第2話 森の歩き方
真夏の熱気も、森の中では一段下がる。朝日が木々の隙間から差し込まれるが、涼やかな風が枝葉を揺らして吹き抜ける。
狩人になってから何度も足を踏み入れたこの森は、生命溢れる豊かな森だ。木々は青々としていて、多くの実りを齎してくれる。
この村に住む人にとって、この森は生活の糧であり、共に寄り添って生活している。
「森の恵みに感謝します」
僕は森に入る時、何時もこの言葉を呟く。
もっと長い祝詞を唱える人も居れば、何も言わず何も感じない人も居るらしいが、僕は生活の糧を齎してくれるこの森に感謝を込めて言葉を紡ぐ。
場所が変われば、森そのものを神聖視している地域もあるみたいだけど、僕にとって森はもう一人の家族のような存在だ。
森は決して恵を齎してくれるだけの存在ではない。時に森は人に牙を剥き、厳しい側面も見せる。
それでも、僕たちは森から離れる事は出来ないし、森は厳しさ以上に恵を与えてくれる。だから、僕はそんなすべてをひっくるめて感謝の言葉を継げるのだ。
——キィーキィーキィー
森を暫く歩いていると、突然獣とも鳥とも取れるような鳴き声が聞こえてきた。
僕は素早く木々の影に身を隠すと、周囲をくまなく観察する。木漏れ日から差し込む日差しを目に受けないように、避けながら上から下まで見逃しが無い様に視線を巡らす。
獣の鳴き声は、大きく分けて三つに分類される。一つは、敵を威嚇する時の鳴き声、二つ目に仲間とのコミュニケーションを取る為に、三つめは異性への求愛をする時だ。これらは種族ごとに違ってはいるが、それでも似たような感覚はある。
今回聞こえた鳴き声は雰囲気からして何かを威嚇する時の鳴き声に類似していた。もし、これが僕に向けられたものなら、こちらが気付いていない脅威が身近に存在する事になる。
森の中で、慌てる事はとても危険だ。だから、まずは落ち着いて状況の把握に努めるのが最も大切となる。
——ギャ、ギャ、ギャ、ギャ
——キィーキィーキィー
周辺観察と共に、最大限耳を澄ませていると、段々と鳴き声の原因が絞り込めてきた。
鳴き声の発生源は、少し離れた前方の木の上。目を凝らしてみれば、木の天辺の方で、なにやら鳥のような生物と、猿の様な獣が威嚇しあっていた。
その木には、小さな木の実が鈴生りになっているので、どうやら餌の取り合いをしているようだ。獣は同種族であれば明確な縄張りをもっているが、種族が変われば余程上位の存在でもない限り共存体制を取っているが、それでも限られた食べ物を争う姿はよく見かける。
共存共栄の前に、自然界は弱肉強食の競争世界だ。当然人もその中に存在し、何方かと言えば下位に位置する。それを人は知恵と知識、人類の英知である道具を使って上位の存在とも渡り合ってきたのだ。
僕は、物音を立てないように静かにその場から離れる。
鳥も猿もそれ程脅威になる存在では無いが、無駄に騒ぎを大きくして獣に警戒心を持たれるのは得策ではない。それに、鈴生りに実る木の実も、こちらの手が届かない程木々の上に生っているなら、将来手に入るかもしれない獲物の糧になった方が、結果的には此方の為になる。
枝葉を踏まないように静かに離れると、再び意識を周囲に張り巡らせて森を進む。
森を歩くとき、僕たち狩人は極力音を立てないように、そして枝葉を折らないように進む。仮に枝木が邪魔になるときは、鉈などの刃物で枝を切断して、枝を折らないようにする。
これには、獣の足跡を消さない為の配慮だったりする。
この場合の足跡とは、地面に残る獣の足型だけでなく、不自然に崩れた足場や、折れ曲がった枝木、踏みつけられた雑草に、獣の排泄物なども含まれる。
大きな獣程、移動することでその痕跡を森に残す。動物が移動した後は、自然とそこに道ができ、移動しやすい場所は自然とそれが獣道へとなる。
