でうす
①
おはようございます、いい朝です。わたしは朝起きるとすぐ洗面所の鏡の前に立ちます。頭からつま先まできれいです。うっとりします。こんなにきれいな人は珍しいでしょう。芸能界にだってほとんどいないはずです。くっきりとした二重、すっと通った高い鼻、唇は何も付けていないのに艶があって、口元の黒子がセクシーです。それに、このきゅっと締まった腰。細いだけじゃなくて腹筋もうっすら浮いています。足もまっすぐで、膝から下がとても長い。いけない、今日も鏡を見ているだけで30分も経ってしまいました。
夫を起こしに行きます。夫はよく眠れたんでしょうか。わたしだったらあの体制では無理です。でも夫なら大丈夫でしょう、お■■■人形ですから。
袋をとって縄を外してあげると、涙を流して喜んでいます。わたしはよかったね、と喜んで、お尻についていた栓も外してあげます。同時にすごい量の水みたいなうんちが出ます。よく出せたね、と足で頭を撫でてあげます。喉が渇いてるみたいなので飲ませてあげてもいいのですが、今日はお外にでようと思ってるのでやめます。そのままお風呂場に連れていって、ホースを延ばして口に入れてあげます。蛇口をひねると相変わらずすごい声を出します、お■■■人形だからこんな声が出せるのでしょう。わたしとおなじ、ほんものの人間だったら恥ずかしくて無理です。そのあとはお腹を踏みます。ずいぶんきれいになりました。これでお外にでても恥ずかしくありません。
そのあとはお食事です。わたしはトースト2枚と、目玉焼きと、ベーコンをカリカリに焼いたものを食べました。全然足りないのですが、我慢します。きれいな人はこういうふうに皆やってるんです、食事制限。
夫にはサービスで、牛乳とオレンジジュースも追加でミキサーに入れて食べやすいように撹拌してあげました。スープ皿によそって床に置くと、あっという間に平らげました。すごい勢いで食べるのできっとすごく美味しいんでしょう。ニコニコしてしまいます。
寝室で寝ているお義父さんとお義母さんにご挨拶をします、お散歩に行ってきます、と言います。お二人はなんだか、聞いてるんだか聞いていないんだか分かりません。わたし、いびられているんでしょうか。お■■■人形の親だから、人間の言葉は通じていないのかもしれませんね。
夫に久しぶりに洋服を着せて、歯を磨いてあげます。歯磨きの持ち方はペングリップ、歯磨き粉の量はピーサイズ、残念ながらわたしは卒業できなかったのですが、大学で学んだことはこうしてきちんと役に立っています。それでも夫は少し顔色が悪いみたいで心配です。
手をつないで外に出ると、犬の散歩をしているおばさんがいます。近所付き合いは大事ですから挨拶をするとおばさんはこちらをジロジロと見ます。私も夫もとても美しいから見られてしまうのも無理もないのですが、こうも無遠慮に見られるといらいらしてしまいます。もう一回挨拶して挨拶を返してくれたら許してあげようと思います。もう一回挨拶します。返ってきません。許しません。おばさんが立ち去るのを見て、どこの家のおばさんか確認します。篠田さんっていうんですね。古いけどお庭もついていて立派なおうちですね。そもそもこの辺りには立派なおうちしかないんですけどね。
頭の中で声がします。
『でれす』
何を言っているかは分かりません。でもこの声はいつもわたしを応援してくれるのです。
夫に外で待っていてもらって、篠田さんの家の塀を乗り越えます。
『でれす』
篠田さんは専業主婦なのでしょうか。少し羨ましいですね。暇そうにテレビを観ています。換気のためでしょうか、運良くお風呂場の縦長の窓が開いていました。
『でれす』
わたしはスリムなのでそこから体を滑り込ませます。少し時間がかかってしまいましたが、なんとか入ることができました。篠田さんはまだ気付いていないようです。
廊下をゆっくり、音を立てないように歩いていって、台所を見つけました。どれにしようかな、と選んで、金属製の肉叩きを手に取りました。
『おちーでぃてい』
手袋は忘れていませんよ。そして篠田さんはまだ気づいていないようです。
『おちーでぃてい』
そのままテレビの音がする居間の方へ近付きます。篠田さんはニヤニヤしています。さっきじろじろ見てきた時もニヤニヤしていたような気がします。わたしのことを馬鹿にしているのです。
