サスペンス篇1、奥大井湖上駅

増田朋美

第一章

奥大井湖上駅

第一章

亀山久子には、帰るところがなかった。

全くないわけじゃない。でも、夫である亀山栄蔵は、事務員の佐和子に夢中になっている。義母の亀山重子は、大女将として、亀山旅館を取り仕切っているし、義兄の弁蔵は、足が悪く、経営に関しては、なんのやくにもたたない。

「はい、ご予約ですね。はい、松田さま。はい、三名さまですね。お待ちしております。」

栄蔵が予約を取り付けたようだ。

「明日、お泊まりになるそうです。松田紗栄子さま。お子さんを二人つれて。」

「ああ、そうなんですね。松田紗栄子さまの次男さんは、海老かにが苦手なんでしたよね。確か、アレルギーが出たとかで。わかりました。じゃあ、海老かに一切抜きで料理を作らないといけないですね。」

板長をしている弁蔵は、足を引きずりながらいった。

「そうですね、よく心得ておくようにしてくださいよ。」

大女将の重子が、にこやかにいった。

この旅館、つまり、亀山旅館は、重子と、夫である栄蔵、そして役に立たない義兄の弁蔵との間のものになってしまっている。私が、てを出せるところは、ひとつもないじゃないか。久子は、やれやれというかおで、ため息をついた。

そんななか、インターフォンがなる。久子が出てみると、近隣の駐在さんがやってきた。ごめんください、と、頭をさげて、

「このごろ。通り魔がよく出るそうです。きをつけて下さい。例の狐の帽子を被った通り魔です。」

と、注意事項を述べていった。

ずいぶん、物騒な世の中になったものだ。こんなまわりは森ばかりの田舎に通り魔が出るとは。

でも、まだ殺人には至らないようだ。それはまだよかった。襲われた人はみな、軽傷で、命が危険になるほど、重傷なひとはいないという。

それでも、しっかり気を付けておかねばと、心しておくべきだった。それを伝えるのも、重子だった。

さて、その日。

「悪いねえ。わざわざ由紀子さんまで来てもらっちゃって。」

杉三と水穂、由紀子が、大井川鐵道のSLにのっていた。というのも、杉三が、スーパーマーケットの福引きをひいて、大井川鐵道の三人分の乗車券を引き当てたのである。

「まあ、いいじゃないの。どっちにしろ、僕も水穂さんも、暇人なんだし、由紀子さんも、有給いっぱい余っているようだし。」

そんな単純な喜びかたではないけれど、どちらにしろ、旅行にいけてよかったのだった。

「まあいいわ。あたしはすぐに、休みは取れるし、田舎電車だもの、あんまり文句は言われないわよ。」

由紀子もにこやかに言って話に入った。

「まあいずれにしても、今回は日帰りだが、たのしんで行ってこような。」

そう言われた水穂はもう疲れた顔をしていた。

「もうすぐ、千頭駅ですよ。」

SLモナカというお菓子を販売していた車掌さんがそういった。この線路ではホームが狭いので、車いすは二人以上の人に手伝って貰わないと行けないのだ。

「まもなく、千頭駅に到着いたします。井川線をご利用の方はお乗り換えです。」

社内アナウンスが流れて、みんな降りる支度を始めた。杉三は、車掌さんに手伝ってもらう。千頭駅のホームで降ろしてもらうと、アプト式電車と言われる井川線のホームへ連れて行ってもらう。この井川線の中でも随一の名物駅、奥大井湖上駅に行くのが今日の目的だった。なんとも、湖のど真ん中に駅が立っているというのだから。

三人は、井川線に乗せてもらった。さほどスピードは出ないけど、静かに走る田舎電車は、かえって癒やしの場所であった。斜面を走ったり、森の中を走ったりして、時にリスが電車の上に乗りそうになったりしながら、自然の中を走りぬけ、

「まもなく、奥大井湖上駅に到着いたします。お降りのお客さまは、お支度をおねがいします。」

と、社内アナウンスが流れると、多くの乗客が降りる支度を始めた。やがて、電車はトンネルに入って、しばらく暗闇の中を走る。そして、トンネルの出口から出ると、大きな湖を分断するように、電車が走っていくのだった。乗客がわあっと声を上げる。そして、湖の真ん中にある小さな島の上で電車は止まった。

本当に小さな駅ではあるが、テレビで紹介したこともあり、たくさんの観光客が降りている。傍らには、白無垢を着た花嫁さんと、羽織袴の花婿さんが、湖をバックに、写真を撮っていた。時おり、この駅で、結婚式も行われているようだ。駅のなかには愛を告げるとかいって、釣り鐘がつられていたり、サイン帳が置かれていたりしていた。

