世界が終わる日、流星が目醒めるとき

雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞

A Big〝C〟to〝U〟

 窓の外は海水で満たされていた。

 窓?

 いや、これはだ。

 陽の光も届かないような真っ暗な海の底で、巨大な〝それ〟は静かに眠り続けている。

 眠っている。けれど、目は開いている。

 なにが視界に入った。

 乱気流にもまれるような動きをする、棒状の物体。

 棒は4つに枝分かれしており、それぞれがぶるぶると海流に翻弄されていた。

 ああ、人間がいる。

 水圧と無酸素によって、絶対的な死を意味する深海を、人間が泳いで回っている。

 人影は一つではない。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 刻一刻と増え続けていく。

 やがて彼らは、唸り声にも似た祭囃子を口にし始めた。なんて事だろう、ここは海中だというのに、その祝詞は不明瞭に不鮮明に、だが魂を揺さぶり響くのだった。


 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん


 鳴り響くのは太鼓の音。忌むべき太鼓が、一定のリズムで音を連ねる。

 ドン、ドン、ドン、ドン……

 祝詞はやがて、鮮明になって。


 いあ

 いあ


「──いあ」


 なにか、酷く冒涜的な一節を口に仕掛けて。

 そうして、ボクは目を覚ました。

 目が覚める寸前、深海の暗黒を、なにかが焼き尽くしたような気がするが、思い出せない。


「……後味、悪ぅ」


 枕元では目覚ましが、呪いでも唱えているように出勤時間を告げていた。

 朝だ。

 今日も変わらず、朝がやってきた。


§§


 ワセダ・ススム。

 政治家でも警察官でもない、極めて一般的なフリーターであるボクは、今日もクソ熱い日差しの中でビラ配りのバイトに勤しんでいた。

 市民、幸福は義務です、なんて言ってくれる管理者AIは存在しない。

 現実はいつまでもクソのように停滞していて、ブラックホールが初めて観測されたあの日から何も変わっていない。

 資本主義というこの世の理にとらわれた社会人たちは鬱陶しい雑踏に揉まれ、今日も必死こいて生活している。


 ……けれど案外、ボクはそういう日常が嫌いではない。

 人間のしたたかさというか、決定的な部分で恐怖に鈍いところなど、微笑ましくさえある。必死に生きて死ぬのなら、それは決して悪いことではないと思えるのだ。


「どぞー、一枚どぞー」


 少なくとも、死んだ目をしてビラを配っているボクよりは、みな上等だろうとそう思える。


「よっ」

「あ、どーも」


 バイトの先輩が、この酷暑をねぎらって差し入れを持ってきてくれた。

 いまどき珍しい、瓶ラムネだった。

 プシュッと景気よく、ビー玉を押し込んで開栓しながら、ボクは周囲に視線を向ける。


 物珍しいものなどないが、当たり前のものにも見るべきところはある。

 そう、人混みというのは、本当に多種多様な人間が混ざっているものである。

 たとえばさっきからボクを、じっと見つめている奇人だ。


 脱色した白い髪に、桃色のカラーコンタクトをいれたゴシックドレスの美少女である。

 なにが楽しいのか、ニコニコしながらずっとボクを見ている。


 ぴしりとスーツを着込んだビジネスマン。

 いまから遊びに行きますよと言わんばかりの、おしゃれな格好の男女。

 プラカードを以て政治批判を繰り返す謎のおばさん。

 赤い風船を持った女の子と、その母親と思わしき親子連れ。

 本当に、いろんな人間がそこにいる。


「あっ!」


 知らず口元を緩めていると、酷く切迫した声が聞こえた。

 見やると、先ほど通り過ぎて言った女の子の手からするりと紐が抜け出して、真っ赤な風船が、今まさに蒼穹へと旅立とうとしていた。

 知らず、手を伸ばす。

 届く、という確信があった。

 ぜんぜん近い、ぜんぜんまだ低いと。

 けれど、伸ばした手は、風船の紐を素通りする。


「……あれ?」


 そりゃあそうだ。届くわけがない。風船は当たり前に空へと舞い上がり、やがて見えなくなった。

 ボクはしばらく、それへとかざした自分の手を見つめていたが、やがて少女の泣き声で現実へと引き戻された。

 

