おえん
①
鼻血が出る、ということは特段異常なことではない。キーゼルバッハ部位という鼻の小さな血管が集まっているところの粘膜が、なんらかの刺激によって弱くなって破れ、起きるだけだ。勿論オスラー病などの血液疾患が原因ということもあるけれど、そういう場合は別の兆候があるものだし、とにかくほとんどの場合圧迫すればすぐに止まる、その程度のことだ。
幸太郎が鼻血を出したのもその程度の、取るに足らないできごとのはずだった。細身で塩顔の今どきのかっこいい男の子の鼻からつつーと血が流れている様子はなんだか面白くさえあって、やっぱり私だけでなく他のみんなも、あはは、なーに、やだ大丈夫ー?みたいな半笑いの対応だった。
その半笑いは、すぐに凍り付くことになった。
―――おえんなあ
か細い、女のような声で幸太郎が呟いた。
聞き返す間もなく幸太郎の口から白いものがあふれ出す。
――吐いてる!!
誰かが大声で叫んだ。私は身じろぎもせず目の前の光景を見ていた。幸太郎の口から白い何かが大量にあふれ出す。
その白いものは徐々に汚い茶褐色に変わり、それでも勢いを変えずに机に、床に、私の膝にはねた。幸太郎はそれでも何か話そうとしていた。私に向かって、何かを話そうとしていた。その度に彼の喉からごぼごぼと不快な音が漏れて、その端正な高い鼻からも茶褐色のものが漏れだした。
彼の細い体のどこにこれだけの量の、ヘドロみたいな何かが詰まっていたんだろう。小さな沼ができるくらい吐き出して、ついに幸太郎は床に倒れ込んだ。それとほぼ同時に、担架を持ったドクターたちがかけこんでくる。
どきなさい、と言われているのは分かるのだが、体がまるで動かない。岩みたいな体格の女性看護師に突き飛ばされて、私はヘドロの沼に放り出された。幸太郎は運ばれていった。多分、医学部棟に。
私は鼻が曲がりそうな悪臭を放つソレにまみれながら、突き飛ばされた姿勢のまま幸太郎が運び出されていった扉から目が離せないでいた。部屋中が静まり返っていた。空気を読まず下らない冗談ばかり言う堀江も、この時ばかりは押し黙っていた。男子生徒が急に吐いて倒れただけ。それだけのことなのに、異様なものを誰もが感じ取っていた。恐らくドクターたちを呼んだのは、幸太郎が白いものを吐き出してすぐ扉から駆け出して行ったいつも冷静な松田さんだろう。松田さんはそのまま幸太郎について行ったのだろうか。
学年主任の澤田先生が入ってきた。一時間くらい経ったと思ったのに、実際には15分しか経っていなかった。すべてが非現実的で、それなのに頭の一部は冷静で、とんでもないことになったという実感だけはきちんとある。
今日は全員帰りなさい。斎藤はシャワーを浴びてから検査を受けなさい。そう言われた。
斎藤奈緒、と大声で呼ばれてやっとのろのろと立ち上がる。それでもすべて他人事みたいだ。
澤田先生に連れられて医学部棟へ行き、研修医の人がよくタイルがぬめぬめしてて汚いと言っていたシャワーを浴びた。
「なんで」
口から声が漏れた。
私はその声さえも、自分が発したものか分からなかった。茶褐色のヘドロが水と混じって足元を流れていく。
なんでじゃないよ、と私は自分の声に返答した。なんでじゃない。
私は幸太郎がああなった原因が分かっている。結び付けてしまっている。原因と結果を。そしてもし、それが正しいなら、正しく導き出された結果なら、私もああなるのだ。
私が通う東都大学は医学部、歯学部、看護学部、保健学部とそれに類する専門学校を併設する私立大学である。
全ての学部が同じキャンパス内にあり大学病院も併設されているため、敷地はかなり広い。ちなみに大学病院は医学部棟と歯学部棟に分かれ、渡り廊下で繋がっている。最寄り駅である東都大学前からかなり広範囲が東都大学の所有地になっていた。
私の、私たちの後悔は、その大学病院の裏にある、ほんの小さな家から始まる。
