「奈緒ちゃん、ママは元気?」


 呑気な声を出しているこの男こそが、最後の砦の「彼」、父の斎藤晴彦だ。

 職業は大学教授、文化人類学者あるいは民俗学者などと呼ばれることが多い。しかし世間的にはむしろオカルトライターとして有名だ。「百鬼夜行」というオカルト雑誌の監修もしていて、ホラー特番には必ずと言っていいほどゲスト出演していた。


 父は皺が少なく髪もフサフサと生えていて、50代半ばにはとても見えない。しかしそれは、彼がおよそ夫らしい、父親らしいことをせず、自由に生きているからだ。私が大学2年生のとき、父は母の手で家を追い出された。以来、離婚はしていないものの別居状態が続いている。歯科医師として小さなクリニックの雇われ院長をしている母は、気が強く現実主義者だ。父が値段を見ないで大きな買い物を平気ですることや、テレビの仕事が増えた結果怪しげな手紙や贈り物が毎日のように届くことに耐えられなかったのだ。


 私も昔は父が好きだった。父の話す不思議な話や怖い話が大好きだったし、父の研究室の学生やオカルト関係の知り合いなどと一緒に突発的な小旅行に連れて行ってもらうのも楽しみだった。母は嫌がっていたが、呪術や占いに使う道具や名前も知らない神様の像も見るだけでわくわくさせられた。しかし私は高校生になったあたりでやっと気付いた。父は家にお金を入れていない。家賃も光熱費も食費も、私の学費でさえ全て母が払っていた。

 父は好きなことをして好きなように生きているためいつも健康で優しく良い人間のように見える。しかしそれは経済活動や親子・夫婦関係で生じる一切の責任を放棄しているゆえの優しさだ。有り体に言えば、彼は家族を省みていない。今考えると幼い時から私に接する態度は父親のそれではなかった。怒鳴られたり暴力を振るわれたりすることはなかったが、子供として叱られたことも、教育されたこともなかった。彼は良き友人だったが、良き父親ではなかったのだ。それに気付いてから私は父と必要以上に仲良くするのをやめた。母が父に高圧的に接したり、出ていけと言い渡した時でさえ反対しなかった。むしろ、母のストレスの根源が除去されるであろうことに安心したくらいだった。

 それでも父は変わらなかった。父は母と私が自分を嫌いになったわけではないし、また仲良く暮らせると思い込んでいるようだった。おそらく今も、のらりくらりと話し合いから逃げる父にウンザリした母が「じゃあ離婚しなくていいからとりあえず別居」と言った、その経緯は無かったことになっているに違いなかった。

 別居後、基本的に連絡を無視していたため、直接会うのはじつに3年ぶりになる。やはりまったく変わらない様子の父を見て、得体の知れないなにかへの恐怖心が少し薄れた。


「まぁ、元気ですよ。パパも変わってなくてよかった」


「早速だけど」


 と父が身を乗り出した。


「興味深いネタだね、この幸太郎って子が吐いたブツも見てみたかったなあ」


 こういう全然他人の気持ちとか考えられないとこ本当に変わってない。悪気はない、悪気がないのは分かるのだけど。自分で眉間にしわが寄っているのがわかった。


「パパは霊能力者とかじゃないけど、分かったことが一つだけある。その家のお爺さんが言った“かがせおさま”という名前。それが何者かということ」


 父はプリントアウトした何かの資料を指し示す。


「アマツミカボシ、といえば奈緒ちゃんも分かるんじゃないかな。日本書紀に登場するまつろわぬ神」


「アメコミに出てた」


 そう呟いて資料に目を落とす。




 一云 二神、遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星神香香背男耳。


 故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。 



あるに云はく、ふたはしらの神 遂にあしきかみ及草木石くさきのいはたぐひつみなひて、皆己すでむげをはりぬ。其のまつろはざる者、唯 ほしかみ香々かゞのみ


 れまた倭文神しとりのかみたけつちみことつかはせば、すなはまつろひぬ。故れ二神 あめに登る。倭文神、此をば俄未かみと云ふ。


 つまり日本神話においてかがせお様、アマツミカボシ、そう呼ばれるものは悪い神として扱われているんだ。強く、服従することのない存在。現にこの話でもかがせおさまは平定ではなく、たけつちみことによって懐柔されている」