『おちーでぃてい』
わたしたちを馬鹿にしているのです。
『おちーでぃてい』
やっぱり許しません。
肉叩きで頭を割りました。騒ぐ前にテレビの音量を最大にします。できるだけ素早く、何度も頭を殴ると篠田さんは白目を剥いて動かなくなりました。篠田さん、よく見ると鼻も高くて目も大きいです。太ってはいますが、昔は美人だったにちがいありません。だからこんないいおうちで専業主婦ができているんですね。
『さくりふぃちうむ』
それにしてもキャンキャンと、犬もうるさいですね。篠田さんは専業主婦なのに犬のしつけさえ満足に出来ないのでしょうか。
『さくりふぃちうむ』
犬はかわいいから嫌いではないのですが、うるさいので許しません。
『さくりふぃちうむ』
気が付くと外がだいぶ暗くなっていました。ずいぶん時間がかかってしまったのです。もしかしたら篠田さんのご主人が帰ってきてしまうかもしれません。わたしは急いでビニール袋をつかんで、何食わぬ顔をして玄関から出ました。夫はわたしを見ると笑顔になりました。お肉が手に入ったから今日はお鍋にしようね、というと頷きました。
そのままぐるっと町内を回って帰ろうとガードレールに沿って歩いていきます。人通りが多い場所は避けます。またじろじろ見られたら同じことをしてしまうと思います。そしてそれは、とてもめんどくさいです。
公園に着くと夫がトイレに行きたそうにもじもじしているので、人間用のトイレしかないからどうしようね、と言ったら地面にしゃがんでそのまましていました。おうちに帰ったらまた洗ってあげようと思います。
我が家を目指してまた歩き始めると、向こうからおばさんが歩いてきました。見覚えがあります。わたしのおかあさんです。
改めて見るとほんとうにブスだなと思います。わたしのおとうさんもほんとうのブサイクですから、こんなブスとブサイクで子供を作ったらとんでもないブスが生まれるに決まっています。それだけで犯罪です。そんな犯罪を犯しておいて、ブス面を晒して、よくもまあ外を歩けたものです。
向こうもわたしに気付いたのでしょうか。声をかけてきます。
「幸太郎くん……よね」
おかあさんはわたしと夫の手が固く握られているのをじっと見ます。
「最近は色んなひとがいるものね」
またそれか。色んなひとがいる。おまえはいつもそうだ。またそれか。ふざけるな。色んなひとなんていないよ。この世にはブスと美人しかいない。
夫が挨拶をしようとするので、お■■■人形はヒト語を話したらダメだよね、とひとさし指を反対に曲げます。ううう、と呻きます。どうやら自分が人間ではないときちんと自覚したようです。そうだよ、それが正しいよ、わたしは満足します。
「幸太郎くん……その人、大丈夫なの」
ブスなおかあさんは偉そうにわたしの顔を伺います。おどおどした表情。どうせ何もできないくせに一人前にその顔をするんだ。いつもいつもいつもいつもいつもいつも。粒みたいに小さい目。わたしはずっとわたしにそっくりなその顔が大嫌いだった。死ねばいいと思っていた。死ねばいい。
『おちーでぃてい』
頭が痛い。このブスはいるだけでどうしようもなく不愉快だ。
「おばさん、人を呼んでくるね」
ふざけるな。死ねばいい。ふざけるな、ブスのくせに、おまえがわたしの顔を見たことなんてなかっただろう。何もしてくれなかったくせに。
『さくりふぃちうむ』
おまえはブスだ、だから生きている価値がない。お金がないのに見栄張ってこんなとこに住んで、無理してるのがバレバレなんだ。ブスだからみんなにバカにされてるんだよ、いろんな人間の顔色うかがって、ブス、他人の目は気にするのに娘のことなんか何も考えてない、自分が可愛い、ブスのくせに、ふざけるな、ブス、ブス、ブス、ブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブス、何回言っても足りない。
『さくりふぃちうむ』
やめましょう。
『さくりふぃちうむ』
もうやめましょう。
お肉が増えました。夫にはそれを持って先に帰ってもらいます。久々に嫌な気分になりました。でも、いいことをしたような気がします。世の中が綺麗になりました。