こういった小さな変化も逃すことなく獣を追いかけるのが僕たち狩人の仕事だ。これは罠による猟だろうと変わらない。獣の通り道に罠を仕掛ければ、それだけ獲物を仕留める確率が上がるので、森の観察は狩人にとって必須スキルだ。
「おっ」
先程木の上で争っていた場所から暫らく進んでいると、土の上が不自然に濡れていた。
幾ら森の中だからといって、夏場の空気は水分をすぐさま蒸発させる。早朝であれば朝露が葉に残っている事は有るが、地面を濡らすほどの水量にはたっしない。
このように不自然な湿り気は、獣が存在した証拠としては十分だ。
濡れた地面に近づき、それを触って確認する。湿り気には若干の温もりも残っていて、これが新鮮な排尿だと判断できる。
匂いを嗅いでみれば、ある程度ここで排尿した獲物を特定できる。今回の臭いには覚えがあり、この辺り一帯に生息する雑食動物のボアだと断定できる。このボアとは所謂イノシシで、大きな体と鋭い牙には十分な注意が必要だ。その重量を伴う巨体から繰り出される突進は、人一人を殺すのに十分な脅威である。
姿勢を低くして、視線を巡らせれば、不自然に曲がった枝に、傾斜面を上ったのであろう土崩れが見て取れる。それに木の根元には、何かを掘り返したような跡も見て取れた。
僕はそんなボアの足跡を追って静かに進む。ボアの足取りを見逃さないように、細心の注意を払って足を運ぶ。
所々にもて取れる身体を擦り付けたように木の表皮が捲れていたり、地面に鼻を突けて臭いを嗅いだような跡を追う。
そうして暫くその足跡を追っていると、次第に水の流れるような音が聞こえてきた。
それは僅かな水量が、ある程度の落差で叩きつけられるような滝と呼ぶにもおこがましいような小さな落水だが、それでも十分獣が水分を補給するのに事足りる水が飲める小川だ。
こういった小川は森の至る所に存在し、森で狩りをする僕たちにとっても欠かせない自然の恵みだ。
こういった小さな小川が寄り集まって次第に大きくなり、それが村の近くにある湖へと流れ込んで行く。
この森が齎してくれる恵は、村で漁によって生計を立てる者達までも支えてくれている。森の豊富な栄養は水に溶けて湖へと流れ込み、その栄養を小さな生物が取り込んで数を増やす。更に、その小さな生物を餌にする生き物を育み、植物連鎖の頂点に森と湖に育まれて育った大きな魚を得る人間へと齎されるのだ。
そんな森の水には、当然獣たちも集まってくる。今追っているボアも、出す物出したから喉が渇いたのかもしれない。
足跡の痕跡から、今追っているボアは結構な大物だ。それほどの巨体を維持するのに必要な水分は、人が一日に必要とする水分の数倍にも及ぶ。だから、こういった大型の獲物は水場から切っても切れない関係になる。それは豊富な水場を持つ森の中でも変わらない。縄張り意識が強い獣ほど、こういった貴重な水場の使用には人間には及ばない明確なルールが存在するのだ。
木の影からその小川を除き見ると、案の定大きなボアがガブガブと水を飲んでいた。
地面の窪みから、その巨体は200キロを超えていることが分かる。それに見合った大きな体は、このボアが成体にまで成長した個体だと言うことが分かる。
体中に生える体毛には、湿った土を纏い、所々コケが生えている。一見すると不潔な見た目だが、このボアはとても綺麗好きで、肌の乾燥を防ぐ為に態と泥を纏っている。
多くの体毛を纏っている獣は、意外と繊細な肌をしている。それこそちょっとした乾燥で皮膚病になってしまう程だ。実際、健康的な肌を持った野生動物は少ない。どんな獣も臆病で、臆病な獣ほど過酷な自然界を生き残れる。
更に、知恵を持つ獣は賢く狡猾に生き残る。だが、知恵を持つからこそストレスも感じるもので、内的、外的共に多くのストレスを抱えている獣は、その敏感な肌に真っ先に支障をきたす。
——さて、始めますか。
ここからは狩るか狩られるかの世界。狩人の真骨頂だ。
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