久子は、また今日もえきで、結婚式が行われているのを眺めていた。もう、あたしたちがああなることは、二度とないだろうと思いながら。あたしたちも、昔はあんな風に、祝福してもらっていたのに。

その日も、電車を降りた人間をさりげなく観察していたが、今日はそのなかに見覚えがある人物をみかけた。

「右城君。」

水穂は、誰かから自分のなを言われたような気がして、フッと振り向く。

「右城君でしょう?覚えてない?大学で同級生だった、」

ここまで言われると、水穂も、だれだかわかった。

「あ、中村さん。中村久子さん。」

「そうよ、あたしよ。久子。ただ、中村久子ではなくて、亀山久子だけどね。いまは。」

久子は、にこやかに笑った。

「こっちへ引っ越してきたんですか?確か出身は都内だったはずですが?」

「まあ、都会生活はあたしには合わないわよ。もうこりごりだから、いまは、亀山旅館に嫁いで若女将。ピアノをひく女将さん、何て言われていて。」

「へえ、そうですか。なんだか意外ですね。それに、右城は旧姓で、いまは、磯野です。」

水穂は、中村久子さんといえば、もっと、キャピキャピした明るい女性だったような気がして、そんな人物が旅館の女将とは、信じられず、目をぱちくりした。

「そんなにおかしいかしら?あたしが旅館の女将なんて。」

「この人、水穂さんの知り合いなの?」

由紀子がそう尋ねると、久子は、ちょっと嫉妬の火を燃やした。やっぱり、付き合っている人がいたのかと。

「はい。僕が大学時代に同じピアノ専攻にいた、中村久子さんです。」

「亀山久子よ!」

久子は笑っていった。

「へえ、こんな辺鄙なところに同級生がいるもんだな。僕は影山杉三。よろしくね。杉ちゃんとよんでね。こっちは、今西由紀子さんだよ。」

水穂たちの代わりに杉三がにこやかに答えた。いってみれば、右城君の引き立て役かと、久子は思った。

「で、今日は、何でまたこの駅に?」

「お客さん探してるのよ。一応この駅が、一番人が集まる駅だからね。もうこの地域も名物のない過疎地域だからね。予約に頼っていてはまずだめだわ。」

「へえ、そうですか。たいへんなんだね。」

杉三がそういうと、彼女は急に態度を変えて、

「ねえ。お食事だけでもいいから、うちへよっていきなさいよ。おかあさんにも、是非紹介したいわ。」

といい始めた。

「そういえば、あたしたちまだ、お昼を食べてないんだったわ。」

由紀子がそういうと、

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。水穂さんには、肉魚一切抜きで、何か食べさせてやってくれ。」

杉三も、そうお願いして、三人は久子の旅館にいってみることにしたのであった。

久子の旅館は、奥大井湖上駅のすぐ次の駅の、接岨峡温泉駅の近くにあった。まさしく森に囲まれた秘湯という感じで、温泉街もない、自然に囲まれた地域だった。

亀山旅館は意外にも、ピカピカの、まだ新しい建物であり、古くささはどこにもなかった。昨年に建て直したのだという。

「森に旅館があるというので、もう少し純和風の建物かと思ったが、意外にそうでもないんだな。」

杉三がそう呟くと、

「最近は外国の観光客が多いでしょ。それにあわせる必要があるのよ。」

と、久子は得意気に言った。

「とりあえず、食堂へ来てもらえないかしら?」

久子に続いて食堂にいくと、大女将の亀山重子が待っていた。杉三たちは、ちかくのテーブルに座らされた。

「まあまあ、久子さんの同級生ですか。それはそれは、大歓迎いたします。」

重子はとりあえず三人にお茶を渡した。

「どうしたの?おかあさん。なんだかまじまじと見ちゃって。あら、私にこんなきれいな人は釣り合いませんか?」

そういう、ちょっとおちゃらけていうところは、やっぱり久子さんらしいなと、水穂は思った。

「いえ、そういうことはありません。」

「久子さんの、同級生が来てるって?」

厨房から、にこやかな顔をして、義兄の弁蔵さんが顔を出した。

「お、お前さんもなかなかの二枚目じゃないかあ。」

「弁蔵、この三人に何かつくってあげて。」

重子に言われて、弁蔵は、メニューを差し出した。

「はい、ランチメニューはこちらです。」

「あ、水穂さんには肉も魚も一切食わさないでやってくれよ。食わすと大変なことになるから。また、ぶっ倒れちゃうからよ。豚カツは無理矢理食わされて拷問されているので、絶対だめ。」