 可哀そうにしくしくと泣く少女。

 なんというか、どーにも見ていられない。

 ボクはラムネのふたを開けると──おや? っと思う──ビー玉を取り出した。それを服でしっかり拭いてから、少女へと歩み寄って差し出す。


「ほら、お嬢ちゃんにプレゼントだ」

「わぁ……ありがとう、おにーちゃん!」


 不審者認定されたり通報されることもなく、少女はビー玉を受け取ってくれた。

 ビー玉は、風船と同じ赤色だったからだ。

 お母さんにお礼を言われながら、ボクは彼女たちを見送る。

 ほんの少し、胸の内が暖かくなる。捨てたものではない。


「ですが、大事なことをお忘れですね、ススムさん」


 とつぜん背後から声をかけられて、ぎょっとした。

 振り返ると、そこにはあの、桃色の瞳をしたゴスロリ女がいて。


「もっと割がよくて、やりがいのあるお仕事、ご紹介しましょうか?」


 彼女は。

 なんとも言えない、左右非対称のいびつな笑顔で、そう言った。


§§


「4月26日、赤熱した隕石の落下によって、海は干上がります。大いなるものを閉じ込めていた檻は消滅し、世界に再び翼を広げるでしょう。そのあと、干上がった海に特殊なひかりを散布して、残った海洋陸生問わない生物を守るバイトをしてほしいのです。いまなら前金として、64万円を口座に振り込みます。どうですか、一緒にやりませんか!」


 朗らかな笑顔で語る白髪の美少女。

 彼女の背後には大海原があって。

 そして。

 そして天空からは、その言葉の通り巨大な隕石が──


「あ、ちょっと早すぎます。これだから不連続なものは……それでは、しかるべき時に、もう何度かお会いしましょう──」


 彼女が言い終えるよりも早く、隕石が地球に直撃した。


「──いやいやいや!?」


 がばっとボクは跳ね起きる。

 どうやら眠っていたらしい。夢? ああ、これは夢だろう。酷い寝汗で気持ちが悪い。おまけになぜか、頭が痛む。

 何度目だ、という疑問が浮かぶ。


 海の中を人間が泳ぐ夢。

 そして、隕石が落ちてくる夢。

 まるで誰かに悪夢を送り込まれているように、ぼくは何度もこれらの夢を繰り返している。

 アンコール上映なんて、求めてねーつーの。


「あー、後味、悪ぅ」


 胸の中身を吐き出して、いざ起床しようとしたとき。


 ぴんぽーん。


 来訪者を告げるインターホンの音色が、響き渡った。


§§


「はじめまして、ススムさん」

「────」

「あ、その反応はこれが何度目かの接触ですね? では簡潔に行きましょう、干上がったあとの海で、生物を守るお仕事をやりませんか? いまなら前金で512万円を口座に入金しますけれども?」

「誰が信じるかそんな嘘っぱち」


 ボクは思わず毒づいた。

 アパートのドアを開けると、白髪に桃色の瞳の少女が、ニコニコと笑顔でそこにいたのである。


「つーか、なんだ500万超の前金って」


 ボクは闇医者か凄腕のスナイパーか。


「しかし、ススムさん。大いなるCは必ず目を覚まします。その先触れを、あなたもテレパシーとして受信しているはずです」


 なんだかすごくサイコなことを言い始めた。あれか、これは新興宗教の勧誘ってやつか?