 父は興奮した調子で続けた。


「幸太郎って子が撫でまわしていたご神体、彼はお星さんみたいだ、と言ったんだよね?まさにそれなんだよ、かがせおさまは星、金星を神格化した存在なんだ。いやあ、こういうケースは初めてだよ。テレビで来るのは狐憑きとか、悪霊とかそういうのだからさぁ。神様だよ、しかも大物だよ。すごいねえ、初めてだよ、神様の祟りなんて」


「じゃあ、神様だから、もうどうしようもないということ?もう私は死ぬしかないってそういうこと?」


 目から涙がこぼれ落ちた。こんなときでも父は、私を親として心配するのではなく、自分好みの超常現象が起きたことに興奮している。無邪気ともいえる無神経さがたまらなく悲しく憎たらしかった。

 父が慌てて私にティッシュ箱を差し出す。私はそれを払いのけて声をあげて泣いた。色々なことが溢れて、どうしようもなかった。


「いや、こういうときに頼れる人沢山知ってる、知ってるから!」


 父が上ずった声で言った。


「本当に。パパは雑誌の仕事もテレビの仕事もしてるから、知り合いだけは多いの!もう連絡もしてあるんだよ。大学の仕事があるからついては行けないけど……」


 私は父を睨みつけた。父は気まずそうに目を逸らす。


「うちの学生について行ってもらうから、さ」


 父にしてはかなり気が利いている。少しは父も成長して、人の心の機微を学んだのかもしれないし、ずっと泣いていても父は動揺するだけでなにが変わるわけでもない。鼻を思い切りかみ、気を取り直して尋ねる。


「どんな人?パパのとこの学生さんだから変人だろうけど、あんまりヤバくないといいな」


「奈緒ちゃんは去年報道されてた富山連続儀式殺人事件、覚えてるかな」


 覚えているも何も、それは去年一番騒がれていた事件だ。富山県で男子大学生が家族ぐるみで起こした連続殺人事件。五年以上も前から女性を繰り返し誘拐して惨殺し、本人たちがよみがえりと主張する儀式に使っていた、という恐ろしい事件だ。確か犯人の大学生は不審な死を遂げ、間一髪で難を逃れ警察に通報した女子大生も数か月後に謎の失踪を遂げた、という実に不気味な結末を迎えている。ニュースで見たとき母が、

「こういうのパパが好きそうね」と呟いたのを覚えている。


「あの事件は色んなサイトに取り上げられていてね、でもほとんどが週刊誌やテレビのツギハギというか二番煎じというか。単なる妄想で事件を解説してるものばかりだった。でもそんな中で、事件が起こる前からその儀式について書いてあったサイトを見つけたんだ」


 父はスマホの画面を私に見せる。


「オカマニ.comドットコム?」


「変な名前だろ。でも内容はすごくしっかりしてる。都市伝説やネットの怖い話を実地調査までして考察してるんだけど、素人離れしてた。調べてみたらサイトの管理人はうちの学生だったんだ。いやあ、嬉しかったね」


 父は満足げに微笑んでから、私の顔を見てハッとして姿勢を正す。また怒られると思ったのだろうか、と少し笑ってしまう。


「急なんだけど、今日の三時半に新宿駅に来てくれるそうだ。佐々木さんという女性だよ」


「ありがとう」


 お礼を言うと父は少し照れくさそうな顔をして、かなり変わってるけど悪い人ではないから、と付け加えた。




























 新宿駅西口地上改札、3時20分。壁にもたれかかる。大きな荷物を持った中国人観光客がひしめき合い、楽しそうに大声で話している。ぼうっと眺めていると観光客の中のひとりの女性がこちらにつかつかと近寄ってきた。

