、どうしてもそうなってしまうようですけれども。」

「そうですか、、、。たしかに、久子さんは、都会っ子という表現がぴったりで、こういう高級旅館の経営には向かないのではないかと、思われる人物でしたから。その彼女が、よくここになじめたなと、おどろいていました。」

水穂がそういうと、弁蔵さんは恥ずかしそうに言った。

「でも、彼女だって、やる気も何もなかったわけではないと思うんです。とにかくお客さんが、来ないので何かしようと、今時流行っている、洋風のメニューを取り入れたり、テレビに有料放送を取り入れたりしてました。ただ、それは、母には、この旅館を改善というより、改悪しているというしか見えなかったようなんです。それでよく、けんかしてました。僕はそのころ、体調を崩しがちで、療養しなければならなくて、長男のくせに、何も言えませんでした。本当は、僕が仲裁に入るべきですが、栄蔵が仲裁をしていたので、余り効果はなかったと思います。栄蔵は、割と、男のくせに気の弱いところがありましたからね。」

「そうなんですか、、、。」

過疎地域特有の問題への、考え方の違いを述べられたような気がした。

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