第2話 そいつ


 二月の、今年は異常気象だとかで、異様に暖かい昼下がりのことでした。


 庭仕事を一休みして、ウッドデッキで一杯の紅茶をいただいていました。

 青い空、白い雲、ぽかぽかと暖かい陽射しがデッキにこぼれ落ちてきます。


 すると、一台のパトカーが我が宅の前にある駐車場に入ってきました。

 体格のいい年配の警察官が敬礼をして、私に近づいてきます。


 「二月とは思えない天気ですね」

 そう言いながら、紅茶のカップを口に運ぶ私に、笑顔で近づいてきます。

 「ところで、昨晩、そこで大騒ぎがあったって通報があったのですが、お気付きでしたか」

 あごで、ウッドデッキの反対側のアパートを指して、そんなことを言うのです。


 私は結構早くに寝てしまうので、一旦寝てしまえば、よほどのことでなくては目が覚めませんから、はて、さようなこと気がつきませんでしたと丁寧に申したのです。


 「そうですか。今、あのアパートにはどのくらいの人がお住まいですかねぇ」

 管理人でもない私に、警察官、そんなことを言うのです。


 そのアパートは、十部屋ありますが、現在は四名の男性が暮らしていますと私知っている限りのことを話したのです。

 「そうですよねぇ、あの一件以来、増えることはありませんね」


 あの件ってなんですかと、私、その警察官に問いました。

 「あぁ 、ご存じなかったんですか。自殺ですよ」


 私、びっくりしてしまいました。

 そのようなこと初耳でしたから。

 そして、いつ頃、どんな理由で、誰がと不躾にも、その体格のいい、年配の警察官に問うたのです。


 「三年ほど前です。それ以上のことは、本官としては申し上げられませんが……」


 「三年ほど前……。

 私、その言葉を聞いて、思い出すことがあったのです。

 

 私の神経が高ぶって、しかし、私の肉体は、学校での仕事の疲れでぐっすりと眠っています。

 ですから、金縛りのような現象が続いて、ほどほど嫌になっていた時期であったのです。


 決まって、夜の十二時、日付が変わる頃合いのことです。

 そいつは、私の寝ている部屋にやってくるのです。


 私の目の前に顔を近づけて、私にこれでもかって寄ってくるのです。


 だから、私、思い切り足で蹴ろうとするのですが、何せ体は休んでいます。ですから、動かないのです。

 でも、私の高ぶった精神は、その動かない肉体を奮い立たせようと、気張るのです。

 

 そして、精神が、そいつを払いのけていくのです。

 払いのけられたそいつはその夜はもう出てきませんでした。


 しかし、翌日の夜、また、出てきたのです。

 私の顔の前に、そいつの顔が近づいてきます。私は、精神を発揮して、そいつを撃退するのです。


 そんなことが、三日ほど続いたのです。

 ですから、私、三日目にも、己の精神を強くして、そいつと闘うと言う気持ちで、寝床に入っていたのです。


 四日目、私の精神が勝利したのか、あるいは、そいつが私の精神にはついていけないと諦めたのか、はたまた、私が怖がる風も見せないのが嫌になったのか。


 そいつは、出てこなくなりました。

  

 三年ほど前に、私はそのような体験をしていたのです。

 初めての奇妙奇天烈な体験であったので、よく覚えていたのです。


 ですから、警察官が言ったそのことが、私の体験と同調したのでした。


 だとすると、そいつは自らの命を絶って、行き場所もわからず、近くにある我が寝所に迷い込んできたのかしらって、そして、私に何か言いたかったのかしらって思ったのです。


 そうだとするなら、私の精神が、そいつをはねつけ、遠のけてしまった、申し訳ないことをしてしまったと思ったのです。


 「で、その騒ぎというのはどのような騒ぎだったのですか、いや、今後、そのようなことがあれば、私も注意をしたいと思いまして」

 って、私、警察官に言いました。


 「どんちゃん騒ぎとか、ケンカ腰の騒ぎとかではないと思うのですが、話し声や笑い声がうるさいという程度のことだとは思うのです」

 体格のいい年配の警察官、そんなことにも出動しなくてはならないのだと言いたげに、私にそう言うのです。


 実は、私には心当たりがありました。


 四人の住人の一人、私と最も話をする男です。

 夜勤もあるらしく、早朝、私が仕事を始める頃に、戻ってきたり、夕方、出かけたり、そして、週末には、我が宅の裏にある空き地に、数台の車がやってきて、楽しげに話をしたりしているのです。

 きっと、その青年の話声、笑い声が気になって、誰かが警察に一報を入れたのだと思ったのです。


 警察官、私に敬礼をして、パトカーに乗り込み、帰って行きました。


 私、仏壇から、線香を数本持ってきて、西の庭の向こう、そのアパートが見えるところに線香を焚いて、手をあわせました。

 我の甚だ強靭な精神が、迷える魂を足蹴にしてしまったことを詫びるためです。


 線香の煙を浴びて、しばらく、手をあわせていた時でした。


 ちょっと待てよ。

 そいつは、確か髪の毛の長い、白い顔した女であったぞって。


 私、仏壇から、もう数本の線香を持ってきて、今度はそいつのために線香を焚いたのでした。


 我が強靭な神経もいささか衰えが出てきましたので、どうか、今宵、私の目の前に出てきませんようにって。

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