⑥

 点滴をして帰ることができた。喉が切れているので抗炎症薬と抗生物質を処方された。突然大量に吐いて倒れたということで精密検査が必要だと言われたが、食べ過ぎてずっと気分が悪かったのだと嘘を吐いた。それでもそのまま帰ることには相当難色を示されたが。

 俺は脳をジャックされたとき考えていたことを思い出していた。思考を侵蝕した「おえん」……あれが斎藤奈緒が聞いていたものなのだろうか。

 診療が終わると笠島は俺に手鏡とお守りを渡し、こちらはこちらで調べるから何かあったら連絡しろと言って去った。手鏡とお守りを持っていると、不思議と脳がクリアになった。耳鳴りも収まったようだ。無論このまま収束するなどという甘い考えは持っていない。これはあくまで時間稼ぎだ。これのおかげで時間ができた。呪いの連鎖を強制的に引きちぎる。

 山岡幸太郎だ。

 かがせおさまを祀った家に行ったのも、最初に須田真理恵の呪いを受けたのも彼だ。

 調べたところ、彼は須田真理恵の幼馴染で、家族ぐるみの交友関係を築いていたにも拘らずイジメに加わっていたという。

 佐々木るみは佐々木るみで何か新しいアプローチを見付けたらしく、そちらを当たると言って斎藤先生の待つ大学に戻って行った。東大氏も出来ることは全て試した方がいいでござるよ、と言い残して。

 呪いを作った要因である山岡幸太郎にこの世から消えてもらう。それがジャックされ擦り切れた脳で考えられる唯一の解決法だった。

 俺は早速、斎藤奈緒のアカウントでSNSにログインを試みた。案の定、個人情報にまつわる簡単な番号であっさりと入ることができた。俺はそこから山岡幸太郎にメッセージを送った。







「これ、なんとかしてくれるんですか」


 山岡幸太郎は虚ろな目で尋ねた。斎藤奈緒の名前でメッセージを送り、来たのが俺だというのに、彼は動揺している様子がない。むしろ進んで部屋に上げたようにも感じた。

 こういうふうなことをすると気持ちが悪いと言われたり、通報されたりしそうなものだが。まあ彼は叩けばいくらでも埃が出る身だ。通報という選択肢はないのかもしれない。

 学生証の写真よりもずっと細く、骨がそのまま突き出たように細い指が震えている。


「なんとかってどういうことかな。俺は話を聞きたい、と言っただけ」


「いや大丈夫です、分かってるんで、聞いたんで、来るって聞いたから、だから、俺は何もやってないって言ってるけど、でも聞いたから」


「落ち着いてくれよ」


 先程から少し話すと錯乱するの繰り返しで一向に話が進まない。それに、この部屋は異様だ。入った瞬間からひどく臭う。具体的に言うと、大便のような臭いだ。山岡幸太郎は気にならないのだろうか。なるべく口から呼吸するようにしながら俺は話を進めた。


「亡くなった須田真理恵、君の幼馴染だよね」


 山岡幸太郎の目が開いたまま固定された。そのままこちらに顔を寄せてくる。ますます臭いが強くなる。これは彼から発した臭いなのだ、と気付く。

 結紮コードを握る手に力を込める。彼の両親は今診療に出ている。帰るまでにまだ四時間もある。

 もう覚悟は決まっていた。彼は軽そうだから、さほど屈強でない自分でも恐らく運べると思う。解体もできるだろう。器用な方だ。日本の法律では、死体が見つかりさえしなければ罪になることはない。

 行動に移そうとして――突然鋭い痛みが走る。手のひらを見ると、ざっくりと切れていた。咄嗟に鞄に手を伸ばす。手鏡を、手に取って、それで、どうするんだ、分からない、分からなかった。

 頭に様々な記憶が濁流のように流れ込んできた。


「第一回、真理恵ちゃんの顔はどこでしょう選手権!」


 猥雑な顔立ちをした男が大きな声で叫んだ。と同時に、ダーツの矢が飛んでくる。身を捩って逃れようとすると、後ろから体が跳ね返るほど蹴り飛ばされる。


「よけてんじゃねえよバケモノ」


 女の声だ。


「お前の顔、人間の顔じゃなくてなにがどこにあるか分かんないんだから、教えてあげようとしてんじゃん、逃げんなって」


「目には当てない方がいいと思う」


 山岡幸太郎の声だ。歯科でたまに先生がしているゴーグルが装着された。


「じゃあ再開ね」


 男女が囃し立てる中、人中に針が強く当たる。目に火花が走るように痛烈な痛みが走り、呻く。


「大きめのピアスができるよ」


 山岡幸太郎が頬に刺さった針を強く押し込む。悲鳴を上げる、口から細い女のような悲鳴が漏れ出る。殴られる。目から流れる涙の蒸気でゴーグルが曇り、何も見えない。

 熱湯、針、ペンチ、アイロン。道具の正しくない使い方のすべてがそこにあった。


 自分の手足を見て――そして気付く。これは俺自身に起こっている体験ではない。山岡幸太郎の虚ろな顔も変わらず目の前にある。しかし、痛みまでがリアルだった。

 視界一面に、の映像が流れる。そうだこれは、須田真理恵の記憶だ、と理解する。こんなおぞましい、醜い、記憶、体験の中で、なおも須田真理恵は微笑んでいる。

 耐えがたい吐き気が込み上げた。

 ついさっきまで山岡幸太郎を始末しようとしていた自身の残虐性も忘れざるを得なかった。人間として生まれてきたことを後悔するような思いだった。


「真理恵は死んでませんよ、いつもここにいるんです」


 山岡幸太郎は口を大きく開けてその中を指さした。洞穴のように暗いそこには何もない、何もないはずだ。


「うん、敏彦さんっていうんだよね、分かってます。俺真理恵がなんでも教えてくれるから知ってるんですすみません、でも真理恵に消えて欲しいって思ってるんです、ごめんなさいっごめん、もう言いません、許して、真理恵真理恵真理恵はもう俺の、俺のこと、俺じゃなくて敏彦さんがいいって、そしたら……できるって、だからいいんです、ここに来てくれてありがとうって言わなきゃ敏彦さん、ありがとうございます、待ってた、待ってたです、さよなら」


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