⑧
あれは本当に金町タキオなのだろうか。そう思うほどに彼女は満身創痍だった。
どこにでもいる中年女性、といった彼女の特徴はすっかり取り払われている。左腕と左足にギブスを巻き、そこから赤黒い血が滲んでいる。なにより顔が袈裟懸けに斬られているのだ。
「空気が悪いわね」
彼女が口を開くと、声と一緒に切れた上唇から泡が漏れる。一歩一歩こちらに近付いてくる様子は、むしろ彼女こそがお祓いの対象のようだ。あっという間に喫茶店にいた客が蜘蛛の子を散らすように出ていってしまう。
「その、痛くないんですか……」
タキオは私の問を無視して腰を下ろし、鞄から紐や、鏡、お札、といったものをどんどん出していく。
そしてまた、これが一番効くから、と言いながらタバコに火を点けた。タバコを持つ指が震えている。彼女が煙を吐くと袈裟懸けの傷が虫のように動いた。
「引き下がれないのよ、こちらも。勿論プライドもあるけど……それより頼まれちゃったから」
「ヒロにですか?」
冴子は私の背後を見て首を横に振る。
「違うわ。あなたを守っているもの。今もあなたの横にいるの。よほど強いのかしらね、奈緒ちゃんを守っているものは。傷一つついていないものね、私はこんなになったのに」
守られてる、と言う言葉を聞いて何故か悲しい気持ちになった。勝手な想像で原因と結果を結びつけるのは憶測に過ぎない。敏彦さんもそう言っていた。それでも感じてしまう。さっきの電話の声。そしてあの夢。私はあの子に守られている。
「真理恵だ」
ヒロが呟く。佐々木るみがそれは誰かと尋ねた。
「私たちのクラスメイトだったんです。真理恵。三年生のときに自殺してしまったんですけど……」
「そうなの……私に見える姿は女の子ではなかったけれど、きっとそうね。あなたはラッキーだわ」
タキオは星のようなものが描かれた紙を机一杯に広げ、四隅に鏡を置いた。そして、私たちにお祓いの間は決して声を上げず、その星の中心だけを見るように指示をした。
「今の話を聞いて分かったわ。きっと真理恵ちゃんのおかげね。この間よりあれはずっと弱い。弱くて、ほとんど残りカスみたいに見える。だからすぐ終わると思うわ」
そう言いながら彼女は急に机を強く叩き出す。
――おえんわ
地鳴りと共に首にまとわりつくような寒気が襲ってくる。昼間のはずなのに、にわかに店内が薄暗くなってくる。敏彦さんも、るみでさえ表情が固まっていた。タキオの握りしめた石だけが光っていた。私は体を縮めて、紙に書かれた星の中心に意識を集中させる。
――さいとうなお
突然、その声は私の名前を呼んだ。ハッとして顔を上げようとすると、タキオが頭を抑えつけてくる。
「聞くな!」
――さいとうなお、おえん、おえんわぁ
タキオは一層強く机を何度も叩いた。その音をかき消すかのように、声が大きくなっていく。
――おえんな、さいとうなおおえんわおえんおえんーーーーおえんーーおえんーおーーーえーーーんーーーー
地面が揺れている。支配されそうなほど声が響く。頬に硬いものが当たり、鋭く痛んだ。
視界の隅で、タキオが紐を動かしているのが見える。
「お引きでございます」
タキオの声が高らかに響いた。それと同時に地鳴りが止み、体が軽くなるのを感じた。それでも私はしばらく星の中心から目が離せなかった。
ややあって、佐々木るみの「はあ」という気の抜けた声がする。おそるおそる顔を上げると、タキオが倒れている。ヒロが短く悲鳴を上げて抱き起こそうとすると、タキオのギブスをはめていない方の手がパタパタと動いた。
「大丈夫、力を使い切ってしまっただけ……」
タキオの血まみれの指を見て、頬に当たったのが彼女の爪が剥がれたものだったということが分かる。
「いや、そういうわけにはいきませんよ、すぐ病院へ」
敏彦さんが抱き起こそうとするとタキオは弱々しく抵抗して、
「これは然るべきところに届けなくては。病院も、それからきちんと行くわ」
そう言いながら彼女は上半身だけ起こし、机の上の紙を畳んだ。
袈裟懸けの傷から血が滴り、床を汚している。
今度は彼女がヒロから封筒を受け取っていた時とは違って、本心からありがとうございます、と言う言葉が私の口から出た。
「奈緒ちゃん、もう面白半分に神様と縁を結ぶのはダメ。分かったでしょう?神様はいいものばかりではないの。今回は残りカスのようになってしまっていたからなんとか私でもできた。でも、本当は無理だから」
あなたは本当にラッキーよ、とタキオが続ける。そうだ、私はとても運がいいのだ。結局、追求されずに済んだ。
佐々木るみが興奮しながらサイトに上げていいかなどと聞きながら星の上に並んだ鏡を撮影している。こんな騒動があり、備品も壊れ、床も血塗れだというのに佐々木るみの母親も特段驚いた様子もなくお掃除しなきゃ、などと呑気に言っている。まったく、見た目だけではなく性格も似た親子だ。
喫茶店の窓から日が差し込んでいる。
「色々疲れただろうし、今日は帰って休みなよ。店の片付けとか、俺らでやっておくから」
敏彦さんは声まで美しい。
私はお言葉に甘えてまっすぐ帰ることにした。そして、帰ったら父にもお礼を言おうと思った。
敏彦さんたちと別れて私はなんとなく、大学の前まで来ていた。あの家の焼け跡は未だにテープが張り巡らされ、一般人は入れないようになっている。
何人も人が死んでしまった。私が助かったのは本当に偶然と幸運が重なった結果だろう。私は自然と手を合わせた。
ふいに、ポケットが振動した。誰かと見ると、敏彦さんだった。実はあの後連絡先を交換していたのだ。私は少し嬉しくなって電話に出た。
『斎藤奈緒さん』
敏彦さんの少し低い声が耳に心地よく響く。
「敏彦さん、さっきはありがとうございました!今後なにかあったら、また連絡しても」
敏彦さんと食事に行きたい。オカルトに興味がある人だから、父をダシにすれば行ってくれるに違いない。場所はどこでもいい。敏彦さんの顔を見ながらだったら、マックだってファミレスだってミシュランの星付きより美味しく感じられると思う。それで、そのあとは。
『あのね、落ち着いて聞いてほしいんだけど、金町タキオさん、あのあと急に具合が悪くなって病院に運ばれた、それで斎藤奈緒さんに伝えなきゃいけないことがあるって』
指先から一気に冷えていくようだった。
どうして、あのとき大丈夫だって、終わったって言ったのに。
『逃げられないから』
ちがう、私は逃げられる。これからもずっと、何も追求されることはない。ひどい目になんて合わない。私は。
『ずっと見てるの、どうして気付かないのっ』
私のことなんて誰も見ていない。私は大丈夫だ。私は絶対に大丈夫。
『あんた悪い子ぉやな』
悪い子じゃない。何も悪いことなんてしていない。私は被害者だ。
敏彦さんが何か言っている。電話の音は途切れ途切れで、ノイズが混じって、それで――
『まちが…うをけし……って』
電話の向こうの敏彦さんの声が消えていく。耳鳴りがする。
『奈緒ちゃん、やっと遊べるね』
焼け跡で女が微笑んでいる。正面を向いて、私に手を振っている。
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