第30話 松屋ではない松屋

 私は、厚い雲に覆われた空の下、家を飛び出した…


 手には、330円が握られていた。

 そして、家を出た私は、南に向かって歩き始めた。もう4月も終わろうとしているのに、まだ結構寒かった。


 歩き始めて約10分で右手に「松屋」が見えて来た。ここは、生ビールを飲みに時々入る店である。別に飲み屋ではない。全国チェーンの牛めし屋である。

 だが、生ビールが安いのである。生ビール1杯180円税込みなのだ。ジョッキは、少し小さめではあるが、それでも180円は充分魅力的な値段であった。おつまみも安い。でも、今朝はこの店には寄らない…


 そこから、少し南に行った左手にその店はあった。

 その店の看板には、「松屋」と書いてあった。先程の店も「松屋」であるが、その「松屋」とは、関係ない。この店もチェーン店ではあるが…


 こちらの「松屋」は、牛めし屋ではなく、うどん屋である。

 店内は、カウンター席のみの14席という狭い店である。この店は、駅前にあるのだが、以前駅を含めた駅前再開発があった。その為、駅も駅前もかなり綺麗になった。以前の駅は、かなりボロボロで寂しい駅であった。現在とは、比べ物にならない。この「松屋」は、そのボロボロの駅の時代からあった。私がこの店に一人で来るようになったのは、たぶん中学生の頃である。だから、もう40年以上この店に通っている。


 私が店に入ると、厨房のおばちゃん店員が「いらっしゃい!」と作業しながら言った。私は、奥から4番目の席に座った。すかさず、おばちゃん店員が私の前に水の入ったコップを置いた。

 私は、おばちゃん店員に注文した。「スタミナうどん」


 私がこの店で注文するメニューは、ほとんどこの「スタミナうどん」である。

「スタミナうどん」というのは、天ぷら月見うどんの事である。具は、シンプルで卵と天ぷら以外には、ネギだけである。値段も330円税込みでかなり安い。


 私が注文して、数十秒で私の前に「スタミナうどん」が置かれた。

 私は、家から握りしめて来た330円を支払うと、カウンターに置かれてある割りばしを一膳取り割ってから、うどんのどんぶりを持ち上げ出汁を啜った。「旨い!」私は、心で呟いた。


 私が、この店に通う一番の理由は、この出汁なのだ。この昔から変わらないこの出汁が好きなのである。麺も天ぷらも安っぽいが、この出汁だけは本当に旨いと思う。


 私は、卵を最初は潰さないで、麺と出汁だけを食べ進める。充分出汁を味わった後、卵を潰し麺に絡めながら食べる。

「旨い!」

 そして、出汁を吸い込みフニャフニャになりかけの天ぷらを食べる。

「旨い!」

 それから、天ぷらと卵が混ざり別の味わいになった出汁を楽しむ。

「旨い!」


 出汁を最後の一滴まで飲み干した私は、ゆっくりと水を飲んでから、おもむろに立ち上がり、

「ごちそうさん!」

 とおばちゃん店員に声をかけ、出口に向かう。


 おばちゃん店員は、私の背中に向かって元気な声で言った。

「おおきに!」


 外に出て私は、空を見上げた。

 空は相変わらず厚い雲で覆われていた…

 だが、私の胃袋はポカポカしていた。

 そして、心も晴れやかであった…

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