③
椅子に深く腰掛けると、斎藤晴彦先生はこちらに聞こえるほど深くすう、と煙を吸い込んだ。肺の奥まで充満する煙を想像して気分が悪くなる。佐々木るみは平然としている。そういえば彼女も喫煙者だったな、と思い出す。俺は煙草を吸わない。
「娘のことならもう諦めているんだ」
斎藤先生は表情を変えずに呟いた。
「母親似でしっかりした子だと思っていたんだけどなあ、やっぱり僕の影響だね、あんなものに軽はずみに手を出して」
「いえいえ先生の著書は大変興味深く、講義はすこぅし、ほんのすこぅし退屈だなと思う部分もありますけれど、趣味のオカルトで先生の右に出るものなどおらず他の追随を許さない」
佐々木るみは一度話し始めると止まらない。慣れているのだろう、斎藤先生は軽くいなして、
「オカルト先生、と呼ばれてるのは知ってるよ。本業より全然、そちらの活動が評価されているのも。昔からそういうのが好きでね。今だって本業よりもテレビや雑誌の仕事の方が好きでね。ソースがいらないだろ。本当にあるかどうかも分からないものの方が怖いって……いや、お手軽に怖がれるっていうか。楽しいよね」
「わ、わかりみが深い~!ワシも調べて頑張ったけど結局分からぬまま終わり、みたいなのが好みでござる!」
佐々木るみが身を乗り出してまくし立てた。話が食い違っているような気もするが、斎藤先生は微笑むだけだった。
「なるほど、佐々木さんがいつもこまごまと調べているのは分からないことを解決するためというよりもむしろ、『全く分からない』と分かるためなんだね……はは、なんだかわからないということがわかるって、変な感じだね」
「あの」
意を決して声を上げる。声を出すと余計に頭痛がひどくなるような気がした。
「今日は聞きたいこととお願いしたいことがあって来たんです、それは斎藤奈緒さん……娘さんの話ではないんです」
「というと? 」
「斎藤晴彦先生は、体調は大丈夫ですか」
「至って元気、だけれども……どうして? 」
おかしい。なぜだ。なぜ俺と山岡幸太郎だけ死ぬこともなく生かされて、苦しめられているのか。佐々木るみと若槻寛子の身に何も起こっていないこと、何故か俺と山岡幸太郎だけが生かされて苦しめられていること、これは俺と山岡幸太郎が男性であるからだと勝手に思っていた。まさか、法則がないのだろうか。あの女の呪いではないのだろうか。分からない。ふと気付くと斎藤晴彦先生が心配そうにこちらを見ていた。彼は恐らく無神経なだけで、善人なのだろう。娘と違って。
「変なことお聞きしてすみません。それともう一つ、これはお願いなんですが、笠島さんに連絡していただけるでしょうか」
「もしかしてまた新しく何かあったの? 」
斎藤晴彦先生の顔がぱあっと輝く。やはり人の親としては神経を疑う部分もある。
「やっぱりね。そう思ってもう呼んであるんだよ。あとどれくらいかかるか聞いてみるよ」
いそいそとスマートフォンを取り出す彼の顔を見て、斎藤奈緒は父親似だったのだな、と感じる。
待っている間座っているのもなんだし、ちょうどお昼なので何か出前でも取りましょうか、と提案するとそれは採用され、ピザを取ることになった。
「つかぬことを伺いますが」
佐々木るみがおもむろに口を開いた。
「東大氏にはあのとき何か別のものが見えませんでしたか」
「あのときというと」
「ナンチャッテお祓いのときでござるよ」
「あれってナンチャッテなの?」
「ええ、何も解決してはおりませぬゆえ」
佐々木るみはさらりと言ってのけた。
「その調子では見えておったのはワシだけだったようですなあ」
「何が見えたか教えてよ、やっぱり真理恵って女の子が見えたのかな?」
佐々木るみはニヤリと笑う。
「女の子などではありませぬ、あれは。角があって羽が生えて関節が逆についている動物を女の子と呼ぶのですかな?あんなにはっきり姿を現しているのにそれに気付かぬとは、お祓いなどちゃんちゃらおかしいでござるな」
「どうしてそれを言わないんだよ」
斎藤先生はまだ電話の向こうの笠島と話している。斎藤先生には聞かせられない。声を落として佐々木るみを問い詰める。
「最初に笠嶋さんのところに行ったときも何も見えないって言ったじゃないか。嘘だったのか?」
「東大氏に言われたくないでござるな」
佐々木るみは薄く乾燥した唇をぺろりと舐めた。メガネの奥の小さな瞳がこちらを見据えている。
「東大氏も気付いておったでござろう。奈緒殿のやったことも、それで起こりうることも。でも言わなかった。心の奥では自業自得だと思っていたから。違いますか?同じでござる」
何も言い返せなかった。俺はあのとき何も推測を語らないことで、傍観者を気取ることで斎藤奈緒と、何の罪もない金町タキオまでも見捨てたのだ。
「ご安心召されよ、東大氏はワシの数少ない友人ですから、東大氏のことでは嘘など吐きませぬし、なるたけ協力もさせていだたきたいですな」
「ありがたいね」
自嘲気味に呟いた。そうだ。この女も俺も、斎藤奈緒と変わらない考えを持っている。自分が楽しければそれでいいのだ。自分や近しい人間が危機に陥れば対処に奔走するが、それ以外の人間などどうでもいいのだ。だから呪われても仕方ないのかもしれない。
「それにしても角があって羽が生えて関節が逆って、エリファス・レヴィのバフォメ」
