検査では何も異常が出なかった。幸太郎の吐瀉物からは、特に有害な細菌やウイルスは検出されなかったのだ。本当にただの吐瀉物だったという。

 しかしただ胃の中のものを吐き出しただけだというのに、次の日も、その次の日も幸太郎は青い顔をして眠ったままだった。

 私は空き時間があれば幸太郎を見に行った。元々細身だった幸太郎は、点滴で栄養を採っているとはいえ見るたびに痩せていきこのままだと萎れてミイラになってしまうような気がした。

 倒れてから一週間したくらいに、幸太郎の母親、早苗さんと鉢合わせした。早苗さんは幸太郎と同じように細身で綺麗な顔をしていて、おばさんと呼ぶのが憚られるくらい美しい人だ。

「奈緒ちゃん毎日来てくれてるんだってね、ありがとう」

 早苗さんは抑揚なく言った。普段は薄化粧な人だが、今日は随分濃いな、と思ってから気付いた。ファンデーションを塗りこまないと――いや、塗り込んでも隠せないくらいに濃い隈が彼女の切れ長の目の下にへばりついている。

「なんでこんなことになっちゃったのかな、奈緒ちゃんは知ってる?一緒にいたんだよね。同じ班だもんね。おばさんに、教えてくれないかな」


 早苗さんは光のない目をこちらに向けた。言わなくてはいけない、そういう気持ちにさせられた。私はあの家の話をできるだけ簡潔に伝えた。

 もちろん早苗さんの気持ちに寄り添おうと思った、しかし本当のことを言えば私は少しでも恐怖を共有してラクになりたかった。そしてあわよくば、おとなの人に言って何とかしてもらえないかなと思っていた。普通のおとなにこんな話をしても馬鹿にされるかひょっとすると私も入院させられるかもしれない。でも、早苗さんは当事者の母親だ。自分の息子のことだったら真剣に策を講じてくれるかもしれない。

 それが間違いだった。


 私が話し終わると、早苗さんはうつむいて唇を震わせ、顔を覆った。泣いてしまうのかな、そう思った瞬間、ビンタが飛んできた。

「ふざけないで」

 恐ろしいほど冷たく、怒りのこもった声だった。背筋が凍るように冷たいのに、頬は熱を持っている。

「こんなときに、何言ってるの、そんなふざけた嘘ついて……ふざけないでッ」

 早苗さんは美しい顔を歪めて何度も何度も私を叩いた。騒ぎに気付いた看護師が駆け込んでくる。

「山岡さん!落ち着いてください!」

 看護師が早くどこかに行け、というように目配せをする。病室を出てからも、廊下には早苗さんの怒鳴り声が響いていた。


 どうしたらいいんだろう。

 早苗さんの顔を思い出す。隈を隠すために真っ白く塗りたくられた顔に怒りが張り付いていた。人間がこんなに恐ろしい顔ができるなんて思わなかった。

 それでも私は、そんなものより夜が一番怖い。怖くて怖くて、眠れないのだ。あれから毎晩、おかしなことが起こる。

 眠れば、夢で黒くて形のハッキリしないものに追われる。そいつは幸太郎の発した、女のような声で繰り返すのだ。おえんなぁ、おえんなぁ、と。私は長い長い、先も見えない道をひたすら逃げ続けて、自分の絶叫する声で飛び起きる。

 夢は脳が昼間起こったことの情報整理をして記憶させるために見るものだと言う。だからこれは、私の脳があの家で起こった出来事をめちゃくちゃに解釈しているだけなのかもしれない。それでも毎日毎日、同じ夢を見る。私は逃げ場のない夢の中を走っている。

 それだけなら私のストレスから来る悪夢だと思い込むこともできる。それに、

 昼間、休憩室で寝ればそんな夢は見なかった。夜は栄養ドリンクとかカフェイン剤でどうにか眠気を殺して、睡眠は実習の合間にとる。あまり疲れが取れた気はしなかったが、とにかくなんとかやり過ごせた。

 強制的昼夜逆転生活を始めて三日目のことだった。


「電話。幸太郎って子から」


 午後9時くらいに、家に帰ってきたばかりの母が疲れた声で言った。

 ソファーに寝そべってぼんやりとテレビを観ていた私は飛び起きる。幸太郎、電話ができるくらい回復したんだ。良かった、そう思って母から電話を受けとる。私は笑顔でもしもし、と応えた。


『さいとうなおですか』


 無機質な女の声だった。幸太郎ではない。早苗さんのものでもない。幸太郎は確か一人っ子のはずだ。であれば、この声は誰のものなのか。


『さいとうなおですかさいとうなおですかさいとうなおですか』


 夢で聞くのと全く同じ女の声で、電話の向こうの何かが話している。指が石のように固まって、受話器を下ろすことが出来なかった。


『おーえーんー』


 電話の声はどんどん機械的に、早く、近く、テープを巻き戻したようなノイズ混じりになっていく。


『おーえーんーなーおえんーーなーーおえんなーおえーんなおえんなーおえんおえんおえんっおえんっおえんっ』


 受話器を持つ手の指先から全身に寒気が走り、凍り付いたように身動き一つできなかった。自分の呼吸音がやけにうるさい。こんなにうるさくしたら向こうにバレてしまうのに。私が斎藤奈緒だってバレてしまったら、そしたら、だから早く死のう。死ななきゃいけない。死のう。だから私は机に置いてあるサルの形の置物を持って、


 突然肩に衝撃を受けて受話器を取り落とす。飼い猫のもちまるが飛びかかってきたのだ。もちまるは受話器に向かって低く唸っている。

 恐る恐る受話器を拾い上げると、もう電話は切れていた。


「いまの彼氏?」


 母の声を聞いた瞬間安堵してこめかみがどくどくと脈打った。

 もうちょっと気を付けなさいよね、うちには電話買い換えるお金ないのよ、という小言混じりに受話器を拾い上げ、母は私の方を向いて尋ねた。


「なんか変な子だね、女みたいな声で」


 もはや疑いようがなかった。私は財布と定期をひっつかんで母の制止も聞かず走って外に出る。幸太郎はなってしまった。恐らく私もなった。なった。あの老人の言葉が響く。「なった」というのが「何になったか」は分からないけど、これはきっと「なった」という状態なのだと確信した。とにかく老人に会いに行かなければいけない。本当になってしまった、と助けを求めなければいけない。なんで、どうして、私はあの玉を触っていないのに。ただ家に入っただけなのに。

 電車を乗り継いで40分、東都大学前駅に着いた。もう10時を過ぎているのに改札には人だかりができていた。


「すみません、通してください」


「お姉さん、そっち行くのやめた方がいいよ」


 柔和な顔をした中年の男性に声をかけられる。


「燃えてるんだって、大学の裏」

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