 いやぁ、意味不明なツボとか買わされるのは、ちょっと……


「……?」


 しかし、そこでふと気が付く。

 少女はニコニコと笑ってはいたけれど、その全身はボロボロだった。

 服のあちこちはほつれているし、破れている部分もある。

 いままで気が付かなかったのが不思議なぐらい、あちこちが煤だらけで泥だらけで。

 明らかに暴力を振るわれたような怪我もあった。


 …………。

 人間には信仰の自由というやつがある。

 救いを何に求めても、それは個人の権利上の自由だ。夢を見るのは権利ですらある。

 けれど。


「ほっとけねーよなぁ」

「ススムさん?」

「なあ、あんた。ひょっとして本気で困ってるのか? ボクは見ての通り貧乏人だし、でも、多少の蓄えはある。なんか辛いことがあるっていうのなら、もしかしたら力になって──」

「──戻らない、気が付かない、時間がない。ないない尽くしでは仕方がありません。荒療治に頼らせてもらいますね?」


 にっこりと、少女が天使のように/あるいは悪魔のように微笑んだ。

 次の瞬間、ズドン、とボクの腹に重たい衝撃が走った。

 目を見開きながら視線を落とす。

 彼女が無造作に突き出し手が、細長いラムネ瓶のような何かを握っており、それがバチバチと発光していて。


「スタンバトン……」


 そう理解したときには、ぐるりと視界が暗転するところだった。


「それでは、次の夢でこそ、お会いしましょう」


 彼女のそんな言葉が、闇に。

 そして闇の奥から、遠く響く潮騒にかき消されて──


§§


「──っ!」


 何度目かもしれない目覚め。

 飛び起きると、目の前には信じられない光景が広がっていた。

 曠野。

 曠野だ。

 一面に、曠野が広がっている。

 違う!

 これは──海原だ!

 

 その証拠に、この地形は海岸線以外ではあり得ない。

 切りたった崖も、リアス式の海岸も!


「まさか、本当に隕石が落ちたってのか? 夢じゃなく?」


 冗談ではないと思った。

 けれど、これはまぎれもなく現実だった。

 あの少女が夢の中で、そして現実で、幾度となく語った出来事が、本当に起きてしまたのだ。

 頭がくらっくらする。信じたくない思いに揺さぶられる。


 ……るい……うなふ……ぐん……


 どこから。

 酷く遠いどこからか、うめくような音が聞こえてくる。

 祭囃子だ、なにかを祝う/呪う音楽だ。

 太鼓の音が聞こえる。

 遠い音だ。ドン、ドン、ドン、ドン……


「あ、ああ……あ……」


 ざわざわと体の奥でなにかが身を起こしていく。恐ろしいなにか、おぞましいなにかが胎動し、ボクを作り替えていく。

 気が付けば、その音色に誘われるまま、ボクは曠野へと一歩踏み出していた。


 よほどの高温で焼かれたのだろうか。

 一見して干潟のように見えた海の底は、ぼろぼろと崩れる泥のようであった。

 ただ、悠久の時間をかけて降り積もった海洋生物の屍骸が、あちこちで腐敗し焼けただれ、不快な臭いを立ち上らせていた。

 吐き気をこらえながら、ボクは歩き続ける。

 何かに足を取られて、転倒した。


 べちゃりと顔に、嫌なにおいのする泥が付着する。

 足元を見ると、なにか、板状のものが転がっていた。

 泥のなかから引き抜いて、驚愕する。


 おおよそ尋常ではない、正常な精神を持っていたとしたら決してこのようなものを作ろうとは思わないはずの異形のレリーフが、石板には刻まれていた。

 化け物という言葉では足りない、一種の神々しさ/違うこれはもっと悍ましいものだ──すら感じる無数の触腕と羽、或いはこの惑星の生物の持つ器官では例えられない何かを備えた〝なにか〟。

 それが、大きく体躯を広げ、描かれていたのだ。

 だが、それは同時に奇妙な図でもあった。


 この、いつだれが作ったともわからない太古の石板には、〝なにか〟が描かれている。

 しかしその隣には不自然なスペースがあり、摩耗によるものか削り取られたのか本来の形状を見て取ることができない。

 けれどボクには、なぜか。


「人?」


 であるように見えたのである、その虚無が。


§§


 ボクは歩き続けた。

 どのくらい歩いただろうか。数時間、数日、或いは数年か。

 曠野はいつの間にか下り坂になっており、あるとき急峻な崖へと変貌した。

 呼び声の祭囃子は、底も見通せない崖の下から響いているようだった。

 ぐらりと、視界が揺れた。

 ボクは、いつのまにか崖を転がり落ちていた。

 どこまでも続く無窮のウロ。

 深淵の虚空。

 真っ逆さまに落下を続けて。

 どのくらい落ち続けただろうか。数時間、数日、或いは数年か。


 音が大きくなる。


 ふん……い ……るうなふ くとぅる……


 聞き取れなかった祭囃子が、聞き取れるようになってくる。


 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん


 太鼓の音が、巨大になる。


 ドン、ドン、ドン、ドン──ドン!