恐らくあまり知られていないことだが、私立の歯学部というのは留年せず卒業を迎えることができる人間は入学した生徒の30%程度である。同じ人が留年を繰り返している、というのもまた真なのでそれはひとまず置いておいて、ひと学年100人のうち、毎年30人前後が留年する。
毎回ギリギリの成績でなんとか留年を免れ、私はついに5年生になっていた。5年生になると学生生活のメインが登院臨床実習、所謂ポリクリになる。そこでドクターの手技や、治療手順を学ぶというわけである。
歯学部棟の二階には研修医と学生が昼食を取ったりなどする部屋があって、見学が終わると教室に戻って自習する者もいたが、私は専らそこで友人たちととりとめのない話をして過ごしていた。
その土地に最初に気付いたのは幸太郎だった。休憩室は窓が大きく、病院の外が良く見えた。
「あの家すごいボロい」
幸太郎が窓に額をぴったりとつけて言った。幸太郎の目線を追うと、確かに東都大学周辺の都会的な雰囲気にそぐわない、古くみすぼらしい家が病院の裏にぽつりと建っていた。
「ああいう家茨城にはよくあるから」
と同じ班の智慧が言った。彼女は茨城県にある自分の地元がド田舎であることを自虐気味に語った。
幸太郎はそれを笑いながら聞き流して、
「でもあの家変だよ」
と続けた。
「ここら一帯はウチの大学の敷地なわけだろ?なんでこの家だけ違うんかなあ。おかしいよなあ。ホラ、あの家があるから妙に抉れてるじゃん、この建物」
言われてみれば、歯学部棟はその家を取り囲むようにして建っている。
「あの家だけ買収失敗したらしいよ」
松田さんが雑誌をめくりながら言った。
「変な占い師?霊能者?そんな感じのおじいさんが住んでて、この土地は売らない、金額の問題じゃないって言ったらしいよ。で、どう頑張っても立ち退いてくれなかったから、あのまま。まだそのひと住んでるよ」
「めっちゃ詳しいじゃん、なんで?」
「だってそのひとこの病院の患者さんだし。こないだ辻成先生の患者さんで来てたから見たし話した、すっごい変な名前なの。読めないよ絶対」
話すと意外とフツーの人なんだけどね、お守りくれたし、と松田さんは続ける。
ここで話をやめておけばよかったと、本当にそう思う。好奇心は猫をも殺す、という言葉がある。その言葉通りになってしまったのだから。
「帰りに行ってみようぜあの家」
彼は思い付きで危ないことをする。そういうのが好きなのだ。肝試しで夜のトンネルに行ったり、ゲテモノ料理店で虫を食べたり、首まで和彫りがガッツリ入った女性をナンパしたり、東南アジアで歯の抜けた男について行って怪しい香りのハーブを吸引したりしていた。彼はイキっているとかそういう感じではなくて、東銀座にある美容歯科の息子だけあって育ちの良さを感じるし、顔もタレントのように整っているんだけど、本当に何も考えていない。危ないことをしたら危険に晒されるとかは当然考えていないし、それを他人がどんなに説明しても真っ白な歯を見せてダイジョブだよー、と答えるだけだ。とにかく面白そうだなと思ったらなんでもやってしまう。
割といい奴で顔も良く人気者になってもおかしくない幸太郎があまり好かれていないのはこういう性格ゆえだと思う。何を考えているか分からなくて恐ろしいのだ。
彼は他人の話なんか聞かない。だから私も同じ班の人たちも彼を止めたりしなかった。
私は私で、昔からオカルト系の話題が身近にあって、ポップカルチャーと言われるようなホラー映画や小説から、民俗学的な伝承や宇宙人話などにも興味がある方だった。こういう変な話は大好物で、すぐ飛びついてしまう。
そういうわけで幸太郎と一緒にその日のうちにその家に行った。
例の家は、休憩室の窓から眺めると小さく見えたが、実際行ってみるとかなり広い土地だった。それだけに、汚らしさや不気味さが強調される。
青いビニールシートに包まれたなにか、マットレスらしきもの、上からも見えた錆び付いた自転車。そういうものが玄関から塀から沢山転がされていた。ゴミ屋敷、というのはもう少し生活感があるだろうから、廃墟、とか空き家、という表現がふさわしいように思えた。
