第4話 異空間への侵入 後編
「こ…、ここが女子更衣室……」
中は教室の半分ほどの広さで、化学室にあるような大きめのテーブルがいくつもあり、その上に女子達が脱ぎ捨てていった制服が無数に置かれていた。
室内の香りは女子フェロモンで満ち満ちている。レイホが対処したことのない大軍勢だ。その解析困難な複雑に絡み合った香りでレイホの全身が震え始める。
「ど、どうすればいい……、俺は、まず、どうすればいい?」
生唾を何度も飲みつつ、考えを巡らすが自我を保つだけで精いっぱいだ。頭の中が真っ白になり、自分が何者かすらわからなる。
過呼吸状態になったレイホの足はガクガクと震え、レイホはその膝を鷲掴みにして抑え込もうとするが、いうことを聞かない。何十人もの女子達の香りに覆い被され、身動きが取れなくなったレイホの膝はガクンを折れ、遂にはその場にひれ伏すように崩れ落ちてしまう。
「も、もはや…、これまでか……」
数多の香りがレイホの鼻腔へと迫り、床に額を擦り付けたレイホの鼻からは血が滴り落ちる。
「生きる場所が違えば、死ぬ場所も違う、か……」
僅かばかりに開いた瞳で赤く染まっていく床を見つめながら、か細い声で呟く。
「短い人生だったな……。俺は女子更衣室で死んだ初めての男子高校生として死後も揶揄されるのか……」
広がった血が額にも迫る頃、レイホの瞳から一粒の涙が零れ落ちた。その涙はこれまでの自分の行いを悔やむ涙なのか、それとも鼻腔が血で溢れて嗅覚を失っていることへの悲しみなのか知る由もない。
神楽レイホ享年十五歳――――。
他の誰もが踏み入れたことのない地を開拓したインディペンデントとして讃えられる日は永遠に訪れることはなかった。その人生は満ちより枯渇多き人生であり、不本意なまま今、終息を迎えようとしている。
「ど、どうもおかしいな……、こ、これだけ血が流れ落ちていたら体は軽くなるはずなのに……、どんどん重くなっていく……。ごめん、イキル……、ごめん、久保……、ごめん、依流香……」
「イキル……?」
その言葉でレイホは心配してくれているイキルの顔をふと思い出すと、電気ショックを受けたかのように、レイホの上半身がピクリと大きく揺らいだ。
「……っ! まだだ……、まだ、俺は死ぬわけにはいかない!」
レイホは震えて血の気のない片腕を何とかポケットに差し入れてハンカチを取り出した。そのハンカチで床に広がった血を拭いながら、己が何のために敵陣深く入り込んだのかと問いかける。
「そ、そうだ! ボッ、ボール……、ボールだ」
レイホはテーブルの下に視線を動かし、ボールを探し始める。すると、テーブルの下に転がっているボールをすぐに発見した。レイホは産まれたての子羊のように震えた足取りで、何とか歩み寄りボールをその手中に収める。
「よし……、これがないと俺はただの……」
戦争には大義名分が必要不可欠なように、今のレイホにも女子更衣室に侵入する大義名分が欠かせなかった。レイホは手中に収めたボールを強く握り締め過ぎていることに気付くと、その震えた拳を見つめ大きく深呼吸した。
「千載一遇のチャンスなんだ、しっかりしろよ! こんな機会、今後二度と来ないのかもしれないんだぞ!」
何度も、何度も呼吸を繰り返して成すべきことを整理していく。
「嗅ぎ放題……、それは間違いない。間違いないが……」
レイホを躊躇わせている最大の要因は、誰が誰の制服だかわからないことだ。
手当たり次第嗅ぎまくるという選択肢もあったが、これまでのレイホは常に各個撃破しかしてきていない。乱戦は得意ではないし、一つの目標をじっくりと堪能して征服感に浸るに勝るものはない。
「思い出せ…、思い出すんだ! 八組女子の特徴を……」
そこでレイホはある一人の女子の特徴を思い起こすことに成功する。
会話こそないが、レイホと目が合ったこと数回、レイホの脳内で『俺に気がある女子ランキング』上位の桜咲ちひろだ。ちなみに、『俺に気がある女子ランキング』には既に五人もの女子がレイホの一方的な独断と偏見でノミネートされている。
「あの子はたしか、そう…、チュヌーピーの小さいぬいぐるみをいくつも身に付けていたはずだ」
現在のレイホが位置しているのは、ほぼ敵陣中央。四方にテーブルがあり、無数の制服に囲まれている。
「どれだ! どこにある!」
いつトドメを刺されてもおかしくない状況で、その一人の敵を見つけるべく、首をぐるぐると振り回す。
三十秒ほど経過したところで、レイホは白っぽいぬいぐるみをその視界に捉えた。
「あれだ!」
よろめきながらも何とか敵中をかき分けて、桜咲ちひろの制服まで到達する。
「じょ、女子に向かえば……、まさに……嗅ぐべし、人生幾何ぞ」
血も止まり、レイホの嗅覚は回復していたが、一度倒れたせいもありレイホはいつもの慎重さを欠いていた。血生臭い唾液をゴクリと飲み込むと、すぐに迎撃態勢に移った。レイホの顔が桜咲の制服に吸い寄せられていく。
