②
「斎藤奈緒さんが呪いのビデオってことだね」
自分の発言を反芻する。
中田秀夫監督の「リング」はジャパニーズホラーの地位を確固たるものとした傑作なのは間違いないと思う。近年上映していた「貞子VS伽椰子」や「3D貞子」なんていうのはもはやコメディと呼んでもいいくらいで、かなり陳腐化されてしまったけれど、やはり一作目の映画の恐怖は本物である。長くて黒い髪の毛を顔の前に垂らした女という幽霊のビジュアル。メジャーな記憶媒体であったVHSを通じて伝搬していく呪い。七日間という短い期間で繰り広げられる人間ドラマと、あまりにも後味の悪い呪いの回避方法。
初めて観た日の夜は眠れないくらい怖かった。
佐々木るみから彼女のゼミの教授の娘が悩まされている怪異の話を聞いて付いていくことを決めたのはそれが神域の出来事だと思ったからだ。俺は人間が死んだ後の姿である幽霊よりも、神だとか悪魔だとかバケモノだとか、そういったものに興味があった。理由としては体験したことがあるから、としか言えない。それらは元は人間だったもの――幽霊の類と違ってそもそも意思の疎通が取れないし、人間の力ではどうすることもできない場合が多い。それでも何かあるかもしれないと思って人は必死に解決方法を探す。俺もそうだった。そして決定的に負けた。なす術もなかった。
だからもし、神域のものに対して対抗策があるのであれば、見てみたかったのだ。
しかし斎藤奈緒に会って事件の経緯を聞くと、それから導き出される答えはひとつしかなく、それはその後起こった怪奇現象からも明らかで、正直落胆した。
彼女が個人的な要因によって受けた呪いの結願を邪魔する者、あるいは同じように要因を持つ者が死んでいく。それだけのことだった。彼女が呪いを伝搬する媒体だったのだ。
神やそれに準ずるものはもっと理不尽で会話の余地がなく原因も結果も曖昧で突然やってきて全てを奪う。俺も佐々木るみもよく知っていた。
そういうわけで今回はあくまで第三者としてものごとが終結するのを見ていた。
笠島(彼には全て見えていたのだろうが)にお祓いを断られた時も、あの不気味な電話がかかってきたときも、金町タキオが失敗した時もそれを見ていた。彼女のお祓いの様子、あれはお祓いというより神へのお願いという形だったように思う、一連の流れの中でそれだけは少し興味深かった。神ではないはずのアレに一時的にでも効果が出たのはどういうことなのか。また、「間違った方を祓った」
とはどういうことなのか。
佐々木るみから斎藤奈緒が行方不明になったことを聞いたときも驚きはなかった。原因があって結果がある。斎藤奈緒は自分の犯した間違いによって断罪され、すべては終結する、はずだったのに。
あの日から昼夜を問わずスマートフォンに電話がかかってくる。
電話はの主はいつも、大人数の声に混じって、女の声で何かを訴えてくる。録音し、クリアにしてみてもよく聞き取れない。
それだけではない。ひとりで個室にいると必ずドアを叩かれる。それは自室でも、研究室でも同じことだった。コンコンコン、という三連続の軽いノック。応えないでいるとそれは強く大きく、終いには扉を叩き壊さんばかりになる。必ず三連続だ。
とうとう先週の日曜日には家にまで来た。深夜の2時にモヤのような何かがインターフォンを鳴らした。何度鳴らされても反応しないでいると日が昇ると同時にフッと消えた。
決定的だ、と確信する。
彼女を媒体にした呪いは終結していない。
俺は彼女に障ってしまった。ゆえに、呪われた。
俺は彼女のことをもっと調べなければならない。アレはおそらく神ではない。何かしら呪いを終わらせる方法があるはずだ。
ふと気付くと箱に入っていたドーナツを食い尽くしていた。腹はくちているのに何かを口にしていないと落ち着かない。止まない耳鳴りと脈絡なく出る鼻血を食べ過ぎのせいにして、佐々木るみに連絡を取ろうとスマートフォンを耳にあてる。
『さわって』
女の声でスマートフォンを取り落とす。
耳鳴りが止まない。
家に帰ると誰もいなかった。母はおそらく近所の奥様方とお茶でもしているのだろう。そう思ってキッチンに入り、冷蔵庫を開けてペットボトルのお茶を飲み干した。
外は蒸し暑く、からからに乾いた喉に水分が行き渡ってなんとも心地いい。
――んー
ふと女性の声が聞こえる。母親だろうか。そう思って
「だれ?」
と尋ねる。
すると向こうも
「だれ?」
と尋ねてきた。
「やだな母さん、敏彦だよ」
「としひこぉ、としひこ」
声はにわかに嬉色を帯びた。そんなに息子が帰ってきたのが嬉しいのだろうか。前までは変な趣味に傾倒して家から出ないと言って悩んでいたくせに、不思議なものだ、と少し笑う。
「なんだよ」
母さん、と言いかけて止まる。声の主の姿を見て―――これは―――母さんじゃない!