まだ日も落ちていないのにこの建物だけ闇に溶け込んだように陰っている。言いようのない嫌悪感が背中を這った。
「ただの汚い家って感じじゃん、もう帰ろうか」
ここはやめておこう、そういった言外の意をふくませながら声をかけると、幸太郎は首を振った。
「いやいや何言ってんの奈緒ちゃん、これからっしょ、だって変な宗教?とか?そういうのなんでしょここ、めっちゃ見たいじゃん」
幸太郎は無造作に積み上げられたマットレスを押しのけて、奥へ進んでいく。その度に埃が舞い、彼の白いコートを汚していく。私は諦めて、恨みがましく咳き込みながら彼に付いていく。やがて彼は明るい声で、
「ほら、あった!」
きらきらした笑顔で指さすその先には、小さな祠のようなものが祀られていた。中央に、ご神体だろうか、鈍色の球体が置いてある。注連縄についている札には星のようなマークとともに何か書いてあるが、達筆すぎて読めなかった。
今思えば、既におかしかったのだ。幸太郎は何故、高く積まれたゴミの奥にそれがあると分かったのか。
「淫祠、ね」
と私は呟く。こういう、いかがわしい、誰も知らないような神様を祀った祠のことをそう呼ぶのだ。廃墟のような場所にあって妙に手入れの行き届いた祠だった。おかしい。何もかもが。ここに足を踏み入れた時から感じていた違和感がじわじわと首を締め付けるように這い上がってきて呼吸が苦しくなる。
なんでもいいから理由を付けて帰ろう。そう決意した時だった。突然、幸太郎が鈍色の球を手に取って指でこする。
「きれいやなあ。きれいや、お星さんみたいや」
「やめなよ!元の所に戻しな!」
幸太郎は私の声など聞く素振りもみせず、一心不乱に球を撫でまわす。異様な光景だった。顔が紅潮し目が潤んでいる。まるで大事な宝物か、我が子を可愛がる母親のように――
「そこで何してる」
しわがれた声に体がはねた。手に錫杖のようなものを持ち山伏のような恰好をした老人が、こちらを鋭く睨みつけていた。
「かがせおさまに触れるな」
注意などという生易しいものではなく、あからさまな敵意のこもった声だった。
「すみません、本当にすみません」
私は幸太郎の手から無理矢理球体を奪い取り、元の所に戻した。何度も謝りながらなるべく老人の方を見ないようにしながら幸太郎の手を引いて汚いマットレスの間に作った道に戻ろうとする。
「待ちなさい」
老人にがっしと肩を掴まれる。
「その子はもうなってしまったかもしれない。なってしまったら私にできることはないかもしれないが……連れてきなさい、今ここで残ってもいい」
私はハナからその老人を馬鹿にしていたし、その気持ちはこの言葉を聞いて余計に強くなった。松田さんが言っていた例の自称霊能者の家主ーーこういった自称霊能者は曖昧で意味ありげなことを言って他人を脅すことだけは得意なのだ。金でも巻き上げられたらたまったものではない。
「いえ、大丈夫です。勝手に入ってしまってすみませんでした」
内心老人を見下しながら、精一杯すまなそうな顔を作って、未だに恍惚とした表情で祠の方を見ている幸太郎の手を引きその場から立ち去った。
敷地から出て、東都大学前駅に着いたころには粘りつくような不快感も綺麗に消え、幸太郎ももとの表情に戻り「また明日な」と短く言った。
そして翌日、言葉通り幸太郎は何事もなかったように登院し、智慧に昨日家どうだった、と聞かれても何もないよ、単に汚い家だったよ、と答えていた。
私もそうだった、と同意した。自分のおかしな行動を智慧に知られたくないんだろうなと思ったのだ。そしてその日の午後に彼はこうなった。
彼が倒れるまでは私は思っていた。
やはり霊だの呪いだのは単なるエンターテインメントであって、現実におこることなんてないと。私はそれを消費しているだけだと。すべてまやかしだと。
そう思っていた。
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