あの家は全焼した。焼け焦げた男性の遺体が発見されたらしい。恐らくあの老人で間違いがないだろう。病院側の被害としてはあの家に面した外壁が少し焦げたくらいで、建物内部には何もなかった。当然授業カリキュラムに変更はなく、当分の間休講になると踏んでいた学生たちはあからさまに落胆していた。


 追いかけられる夢はふとまどろんだときにも見るようになった。「夜寝なければいい」というとりあえずの対処法さえできなくなった。不気味な電話は必ずかかってくるので夜は固定電話の電話線を抜いてもらい、スマホは電源を切るようにした。朝起きるとスマホには不在着信が何件もあったが、なるべく見ないようにしている。だって他にどうすればいいんだろう。頼れる人は死んで、元凶の家も焼けてしまって、それでも私は生活していかなければならないのだ。

 ほとんど眠れず体調を崩した私は、実習でも失敗を繰り返していた。ドクターたちは怒るというよりも心配して、本調子に戻るまで休んではどうか、と提案した。しかし、5年生の学生生活のメインは実習なのだ。1週間でも休んでしまえば進級に響く可能性が高い。毎日母親から言われる言葉が脳に焼き付いている。

『うちには留年させるお金なんてないのよ』

 絶対に大学を休むことはできない。それに休んだらひとりで家にいなくてはいけない。








 器具の入った金属トレーを大きな音を立てて消毒槽に落としてしまう。手に全く力が入らない。すぐに性格のきつくて有名な衛生士の福田さんが飛んできて、あんたなにやってんの、とものすごい剣幕で怒鳴られてしまう。すいません、と気の入っていない返事をして、もっと怒られる。5分くらいして福田さんがどこかへ行ってしまうと、後ろから肩を叩かれた。

 若槻寛子。あだ名はヒロ。陰ではうそつきさんと呼ばれている。

 ヒロは背が高くて気の強そうな顔をした美人で、白金高輪に三代前から暮らしている、所謂お嬢様だ。でも事実なのはそれだけで、彼女の話すそれ以外のプロフィールはすべて嘘だ。ハーバード大学を首席で出た彼氏がいるとか、母親がフランス人とか、ショパンコンクールで一位を取ったとか、かわいい甥っ子がいる話とか、全部嘘だ。彼女が彼氏だって言って見せてきた画像はフリー素材のイケメン画像だし、母親は浮世絵から出てきたみたいな顔だったし、彼女はピアノが弾けないし、兄弟姉妹がいないのだ。こんなに美人でお金持ちなのになんで嘘をつくのか不思議だったけれど、恐らく虚言癖というやつなのだろう。治らない病気。とにかく自分を良く見せようとする嘘とか、どうでもいいものだけで、他人を貶める嘘をつくタイプではなかったので、陰で笑いものにされることはあっても、嫌われ者と言うわけではなかった。

「最近元気ないね、どうしたの」

 

ヒロがそう言った。彼女は嘘吐きだけれど、特に仲良くもない私の心配をしてくれるくらい優しい女の子でもあるのだ。


「全然眠れてないだけ、ありがと」


「それって不眠症ってやつかな?蒸気が出るアイマスクあげるよ」


 彼女は小さな手提げ袋の中からパックに入ったアイマスクを出して私に手渡す。


「私も不眠症気味なんだけどこれ使うと一発で寝れるから!あと……あのさ」


 ヒロは綺麗に整えられた眉毛を少しゆがめて、


「眠れない原因って、山岡君に関係あったりしない?」


 私は思わずヒロの顔を凝視する。


「あのさ、やっぱりあの家だよね。あそこ行っておかしくなったんだよね、山岡君。斎藤さんにも変なこと起こってるんじゃない?だからそんなに疲れてるのかな。そういうの詳しい人いるし、相談したいなら連絡取れるよ。だから」


「どうせ、それも嘘なんでしょ」


 思わず口から出てしまった言葉に、ヒロの顔が強張るのが見えた。


「アイマスクありがとう、じゃあね」


「……あのさ、本当に、これは本当だから。連絡待ってるから」


 私はヒロの声を無視して走った。

 ヒロが本心から私を心配しているのは分かる。しかし、ヒロに何ができると言うんだろう。あの子は嘘吐きだ。「そういうのに詳しい人連れてくる」なんて全然信用できない。万一連れてこられたとして、恐らく霊能者の類なのだろうが、霊能者なんてほとんどが隙あらば金を騙し取ろうとするインチキ野郎だ。それにもし本物だとして――元凶の家も、そこに住む老人だって燃えてしまったのに、果たしてどうにかできるものなのだろうか。下手に手を出したら、今度は私の家が燃えてしまうかもしれない。



 その日の夢はいつもと違っていた。いつも追いかけてくる黒いものはいない。私はでこぼこの道の上をひたすら前進している。歩き続けると扉があり、私の手は意思とは関係なくその扉を開ける。

 3年生の時に使っていた教室だった。

 私の頭の中にある記憶がよみがえる。

 私はツイッターでフォロワーの多いアカウントがつぶやいたあるツイートに怒っていた。

『偏差値50以下の歯科大を出た歯医者に診てもらいたくない』

 確かに私の大学も偏差値は55あるかないかってところで、決して高くはないんだけど、私立の歯学部は沢山留年するし、進級も卒業も簡単に出来るわけではない。それに、国家試験合格率だって60%ちょっとで、入学当初英語だの数学だのが出来なかっただけで、こんな努力をしてきている私たちが、適当にレポートとか書いて卒業した、今後の仕事で大学で学んだことを使うわけでもない一般の大学の人に適性なしなんて判断されたくなかった。

 本当に私たちは努力しているのだ。努力しすぎて、心を壊してしまうほどに。須田真理恵のように、死を選んでしまうほどに。


「真理恵」


 思わずそう声をかけた。

 他に誰もいない教室の一番教壇に近い席にまっすぐ前を向いて真理恵が腰かけていた。


「奈緒ちゃん久しぶり」


 真理恵は口の端っこを少しあげてぎこちなく微笑んでいる。駆け寄ろうとすると手で制される。


「私の顔全部見たら奈緒ちゃんもこっちに来ちゃうよ」


 私が固まっていると真理恵はくすりと笑って続けた。


「奈緒ちゃんが困ってることは分かるんだけど、私にはこうやって夢に無理矢理割り込むくらいしかできることはないんだ。こんなのなんの解決にもならないよね」


「やっぱり……あの家が原因なの、私たちが、こう、なったこと」


「そうだね、奈緒ちゃんたちは呪われてる」


 。覚悟していたことだが、こうして同じ超常的な存在である真理恵に言われると、心に突き刺さる。呪われてる。私たちは得体の知れないものに呪われている。


「どんどん近付いてきてるよ。奈緒ちゃんのとこに、もうすぐ来る。夢と違って逃げられないから」


「じゃあどうしろって言うの」


 私は真理恵が軽い口調でペラペラと話すのに苛立ち始めていた。


「あんた私を脅したいだけなの」


 真理恵が目をつぶったように見えた。


「奈緒ちゃん、変わらないね」


 突然後ろにものすごい勢いで引っ張られる。

 大きな音を立てて扉が閉まり、這いつくばったまま教室から引きずり出される。扉が閉まる寸前、耳元で真理恵の声が聞こえた。


『ヒロを頼って』

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