「そうですか。肉魚一切だめですか。えびやかにが苦手というお客さんはいましたが、そうなると、タンパクが全くとれませんね。」

「そう、だからこんなに痩せてがりがり。まあ、これも習性だとおもってさあ、いつも、そばとか、そういうもので我慢してもらうんだけど、ほんとは肉魚を食わしてやるのが、一番体力をつける方法だよねえ。」

杉三は、からからと笑うが、由紀子は、それは、大変深刻な問題なので、大丈夫かと、水穂のほうをみた。

と、そのとき。水穂さんの顔つきがなんとなくおかしいような気がした。

「大丈夫?」

由紀子が聞くと、

「吐き気が。」

と返ってきた。

「馬鹿野郎!ここで汚したらどうするんだよ!」

杉三が言っても遅い。たちまち激しく咳き込み、あれよあれよと生臭い液体が噴出する。

「たしか、四人部屋のなすびの間があいていたわよね。」

不意に重子さんがそんなことを言った。

「はい、空いています。」

「弁蔵さん、ちょっとこの人をなすびの間へつれていって、寝かせてやって。」

「わかりました。」

弁蔵さんは、その通りにした。足がびっこの弁蔵さんでも、水穂は、信じられないほど軽く、抱き抱えて運べる重さだった。

とりあえずカードキーで部屋を開ける。段差こそない、ベッド二つと、和室スペースをつけた、和洋室であった。露天風呂もついていた。

この旅館は、富士の間、鷹の間、なすびの間、の三部屋しかないのだが、贅沢なもてなしが強みらしい。

弁蔵さんは、水穂をベッドにねかせてやり、布団をかけてやった。

「このまま、泊まってくれて大丈夫ですよ。当分新規のお客さまの予約もないですし。」

弁蔵さんは、にこやかに言った。とにかく過疎地域なので、客もなかなか来ないのだろうか。

「ご迷惑かけてすみません。あの、テーブル汚してしまってほんとに申し訳ないので。」

水穂は、弁蔵が持ってきてくれた鞄の中から、お財布を取り出そうとしたが、

「いいえ、一日分の宿泊費だけ払ってくれれば、それで大丈夫です。」

重子さんはにこやかにそれを制した。

「湯治にきたとお思いになって、体のほうがよくなるまで、ゆっくりしていってください。」

やっぱり、私のばは、どこにもない。久子は義母と義兄がそう話しているのを見て、がっかりと落ち込んだ。せめて、自分も、水穂さんに、何か話しかけることはできないだろうか。

「ちょっと眠るといいわ。もう疲れたのよ。」

由紀子に言われて水穂は、再び横になった。弁蔵が再び布団をかけてやると、本当に眠ってしまったらしく、何も反応を示さなくなった。

「水穂さんに、雑炊でもつくってやってください。でないと、なんにも食べられなくなっちゃうので。」

「わかりました。」

杉三がそういうと、弁蔵さんは、にこやかにいった。

すると、そこへ一人の仲居さんが血相を変えてやってくる。

「大変です!いま警察から、連絡がありまして、若旦那さんが、通り魔に襲われたそうです!」

「ちょっと待ってよ、で、あの人はどうしてるの?」

久子が急いで聞くと、

「はい、いま病院で手当てを受けてますが、ずいぶんとひどい怪我をしたようで。」

と、パニックそうにこたえる仲居さん。

「ちょっと電話してきます。」

久子は、急いで電話のある、事務室にいった。

「何?どうしたの?」

杉三が聞くと、

「いやあ、最近ね、通り魔がよく出るらしいんですよ。日頃から気を付けるようにとは言われているんですが、まさか、弟が狙われるとは思いませんでした。」

と、弁蔵さんは、答えた。

「通り魔、ですか?」

「はい、そうなんです。怖い話ですが、狐の帽子を被った男で、誰彼関係なく無差別に襲うとか。近所の民家の住人は、頭を鉄パイプで殴られて、半年間入院したといっていました。」

