第3話 異空間への侵入 前編

 それは四月も下旬近くなり、外は大雨が降っていた日のことだった。

 その日の四時限目は体育授業。廊下にあるロッカーから各自体操着を取り出して体育館へと向かう。

 体育館入り口すぐ右手にある男子更衣室に着いたレイホは、二クラスの男子がひしめく中でイキルと一緒に着替えるが、その時なぜか勢い余ってパンツまで脱ぎ捨ててしまった。イキルが赤面して笑っているが、そのあまりにも無防備な姿を七組の見知らぬ男子達にも見られてしまう。

「レイホ、大丈夫? なんか気持ちが高ぶってない?」

 これまで地味に過ごしてきたレイホを気遣うように、イキルの見せる微笑みの奥には憂いを感じさせた。

 出すもの出してご機嫌なレイホは、そんなイキルの心配も届いていないのか、浮ついた口調でにやけながら答える。

「ん? ああ、大丈夫だ?」


 体育館は広く、横幅十メートルほどある廊下が縦にずっと伸びていて、右側手前が男子更衣室、左側はバレーボールやバスケットができるほどの別スペースがあり、他にも剣道場などがあった。

 体育教師は数名いるが、本日は女性教師が指揮するようだ。その女性教師は年齢も若く、それほど大柄というわけでもない。色白でポニーテールの外見からは他の女子と混同するほどだ。ただ、それは黙ってじっとしていた場合の話。

 実際は、黒いジャージのズボンと耳を塞ぐほどの大声で、あれが女性教師だとすぐにわかった。加えて、首に下げた笛をピーピーと吹くものだから、男子達はまるで羊飼いに誘導される子羊のように次々と整列していった。

「今日はグラウンドでソフトボールの予定でしたが、あいにくの雨なので卓球をします。向こうのコート脇にある倉庫から二人で一つの卓球台をここに運んで並べなさい」

 女性教師はそう伝えると、左手にある大扉を開けて体育倉庫を指し示した。

「女子達の邪魔にならないように隅を歩くこと!」

 そこには足を踏み入れたことのない大きなコートが広がり、女子達がバレーボールをしている光景が見て取れた。男子達は言われるがまま、体育倉庫へと足を進めた。

 廊下が卓球台で埋め尽くされたことを女性教師が確認すると、ラケットとボールを配りながら、「受け取ったペアからどんどん始めなさい」と伝えていった。

 ちょうど廊下の中央付近でイキルと組んでいたレイホは、早速卓球を始めようとするが、後方を軽く確認した時に違和感を覚える。

 いざサーブからと、ラケットとボールを構えるが、卓球に集中できる状況ではなかった。

「いやいやいや、……え?」

 一旦、卓球台にラケットとボールを置いたレイホは、再度振り返り、その違和感の正体を探りにかかった。

「じょ…、女子更衣室……?」

 人が二人ほど通れるかという狭めの入り口の上に、たしかにそう書かれた札がある。

 さらに、レイホを困惑させたのは、そのドアが完全に開いたまま解き放たれていたからに他ならない。中学時代には更衣室など存在しなかった。プールの時はプール脇にあったが、鉄扉で鍵付きの完全閉鎖空間だったのだ。

 苦笑いするイキルの顔色を窺いながらも、レイホは強張った顔でその異空間を何度も振り返っては凝視する。それを見かねたイキルが声を上げる。

「レイホ、ほんとやめといたほうがいいって!」

 大きく息を吸い込んで冷静になろうとするが、イキルには引きつった不気味な笑みしか返すことができない。

「よ、よし! 卓球しようか」

 そう言って、ようやくレイホがサーブを打とうとするが、ラケットが空を切る。次はしっかりと当てはしたものの、ミットに引っ掛けてしまう。

「落ち着け……! 落ち着くんだ! この新天地で二心など絶対に抱いてはいけないんだ! そ、そうだ、あの白鳥とも約束したばかりじゃないか。過去のことは全て洗い流して、今は普通の男子高校生として普通に……、絶対にダメだ! 仮に向こうから手招きしていても絶対に!」  

 奥歯をギシギシと噛み締め、苦渋の顔で再びラケットを強く握りしめた。素振りしながらイキルが、「余計なこと考えずに卓球に集中しようぜ!」と声を掛けてくれたお陰で、レイホは僅かではあるが正気を取り戻す。

「それ打ち返しちゃう?」などと楽しげなイキルを見ていると、先程までの誘惑も消えかけていった。

 そう、イキルが放ったサーブが女子更衣室に吸い込まれるまでは――――。


 その瞬間、二人は凍り付いたかのように動けなかった。

 女子更衣室内を見つめるレイホがチラリとイキルに視線を傾けると、首を振りながら立ち尽くすイキルの姿が見て取れた。レイホはそんなイキルの元にゆっくりと歩み寄ると、神妙な面持ちで静かに口を開いた。

「イキル、これは偶発的な事故だ。イキルは悪くないし、俺も悪くない。あそこにボールが行ったのは故意じゃないのだから、俺達に過失はないんだよ」

 それを聞いたイキルは一応の納得を示すが、思い出したかのように「そうだ、先生呼んで取ってもらおう」と言った。

 イキルは女性教師がいるところへ向かおうとするが、その行く手を阻むようにしてレイホが立ち塞がる。

「待て」

「え? レ、レイホ?」

 この時のレイホは既に意を決していて、先ほど口にした俺達に非はないという内容が、その決意をさらに後押ししていた。

 イキルの判断は間違っていなかったが、レイホの心の中までは見通せず眉をひそめる。そんなイキルの猜疑心を意にも介さず、レイホは落ち着いた口調で続けた。

「俺が取ってくる。誰も呼ばなくていい。イキルはそこで見張っていてくれ」

「で、でも……」

「あくまでボールを取りに行くだけだ。その場所がたまたまアレなだけで、俺には何一つ疾しいことはない」

「そ、そうだよな……」

 イキルはレイホがこれから取る行動の危険さをよくわかっている。周囲の人間に気付かれていまいかと視線を左右に動かした。そして、レイホもまた周囲の索敵を行った。

 レイホは周囲の目がこちらに向いていない時を見計らって、少しずつ異空間に体を寄せていく。あとはもう踏み込むだけというところまで来ると、振り返りイキルと目を合わせた。レイホは自らの命を省みず、火事場に取り残された人を救いに行くような寂寥感に満ちた表情を浮かべながら、首を大きく縦に振った。

 レイホがまた異空間に目を向けた瞬間、その体は吸い込まれるようにしてイキルの視界から消え去った。

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