 たどたどしい英語で何か話しかけてくるが、残念ながら私は英語が不得手だ。あいどんとすぴーくいんぐりっしゅ、と日本語丸出しの発音で答えるが、女性は構うことなく話し続ける。女性が急に、にっこりと微笑む。にっこりというより、ニタア、と形容した方がいいような、そんな笑顔。目が大きい。黒目がち、というより、どこが瞳か分からない。ぐいぐいと距離を詰めてくる。口を大きく開けた。綺麗な白い歯の奥は暗い色をしている。


「おー、お、お、おー、お」


 英語ではない。それどころか。


「おーえんーーーおーえーーーんーおえん」


 女性を強く押しのけると、中国人観光客の集団が満面の笑みを浮かべ全員こちらを向いている。一斉に口を大きく開いて―――――


 おえんな



「大丈夫?」


 肩を叩かれて飛び上がると、美しい男性が心配そうにこちらを見ている。

 さっきまで私の目の前にいた女性はどこにもおらず、中国人観光客の集団はこちらの方など見もせず、相変わらず楽しそうに話していた。


「斎藤奈緒さんだよね、あ、ナンパとかじゃないよ」


「おおっ!こちらが奈緒殿でござるな!いつもお父上にはお世話になっているでござる!」


 美しい男性の横から小太りの、年齢も、男だか女だかも分からないような眼鏡をかけた人が顔を出した。


「斎藤ゼミ所属!佐々木るみと申す!以後お見知りおきを!」


 あまりにも大きい声で話すので、横を通り過ぎたカップルがこちらを見てクスクスと笑う。


「猿の手さん、あんまり大きな声出さないで、斎藤奈緒さんも引いちゃってるから」


 男性は色素の薄い髪をかきあげてこちらを見て微笑んだ。


「あ、ごめんね、俺はこちらの猿の手さん……佐々木さんの話に興味を持ってついてきた完全な素人です。猿の手っていうのは佐々木さんのハンドルネームね、サイトで使ってる。俺はそのサイトの常連で、東大って名乗ってます。でも大声で呼ばれるのちょっと恥ずかしいハンドルネームだから敏彦って呼んでくれたら嬉しい」


「敏彦、さん……」


 私は父の教え子である佐々木るみのあまりにもステレオタイプなオタク丸出しの言動や、さっきまでの恐怖さえ忘れて敏彦さんの顔をうっとりと眺めた。なんて綺麗なんだろう。とにかく目が印象的なまでに美しい。鼻は高いけれどあくまで上品で、決して大きくはない。少し冷たい感じのする口元もそれを引き立てている。

 幸太郎もイケメンだけど、敏彦さんはイケメンとかそういう言葉で表すことさえ失礼な気がする。年は私と同じくらいに見えるけど、同じ人類とは思えない。それに、敏彦さんが声をかけてくれなければ私はどうなっていたことか。


「あ、ありがとう……私は……」


「さてさて、場も温まったことですし?早速参りましょうぞ!」


 佐々木るみがまたとんでもない大声を出し、敏彦さんが注意した。




























「え?帰れってどういうことですか?」


 新宿にあるマンションの一室。その扉からシンプルな装いの若い女性が顔を出し、申し訳なさそうに項垂れた。


「それは、斎藤晴彦先生じゃなくて、俺らが来たからですか。それともアポイントを取っていない俺が勝手についてきたからですか。それなら帰りますけど」


「違うんです」


 女性は消え入りそうな声で答えた。


「笠嶋先生、斎藤先生からあなた方の話を聞いて、色々な準備をしてたんですけど……急に具合が悪くなってしまったんです」


 笠嶋先生、というのは元神職の男性で、父とは「百鬼夜行」の創刊15周年特別企画で対談をして以来酒を飲むような仲らしい。お祓いが専門というわけではないが、父曰くその力は本物で、さらに神職というだけあって今回私が困らされている「かがせおさま」についても詳しく、父は真っ先に彼に連絡を取ったらしい。余談だが、父は金町タキオのこともだと言っていた。死んだのは可哀想だけど、あのオバハン金にがめついんだよなぁ、という言葉を添えて。