「そんな特徴があるのに捕まらないんじゃ、よほど、逃げ足の速い男だなあ。」

弁蔵さんの発言に、由紀子も、杉三も驚いてため息をつく。

「おかあさん、ちょっと警察に行ってきます。」

久子が戻ってきた。

「あんまり、騒がないでね。お客様もいるんだから、いつも通りにね。」

重子さんは、そう彼女を制するが、こんなときに、落ち着いているほうがかえって変だった。

「久子、栄蔵はどうだって?」

「ええ、もみ合った時に、かなりひどい傷を負いました。」

「後遺症でも残るかなあ。」

弁蔵と久子のはなしに、杉三は、ぶすっと呟いた。

「で、襲った通り魔はどうしたの?狐の帽子を被った変なやつは。」

「亡くなったそうです。」

つまり、もみ合った際に、誤って殺してしまったのだろうか。

「じゃ、じゃあ、すぐにいってきますから、おかあさんたちは、いつも通りに、仕事を続けてください!」

「はいはい、いつも通りは、あたしたちではなく、あなたの方よ。くれぐれも、変な発言はしないようにね。」

重子さんの発言をきいていたのかいないのか、わからないが、久子は急いで、部屋を出ていった。

「すげえ物騒な世の中だなあ。」

杉三がそういうと、

「すみません、皆さんにはゆっくりと滞在してほしかったのに。」

弁蔵さんが、申し訳なさそうにいう。

「いや、いいよ。僕らは泊まらせてもらえればそれでいいよ。アメリカなんかにいけば、こういう犯罪ばっかりでしょ。だから、それと同じと思えばいいのさ。あとは、うまいごちそうと。」

「はい、わかりました。お詫びのつもりで、精一杯おもてなししますから。」

「できるだけ、影響はでないようにしますので、ゆっくり滞在なさってくださいね。」

弁蔵さんと、重子は、そういったが、由紀子はそれよりも、眠っている水穂さんの体のほうが、心配でしょうがないのだった。

夕食の時間。

「どうだ?うまいか?」

弁蔵さんが持ってきてくれたお粥を由紀子に食べさせてもらっている水穂に、杉三が声をかける。

水穂は、お粥を飲み込もうとするが、咳き込んで吐いてしまうのであった。

「ほらあ、いっているそばから。」

由紀子に背中をさすってもらい、なんとか呼吸をもとに戻して、

「もう一回食べられる?」

と、再び由紀子から匙を差し出されたが、口に入れると咀嚼することができず、飲み込もうとすれば、咳き込んで吐いてしまう。

「おい、これじゃあ、なにをやっても喉を通らんなあ。せめて、上澄み液でも、飲んでくれないかな。」

と、ここで、失礼します、と声がして、弁蔵さんが入ってきた。

「あの、今夜は冷えるそうなので、毛布を三人分お持ちしました。風邪を引かれたら、困りますでしょうから。」

「あ、悪いねえ。僕のやつはわるいけど、水穂さんに、かけてやってくれや。どうせ、馬鹿は風邪をひかない。」

杉三は、にこやかにいった。

「皆さん、お料理、味が合わなかったんでしょうか?」

誰も料理を食べていないので、弁蔵さんは、不安そうにいった。

「いや、あのね。水穂さんに、食わすのが一苦労で、まだ食べてないだけ。」

と、杉三が答えた。杉三は、一人で先に食べてしまうとか、そのようなことは一切しないのだ。

「わかりました、それは、僕がしますから、お二人はとりあえずご飯を食べてください。ここへ来たからには、日常から離れてほしいんです。」

「じゃ、お願いしようか、もう、水穂さんに、ご飯くれるのは、一苦労でしょうがないからな。」

弁蔵さんにいわれて、由紀子はお皿と、匙を彼に渡した。

「よし、食べようぜ。いただきまあす!」

丁重に挨拶して杉三は、鯉の洗いにかぶりつく。

由紀子は水穂さんのことがまだ心配だったけど、天ぷらを口にした。天ぷらはサクサクでおいしかった。

「どう、おいしい?」

「うん。なかなかうまいぜ。味加減もけっこういいぜ。」

二人がそうやって楽しそうに食べているのをみた水穂も、やっと食べようという気になってくれたのだろうか、弁蔵さんが出したお粥の匙をやっと口に入れてくれた。それをみて、杉三たちは、美味しそうに食べてるな、と、安心したのだった。

「で、若奥さんはどうしてるの?旦那さんは、大丈夫なの?」

ご飯粒をつけながら、杉三がいった。

「ええ、いまは、病院で治療を受けてますが、後遺症は免れないかと。殴られた位置が悪かったみたいで、なんだかおかしくなってしまっているようです。もしかしたら、このままだと、相手が亡くなったと、認識できないかもしれないと。」

弁蔵さんは、がっかりとした口調でこたえる。

「そうか、精神錯乱かあ。よし、小久保さんにきてもらうか。」

「そうね。あたし、電話してみるわ。」

「小久保さんとは?」

弁蔵さんがきくと、

「はい、僕の友達の、腕利きの弁護士さんだよ。障害のある人の弁護が得意なんだ。」

と、杉三は、にこやかにいった。由紀子はすぐに、スマートフォンをとり、電話をしはじめた。




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