足と手が異様に細くて長い人間のようなものが四つ足で廊下の向こうから這ってくる。上下さかさまについている女の顔がニタリと笑ったように見えた。
「とーしーーひーーこぉお」
それは床を這って追ってくる。走って外に出て、追いつかれるギリギリのところで玄関を閉める。玄関を開ける力はないようで外に出てくる様子はない。恐る恐る玄関の覗き窓から中を見る。あんなバケモノがいるはずはない、そう思って。やはり何も無かった。連日の疲れから見た幻覚だったのかもしれない。深呼吸をしてドアノブに手をかけると、違和感を感じて足元に目を向ける。
それが俺を見上げて笑っていた。大きな空洞のような、歯もなにもない口を開けて笑って
「としひこ、さわってえええええええ」
目が覚めた。いや、目が覚めたのだろうか。それも分からない。斎藤奈緒が失踪してからずっと、終わらない悪夢の中にいるようだ。何度目の怪異現象かも分からないくらい、何度もこういうことは起こる。
あれは、あの女はどんどん近付いてくる気がする。
昨日のことだ。深夜一時にバイト先である学習塾の先輩講師の名前がスマートフォンの画面に表示された。変な電話が始まってから常に非通知だったため、注意深く名前を確認し、電話に出た。
「敏彦くん、今外に出られる?」
「えっ今ですか」
「そう、ごめんね、でもちょっと大変で」
塾生の保護者と何かトラブルでもあったのだろうか。以前も夜保護者とのトラブルで呼び出されたことがある。それにしても深夜というのはあまりにも非常識だが。
『もう本当にね、大変なの』
「わかりました。何があったか教えてください」
『もう本当にね、大変なの大変なの、来てるのたくさん』
先輩は混乱しているのか同じことを繰り返した。たくさん来ているというのは、保護者がつめかけているということだろうか、と思った。何をやらかしたらそんなことに。
「落ち着いてくださいよ、何があったかを、ゆっくり」
『来てるのよーたくさんったくさんたくさんっ』
背筋に冷たいものが走る。おかしい。声が近すぎる。
『来てるよーとしひこ来てるーたくさん来てるー』
「先輩、いまどこにいるんですか」
『としひこっ見つけてよ来てるんだからたくさんったくさんったくさんったーくーさーんー』
玄関のドアが激しく叩かれて、鍵が開く音がする、しまった、入られた!
階段を駆け下りると暗い廊下にぼんやりと光が差し込んでいる。トイレに明かりがついているのだ。
『はやくーったくさん来てるよーっ』
恐る恐る近付くとトイレのドアが勢いよく開く。
『「よくできました!」』
電話の声と目の前の声が重なる。
誰もいない。
そのまま意識を手放す。
これが昨日の夢だ。恐らくは、夢だ。目覚めるときちんとベッドにいたのだから。
もちろん、着信履歴に先輩の名前はなく、念のため確認してもそんな非常識な時間にもちろん電話などかけていないと言う。
せっかくだから食事に行こう、との先輩の誘いをなるべく失礼の内容に断る。せっかく、何がせっかくなのか。
のろのろと立ち上がり、トイレで胃の中のものを全て吐き出す。吐き気と頭痛が止まない。今日は斎藤奈緒の父親に会いに行く日だ。
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