「言うな!!」
佐々木るみが怒鳴るのと窓ガラスに何かがぶち当たる音がするのと同時だった。
「えっなんだこれ」
斎藤先生が窓に近付く。カラスだろうか、黒い羽と赤い血がベッタリと張り付いている。
「うっわあーすごい、なんか起こりそう、不吉、不吉だねえ」
興奮したように斎藤先生が言った。やはりこの人、どうかしている。この人に比べたら俺も佐々木るみもマシな方だ。この人は厄が自分の身に迫ってなお、こうなのだから。
「口に出してはいけませぬ」
佐々木るみが小声で囁いた。
「このように、来てしまいますからね」
心臓の鼓動が速くなる。地面に叩きつけられ吹きこぼれたカラスの臓物を想像する。収まりかけていた頭痛が再開しそうだった。
斎藤先生だけはあくまで脳天気にはしゃいでいる。
「片山くん、顔が綺麗だね。奈緒ちゃん……娘が好きそうだ。もし娘が帰ってきたら、そのときは一緒に遊びに行ってほしいな」
その一時間くらい後に来た笠嶋の顔は相変わらず土気色をして痩けていた。しかしこの間見た時よりは少しマシになっている。脂肪も筋肉もない体を折り曲げて座る様子はアシダカグモのようだ。
「こないだは悪かったな、あの子に憑いてるもんがこわぁてな、はよ帰ってほしかったんや」
笠嶋は溜息をつく。
「晴チャンもすまんな。御嬢さんの事でなんもできんかったし――それにええと、不愉快になったやろ」
「いや、娘のことは全然分かっていなかったから。随分会っていなかったけど父親として責任を感じるくらいで」
先生には気を遣って言わなかったが、概要はもう知っているのだろう。思っていたとおりだ。斎藤奈緒はイジメによって須田真理恵という同級生を死に追いやった。恐らくそれが原因で一連の怪異は起こっている。かがせおさまは関係がない。
笠嶋はこちらに向き直る。
「それでなんでかいまはそちらの、片山クンが大変なことになっとる」
「やっぱり見えるんですね、あのあ」
思わず身を乗り出すと、佐々木るみが手を肩においてそれを制する。挑むような口調で、
「笠嶋氏は何が見えたのでござるかぁ?」
「まぁ落ち着きなさいよ。私も正体までは分からん。黒くてなぁ、山羊みたいな……まあ、はっきりせんうちはよう言えん。せやけど佐々木サンがなんともないのは不思議なことやな」
「笠嶋さんも……きちんと分かるわけではないんですか」
絶望的な気持ちで呟く。笠嶋は不思議なことだと言った。つまり、この呪いの法則は彼にも分からないのだ。彼がいれば全てが解決すると思っていた。それなのに。悪寒が増した気がする。頭の中で声が響く、虫が蠢く、粘液が垂れる、醜い女の顔が膨れ上がって破裂する、総天然色の女の裸体はさながら桃のようだ、桃、桃は魔除、神の御加護、意富加牟豆美、桃太郎、鬼鬼、橋姫、妬ましい女を取り殺し、鬼、鬼退治、犬猿雉、犬、犬だ、人は犬、男は犬だ、女の上で腰を振る、扉を叩く、三回ずつ、三回コンコンコン強く叩く打ち付ける這い出る這い寄るヒタヒタと確実に蝕んで名前を呼んで触ってほしいと何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
―――パン
乾いた音が響いた。頬が熱くなり、ジワジワと痛む。目の前に痩せた男の顔。そして気付く、これは笠島が俺の頬を叩いた音なのだと。同時に凄まじい恐怖が押し寄せる。俺は一体いまどこに行ったのだろう。あの胸が悪くなるようなどぎつい極彩色の世界。永遠の悪夢。そこに足を踏み入れ、一人だったら帰ってこれなかったかもしれない。
「落ち着きなさい言うたやん」
見れば笠島もタバコをふかしている。不愉快なはずの臭いが何故か清涼に感じる。気のせいではないようだ。明らかに部屋の空気が変わっている。喫煙が一番効くと、金町タキオも言っていた覚えがある。しかし、斎藤先生の煙はただ不快なだけだったが。不思議だ。
「感じるし、強いモンの声なら聞こえるし、まあまあ見えるんよ。でもな、ほんまにちゃんとは分からんのよ。ここにはもうおらんから。おらんはずやのに、君の頭にモヤみたいなんが見えるんよ」
「ここに……いない?なんでですか?いないのにモヤが見えるってどういうことですか?じゃあどうしたらいいんですか?何も出来ないってことですか?このまま何も出来ないで俺は死ぬんですか?嫌だ、それは嫌だ」
「落ち着けや、三回目やぞ」
笠嶋がピシャリと言い放つ。
「情報がないんよこっちには。せやからどうしたらええか分からんのよ。君の体験したこと、知ってること、全部話しなさい。佐々木サンもな」
佐々木るみがぺろりと舌を出す。この期に及んで彼女は笠嶋を値踏みでもしているのだろうか。協力したいなどと言いながら彼女が辿りつきつつある結論は教えるつもりがないのだろう。恐ろしい女だ。
「全部録ってあります」
ボイスレコーダーを机の上に置いた。
「それでも足りなければ全て、俺の推測を含めて、お話します。記憶力には自信があります。命がかかっているので。お金もお払いします、ですから……お願いします、助けて下さい」
「金なんていらんよ」
煙が部屋を覆い尽くす。
「どうせ君を放っといたら次に回ってくるんはウチらや」
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