④


「ウチには留年させる余裕はないのよ」


 今日もまた言われてしまった。幾度となく聞いたセリフだが、それを言われる度に体の一部が削り取られたかのように痛む。私、もっと優秀な子だったら良かった、そう考える、苦しい。


 昨日後期の学費は父の手によってよく分からない不気味な本に変わったことが判明した。私はもう慣れていたが、母は怒り狂っている。当たり前といえば当たり前かもしれない、生活にかかるすべてのお金は母から出ているのだから。父は悪びれもせずごめんねとへらへら謝っていた。母にもいい加減気付いて欲しい、父は私たちより悪魔の像とか魔術の本が好きなのだと。

 母の母校を受験して入学したわけだが、母の頃とはちがって学費がとても高い。父の収入はあてにできない、そうなると母が毎日私に留年するな勉強しろというのも納得ができる。

 毎日憂鬱な気持ちで授業を受けている。私は歯なんて全然興味が無い。バカ高い授業料払ってもらってやりたくもないことをやっている。苦しい。

 さらに私を苦しめたのはクラスメイトたちだ。彼らはだいたいが裕福な家庭の出身だった。私の家庭も全国水準と比べれば恐らく裕福な方に入るのだろうが、住む世界が違えば平均も変わるのだ。

 私がいるグループの子は皆きらびやかで、ハイブランドのバッグは当たり前に持っていたし、高級外車を買い与えられている者だって珍しくなかったし、お昼も毎回一食3000円以上はする外食だった。少食だとか胃が悪いとか言い訳して月に一回しか高級ランチには付き合わず、トイレで120円のおにぎりを食べた。ずっとみじめで肩身が狭かった。なんとか工夫して派手な見た目をしていたから彼らと同じようなキラキラ系に擬態できていたのかもしれない。

 クラブとか飲みとかだと奢ってもらえることもあったが毎回ではなく、彼らと行動するのにはとにかくお金がかかる。同じ悩みを抱えていた山梨県出身の水沼真知子は夜キャバクラで働いていた。しかしそれは真知子が親元を離れて一人で暮らしているからできることであって、実家暮らしの私には無理だった。

 お金を作るために入学祝の腕時計をネットで売った。10万円だった。全然足りなかった。母の財布から数万円抜いたこともある。

 そこまでするなんて馬鹿に見えるだろう。でもやりたくもない勉強とバランスの崩れた家族の中にあって、彼らと一緒にいることだけが私の心の楽園だったのだ。

 転機が訪れたのは酒に酔って先輩の鷺沼圭一と寝たときのことだった。彼は飛び抜けて裕福な家庭の出身ではなかったが、何故か誰よりも気前が良く、飲む時はその場にいた全員に奢っていた。見た目もそれなりに良く、金持ち特有の余裕みたいなものがあったので同性からも異性からも憧れの存在だった。だから目が覚めて裸で抱き合っていたときも全く嫌な気持ちにはならず、胸にもう一度顔を埋め直したほどだった。彼が目覚めると私は抱えていた悩みを全て打ち明けた。圭一は私を抱きしめると奈緒だけに言う、と言ってあるビジネスの話を始めた。女であることを利用した簡単な仕事だ。風俗のようにセックスしたり、キャバやガールズバーのように気が向かないのに男に優しくしたりする必要もない。私は一も二もなくやりますと言った。


 信じられないくらい簡単にお金が手に入った。罪悪感はなかった。というより、最初あったそういうものは、何回かやっていると薄れていった。そしてそんなものはない方がずっとうまくやれた。

 お金に余裕ができてからは心にも余裕が出来た。母の言葉も気にならなくなったし、何事にも全力で取り組めるようになった。気になっていた男子全員と寝た。そのせいで女の子の友達はいなくなったが、どうでもいいことだった。

 鈴木博之、笹岡良平、田村翔太、実習班も同じのこの三人は私のお小遣い稼ぎを手伝ってくれたこともあって、特に仲が良かった。大学をサボって良平のアパートに上がり込み、朝からセックスをして、そのあと全員で食べる出前のピザの味は最高だった。二年に進級するとそこに山岡幸太郎も加わった。山岡幸太郎はすらっとした長身のイケメンで、なんだか壊れていた。失礼なことを言ったり意地悪なことをするわけではないのに、言い回しや考え方になんだか人間ではないみたいな違和感があって、ルックスもいいのにあまり良く言う人がいなかった。クラス全体の飲み会で隣になり、なんとなく意気投合してそのまま二人でホテルに行った。信じられないくらいうまくて感動した。経験人数何人くらい、と聞いたら200か300とか言うので適当なことを言うなと笑ったが、長く付き合ううちにそれは本当だと分かった。私はすっかり幸太郎に夢中になった。べつに「うまさ」だけで好きになったわけではない。私は結局あれほど軽蔑していた父と似ているのだ。怖いものや変わったものにどうしようもなく惹かれてしまう。

 彼女でもないのに、彼の行く場所にことあるごとに付いていった。拒否されたことはなかったので彼もそれなりに楽しんでいたと思う。

 何度か幸太郎の家にも行った。モデルルームのように清潔で広い家。幸太郎に似た美しい母親と背が高くてお洒落な父親。いつ行っても明るく出迎えてくれて、私の家庭とは全く違うんだなと思った。同時にこんな家庭でどうして幸太郎はぶっ壊れてしまったのかな、とも。

 彼の部屋であのアルバムを見付けたのは衝撃だったが、結果的には幸運だった。

 同じクラスのブス田――これは私と一部の人たちが呼んでるあだ名で、本当の名前は須田真理恵。目と鼻がポチッと小さくて肌が脂性なのかいつも鼻の横にデキモノができている。私はブスが嫌いだったし極力関わりたくなかったが、学籍番号の関係でロッカーも隣だったし実習も同じ班になることが多かった。ブス田は顔が悪い上に要領も悪くて適当に済ますということが出来ず、実習を早く終えて帰りたい時も「まだここができてない」とか細かいことを言って続けたがる。同じ班の私はいつもイライラしていた。空気が読めないブスは最悪だ。

 とにかくその最悪のブス、ブス田の写真ばかりが、なぜか幸太郎の部屋にアルバムでまとめられている。写真の中のブス田はだいたい裸か、裸よりもいやらしい格好をしていて、傷だらけだった。ところどころ青かったり黄色になってたりするボコボコの体をしていて、お腹のところには『糞豚』と書いてあった。ページをめくるたびブス田はどんどん若返って、小学生くらいと思われる写真が最後のページだった。

 アルバムを閉じて深呼吸をする。私はとんでもないものを見てしまったという恐怖と同時に興奮を覚えていた。濡れているのが自分でも分かる。


「真理恵は近所に住んでるんだ」


 驚いて振り返ると幸太郎が全裸のまま後ろに立っている。いつものように綺麗な顔に静かな微笑みをたたえている。それでもあのアルバムを見たあとだとどうしてもその微笑みが恐ろしい意図を含んでいるように感じて脱いだ下着をそっと近くに引き寄せる。


「結構最近までよく遊んでた」


 幸太郎は私の横に腰掛けるとアルバムを手に取りパラパラとめくった。彼は少し掠れた声でアルバムの中の少女の話をした。まるでなんでもないことかのように、おぞましい内容を。うっかり美しい思い出であると錯覚するくらいに淡々と。

 私は彼の綺麗な横顔を見ながら色々なことを考えて――そして言った。私たちも遊びたい、と。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る