第2話 啓蟄
広い講義室に一番乗り。金曜日にして初登校である。はたから見ればどんな怠惰な学生か、大学なんてやめてしまえと思われるだろうがそうじゃあない。むしろ僕は被害者といってもいいだろう。それは言い過ぎかもしれないが、同情の余地はある。と思いたい。
昨日まで部屋から出ることすらままならなかったのは、僕自身の意志だったのではないか。夢から逃げてここに出てきた。やっぱり自分の感情のまま欲望のままに動いているだけなのではないか。全てのことは気の持ちようで何とでもなる、とかいう精神論者は正しかったのではないか。
僕は精神論が好きでない。病は気から、ということは往々にしてあるが、全てではないと思われるからである。しかしこの「全てではない」が否定されるとなると話は別である。僕は自分に都合のいい結果のみを認める、信念に反する人間になってしまう。それは困った。
どのあたりからかはわからないが、考えるままを何となく口に出していた。
「信念なんてそんな大げさな」
振り返るとそこには良く知った顔があり、そいつはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべていた。聞かれた。何となく口に出してみたらこのざまである。最悪だ。
しかし誰にだってこういう気の迷いはあるだろう。大好きなヒーローのごとくタオルケットを翻しぬいぐるみのピンチに駆けつけるとドアを開けた母親が笑っていたり、好きな子へのラブレターを渡せずにしまいこんであったら妹に見つかったり。好きなキャラクターのセリフを真似して叫んだら部屋の窓が全開だったり!
だから何だ。恥ずかしいことを思い出しただけじゃないか。僕が言い訳を探していると、そいつが先に口を開いた。
「人の顔見てそんな嫌そうな顔するなよな」
「してない」
「いいやしてたね」
「ニヤニヤしてるお前が悪い」
「だって信念がどうとか小難しいこと言ってたじゃん。恥ずかし」
僕は反論できずただ舌打ちをした。
「お前最近どこ行ってたの。学校来ないし音沙汰ないし。これでも心配してたんだぜ」
「ごめん」
「無事ならいいんだけどさ。また考えすぎてるんじゃないのか」
僕は固まってしまった。高校生のころ、色々なことを考えすぎていた時期が確かにあった。ほぼ不登校になっていたころ、高校からの同級生であるこいつ、長峰というのだが、とにかく長峰には迷惑をかけたというか心配をかけたというか。
僕がまたそうなりかけていることに気づいたのだろう。もっとバカにされるかと思ったが。
「お前は考えすぎなの。もっと気楽に生きようぜ」
「そうかな」
「そう。思いつめられると俺も困るんだからさ」
長峰はそう言って微笑み、じゃ、と言って去っていった。
僕を見つけてちょっかいをかけてくれるんだから、悪く思われてはいないんだろうな、と少しほっとした。バカにしたような態度も長峰なりのやさしさなのだ。
講義室がぽつぽつと埋まり始め、だんだんとにぎやかになってきた。
顔見知り程度の、明るく健康なひとたちは僕を見て、久しぶり!とか元気だった?とか声をかけてくる。それに対して元気だよ、と答えていたがきっとぎこちないものだっただろう。
申し訳ないのだが、なんとなく苦手な人間もいるのだ。そんな相手に対しても、どう思われただろうか、軽蔑されていそうだな、と悲観的になる思考を押さえつけて授業の準備を始めた。
どうせ誰もお前の事なんて考えちゃいないさ。気楽にいけよ、僕。
僕は冬眠していただけ。冬眠していた虫が出てきただけ。目覚めた虫は、隣に座った人間に叩き潰されないように生きていくだけだ。
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