 そういえばかがせおさまは、たけはつちのみこと?に懐柔されたとか言ってたな、と思い出す。恐らく父は考えたのだろう、日本書紀と同じように、別の偉大な神の力を借りてなんとかしてもらおうと。



 女性が私のことを指さす。


「斎藤先生のお嬢さんって貴女ですよね」


「はい、そうですけど……」


「やっぱり。無理です、本当に、私も見てるだけで具合が悪くなります、怖いです、ずっと見てるのよ、なんで気付かないのっ」


 背筋に悪寒が走った。ずっと見てる、そう言われるとそんな気がしてくる。なんだか肩が重い、足も痺れるように寒い。彼女の態度は演技には全く見えない。もしかして、本当に。

 話している途中で興奮したのか、ヒステリックな声はやがて悲鳴のように変わっていく。


「怖い!怖い!怖いから、怖いです!本当に帰ってください、帰ってよ!お願いします怖い、無理ですうちでは、笠嶋先生もそう仰ってますから!」


 女性が勢いよく扉を閉めようとする。敏彦さんがドアの間に靴を挟んでそれを阻止した。


「いや納得出来ないです。俺はなんにも感じませんし。佐々木さんもそうだよね?」

 

 彼はまったく顔色を変えることなく、冷え冷えとした美貌で女性を見下ろしている。


「ええ、ワシもなにひとつ感じませぬ。奈緒殿はどこにでもいるその辺の女の子でござる」


 佐々木るみも歌うように続けた。


「何言うてんねんな」


 扉の奥から男性の声が聞こえた。女性が先生、と短く叫ぶ。おそらく笠嶋であろう男性がよろよろと壁をつたって歩いてくる。聞いた話では父と同じくらいの年であるはずだが、父が若く見えることを差し引いても随分老けている。70代か、それ以上にさえ見えた。


「奈緒ちゃん、あんた悪い子ぉやな」


 笠嶋が土気色の顔に嘲ったような笑みを浮かべて言った。


「心当たりあるんちゃうか。そんなもんな、なんもせな来ぃひん。触っただけ?行っただけ?アホ言いな。そんなんならんわ、なんもせな」


「どういうことですか」


 声が震えた。何一つ心当たりなんてないのに、悪事を暴かれたかのように、内臓がキリキリと痛んだ。


「言わなわからんか?ホンマにわからんか?そのねーちゃんとにーちゃんの前で言うて欲しい?ほな言おか。二年前や、あんた二年前にな」


「もういいです!」


 心臓が口から出てきそうだった。全身から汗が吹き出す。私はなぜこんなに焦っているのだろう。やましい事なんて何もしていない。私はただあの家に行っただけだ。そして追いかけられる夢に悩まされているだけだ。あの家の、かがせおさまの呪いで人が二人も死んだ、幸太郎だって倒れた、私もいつそうなるかわからない。悲しいのは私だ。苦しいのも辛いのも私だ。私は被害者だ。私は何もしていない、それなのに。


 笠嶋は色の悪い唇を曲げてははは、と笑う。


「あぁ、やっぱりな。とにかく、私らではなんもできませんわ。はどうもならんから、大人しくしとき」


 笠嶋は枯れ枝のような腕でドアを引き、最後にまたあんた悪い子ぉやな、と言った。

 閉まった扉は二度と開かなかった。敏彦さんは私の顔を見て、諦めたように、


「今日は帰ろうか」


 と言った。







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