ブランコを漕ぎます。小さい頃はブランコなんて乗れませんでした。こうして結婚するくらいの年になってから乗ってみると、楽しいですね。選ばれた子しか乗れなかったのも納得です。
夢中になって漕いでいると自転車に乗ったおまわりさんが近付いて来ました。
「あのー、ちょっとお時間いいですか」
「はい、なんでしょう」
そう答えると、おまわりさんは怪訝な顔をします。
「ちょっと声が変じゃないですか?」
「元々こういう声です」
わたしは少しムッとして答えます。おまわりさんはブサイクではないですが、ごく普通の顔です。とても美しいわたしに嫉妬しているのかも知れません。嫉妬する人間は嫌いです。普通の顔の人でも、嫉妬している姿は醜いものです。
おまわりさんはすいません、と言うとわたしに身分証の提示を求めてきました。わたしはズボンのポケットに入っていた学生証を見せます。
「へぇー、東大生!君頭いいんだなあ。お時間取らせてすみません」
おまわりさんは笑顔で学生証を返してきます。
「最近ひったくりが増えているから、巡回しているだけなんですよ」
「大丈夫ですよ」
わたしも笑顔で返します。
おまわりさんは気をつけてくださいね、と言うとまた自転車を漕いで去っていきました。
おまわりさんに学生証を見せたのは少しまずかったでしょうか。おまわりさんも許さない方が良かったでしょうか。頭の中の声は何も答えてくれませんでした。きっと、問題がないということでしょう。
ずっとこうしていても仕方ないので、立ち上がりました。明日はわたしと夫に取材が来るのです。
『件名:取材のお願い
こんにちは、突然のご連絡、失礼いたします。
私、功旺社の青山と申します。
弊社は、20代の女性向けのファッション誌、生活情報誌を発行しております。
山岡様にご連絡した理由ですが、弊誌「STAR」の次号のテーマは「エレガントな美男美女夫妻特集」です。探していましたところ、まさに山岡様ご夫婦がこのテーマに
相応しい、若く美しいご夫婦であると知りました。
東銀座という一等地に豪邸を構え、悠々自適に生活なさっているご様子は、弊誌がターゲットにしております20代の女性の理想であり、憧れであると思います。
ちょうど、山岡歯科様に五月号にて口腔ケアに関するコラムに協力していただいたおり控えていたメールアドレスから山岡様にご連絡させていただきました。
つきましては、ご多忙の折とは存じますが、ぜひ山岡様ご夫妻に一時間ほど取材をさせていただき、弊社サイドで文章をまとめさせていただけないかと考えております。
もしご協力いただけるようでしたら、ご都合のいい日時に山岡様のご自宅まで伺わせていただきたいと考えております。ご多忙かとは思いますが、ご都合のいい日時を2、3ご連絡いただけますでしょうか。
突然のお願いで恐縮ですが、よろしくお願いいたします。』
わたしはこれに返信したのです。働いたことがないので、ビジネス的に正しい文章を打てたかはわかりません。「STAR」は憧れの雑誌でした。大学生のとき、わたしの同級生の美人が、「STAR」のモデルとしてスカウトされたのを目の前で見たときは、それはそれは羨ましかったものです。その子は興味がないとか言って断っていました。バカだと思いました。ああ、本当に鬱陶しい女でした。嘘つきで頭も悪いのに、顔が綺麗というだけでちやほやされていました。昨日のあの子とわたしどちらが美しかったかは分かりませんが、もう今日はわたしが一番美しいのです。
わたしが「STAR」に取材される立場になったことを聞いたら、あの子はやっておけばよかったと悔しがるでしょうか。
あんなおしゃれな雑誌の編集者さんなら、きっとおしゃれな人でしょう。わたしもきれいな服を着なければなりません。わたしのすらっとした長い脚を活かすなら、パンツスタイルが良いでしょうか。それともエレガントというならば、上品な五分袖のワンピースが良いでしょうか。心配することはないかもしれません、わたしは何を着ても似合うのですから。
はやく家に帰ってお肉の処理と、明日の準備をしなくてはいけません。わたしはついつい、微笑んでいました。
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