「ちひろ……、俺と目が合ったのは二回だったか。一回目は自己紹介を終えた俺が席に戻る途中だったな。恥ずかしそうにして、すぐ目を逸らされたが、そんな恥ずかしがることはないんだぞ? そりゃタイプの男に見られたら恥ずかしいのはわかる。わかってるから、だから、俺が全部受け止めてあげるから安心して良いんだぞ。二回目はちひろがプリントを後ろに回すときに正面向いている俺と目が合ったな。ちひろは一体どれだけ俺のことを意識しているんだ? 朝から晩まで俺のことで頭がいっぱいといった感じか。仕方のない奴だな、今日はもう俺に全てを委ねて良い。片思いの恋もこれでお終いだ。一つになろう――――」
「早く戻りなさい!」
女性教師の甲高い声が女子更衣室に響き渡った。
この声の意味することは単なる停戦命令などではない。これはレイホの侵入が公になったという証。
「終わった――――」
入口に目を向けたレイホはぼそりと呟いた。とはいえ、一度は死にかけた身。覚悟はできていた。新天地でも俺は変わることができなかったな、と呆れたような微笑みを浮かべる。
入口で女性教師が仁王立ちしている。その背後には大勢の男子達が群がっていた。
行きたくない――――。あそこは中学時代の場所そのものじゃないか。
レイホは眉間に手を添えて目を閉じた。すると、右手に握られたものを思い出す。
そうだ、俺には大義名分がある――――。無だ。無に徹しろ。雑念を抱き、挙動不審になれば疚しいことしていたと見抜かれてしまう。
そう――――俺は何もしていない。
レイホは右手のボールがよく見えるよう進行方向に掲げながら女性教師へと近づいていく。その姿は敵の大将首を掲げた戦国武将のように誇らしく勇壮なものだった。
「あなた! ボール一つ取るのに何でそんなに時間がかかるわけ!」
レイホは声を荒げる女性教師の目前にボールを示しながら、「やっと見つかりました」と告げた。
「いいから早く出て!」
女性教師はガシリとレイホの右手を掴んで引き込むと、背後の男子達の中へと放り込んだ。
「貴方達も早く戻りなさい!」
集るハエを振り払うかのように女性教師の右腕が大きく動いた。矛先がこちらに来たと驚いた男子達はじりじりと後退を始めるが、どうしても行く末が気になるようで何度もレイホと女性教師のほうへと目をやった。
野次馬がある程度引いたところで、女性教師が侵入者に冷たく鋭い眼光を向け、
「今回の事は大ごとにしないであげるけど、次はないと思いなさい」と、そう言い残して立ち去って行った。
こうして何とか難を切り抜けたレイホだったが、その心中は複雑だった。まず、教師に異端者として完全にマークされてしまったこと。そして、何よりも二クラス分の男子に見られてしまったということだ。レイホは体育館廊下の天井を見上げて目を閉じた。
「また逆戻り、か……」
初の異空間への侵入は女子にバレることは回避できたものの、拭い去りようのない幾つかの副産物が生成された。
女子更衣室に侵入した男がいるという噂は瞬く間に広がる。入学したてで新しい刺激を求める男子達にとっては、期待できる神輿が現れたことを意味する。
そう――、女子から最高に嫌われる、最高に笑える神輿。
絶対に避けたかった行為も抑えることができず、レイホはこの新天地でも繰り返してしまった。人間の性というものは自身の力や意志では変えられないものなのか。些細な契機で揺らいでしまう意志の弱さ。レイホが抱える過去のトラウマを消し去らないと変わることができないのだろうか。本当は変われるのに、自分は変われないんだ、という固定観念が邪魔しているのだろうか。表面上はポジティブでも、レイホの深層意識では、俺はこういう人間なんだと、繰り返し言い聞かしているのではないか。自分自身を悪い方向に何度も何度も洗脳するように、そこから抜け出せなくなるように言い聞かせているのではないか。
ここで止まれば、まだ戻れる。希望は絶たれてはいない。本宿高校の女子はこのことを知らないのだから。
「俺には彼女ができる。俺は普通の高校生。俺には彼女ができる。俺は普通の高校生。俺には彼女ができる」
レイホは何かが憑依したかのように一点を見つめながら、そんなことを念仏のように口ずさんだ。
女性教師が現場から離れると同時に、先ほどの野次馬たちが満面の笑みで押し寄せてはレイホに握手やらハイタッチを要求してきた。レイホはこれを無視するわけにもいかず、口角を僅かに釣り上げながらこれに応えていった。
「レイホ…、この感じだとまた…」
有名人気取りでまんざらでもないご様子のレイホに、イキルが後方から耳打ちするように言った。レイホは振り返り、うつろな視線をイキルに向けた。
「イキル……、なんで言ってくれなかった」
「呼んだんだよ? 何度も」
「俺が聞き取れなかっただけか……」
あの状況を振り返ればイキルに非がないことは明らかだ。レイホは下唇を噛み締めながら、「ごめん疑って」と申し訳なさそうに目を逸らした。
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