 そして、ボクは目撃した。

 地の底で、干上がった海底で。

 曠野の中心で〝それ〟を見た。


 それは、狼のように獰猛な軟体動物に似ていた。

 それは、蝙蝠のような翼をもつ竜に似ていた。

 それは、咲き誇るアネモネの花に似ていた。

 それは、この世の何物にも似ていなかった!


 怪物、化け物、怪異。

 そんな言葉では一切足りない、表現できない、知覚できない。

 なぜならばそれは〝C〟。

 大いなる古き支配者。

 おお、おお、偉大なる海神わだつみクトゥルー!


 太鼓の音などではない。この耳を聾する重低音こそ、クトゥルーの心臓の音!

 ドン! ドン! ドクン!

 鳴り響く心音が、胎動が、目覚めを告げる。


『────────────────────────』


 名状しがたい咆哮をあげ、大いなるクトゥルーはいま、覚醒した。

 もはや御身を閉じ込める海水の檻ゲットーは存在しない。

 粘液をほとばしらせながら開かれる翼は、いまこそ世界を覆いつくさんと闇を解き放つ。


 恐怖。

 恐怖。

 恐怖。

 ──絶望。


 瞬時に失禁脱糞したワセダ・ススムは、この時点でボクという卑小な自我もアイデンティティも喪失する。このような〝かみさま〟を前にして、矮小な人間は個を保つことができない。

 発狂。

 心という心が、魂という魂が、べっとりとしたコールタールにまとわりつかれ、その端からすべてがボロボロと崩壊していく。

 終わりだ、終わりだ、おしまいだ。世界は終わるのだ。

 このように思考する頭脳など、一番初めに失われた。

 では──


「では、どうして。ススムさんはまだ、生きているのかしら?」


 わからない。

 その声が誰のものかもわからないし。

 ワセダ・ススムが思考を続けている理由もわからない。

 けれど。


「燃えている?」


 そうだ、燃えている。滾っている。スタンバトンをぶつけられた腹が。

 腹腔が、燃えていた。

 ──怒りに。


 赦してはならない。

 このような邪悪を、暗黒宇宙の真実を、表層に顕してはならない。

 赦してはならない。

 なぜなら。


「ススムさんは、いつだって同じ理由で、そうしてきたのですから」


 後味が、悪いから。


「そのために、大いなる門を超えて、星辰の世界からやってきたのですから」


 だから!


 ボクは、この手で腹をつかむ。熱は形を得て、怒りは鍛造され、憎悪は精錬される。

 手の中に現れるものは、あのとき見たスタンバトン/否、違う。

 これは魔導の杖だ。

 世界を照らす、最後の聖火だ。

 ボクは、それを。

 高らかに暗黒の空へと突き上げた。


 光輝が闇を引き裂く! 百万ワットの輝きが、邪悪を駆逐し世界を照らす!


 ワセダ・ススムの身体は光子へと変換され、世界へと降り立つ。

 それは、巨人だった。

 真っ赤に燃える、光の巨人だった。


「これが最初で最後の接触です。ススムさん、干上がったあとの海で、生物を守るお仕事をやりませんか? 前金として──」


 まどろみの中、素敵な夢を見た。これ以上ない対価だった。

 だから、もういい。ボクは満足した。


 夢は必ず覚めるものだ。

 そして悪夢は、必ず終わらせなければならない。

 だから。

 さあ、目醒めよう!


 この、大いなるクトゥルーを、再び封印するために!


 ボクは。


「──!」


 ラムネが弾けるような掛け声をあげながら、旧支配者へと飛びかかった。


§§


 これなるは、流星が見た、ほんのひとときのまぼろし。

 目が醒める前に見た、幸せな御伽噺である──

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