第72話 貴女の為の子守唄を

 暗闇の中、私は一人で階段を登っている。

 信じられない事が起きた。

 心がざわいついている。

 感情は炎の様に燃えながら、それでいて氷水を被った後の様に冷静だ。

 酷く、混乱しているのかもしれない。

 いや、混乱しているのだろう。

 こみ上げてくる吐き気を抑えながら、まるで今にも倒れんばかりに壁にへばり付きながら、私はこの螺旋階段を登っていた。

 もう、涙は出てこない。

 枯れ果ててしまったのか、それともそんなものは最初からなかったのか。今になっては分からない。

 ただ今、涙の代わりに私から飛び出すものは吐瀉物か嘆きの言葉ばかり。

 ああ、ああ、私の王子様。

 私だけのティール王子。

 あの方は、狂ってしまわれた。

 この国を治めるはずの彼は、悪魔に囁かれ道を踏み誤ってしまった。

 何度でも脳内に再生される先程の忌まわしい魔女の惨劇。

 あの平民の小娘の肩を愛おしく抱きしめながら、まるで私を汚物を見る目で見下げる惨劇。

 その小娘が、貴方に、いや。この国に! この国にどんな不幸を齎らすと言うのか。彼は何もわかっていない。

 私は、この国の女王になる筈だった。

 その為だけに生きてきた。

 生を全て捧げてきた。

 寝ても覚めても、女王となるべく育て上げられ、全てを捨てて、与えられた物しか受け取れない。

 人の生と言うには余りにも機械仕掛けの様に、物の生と言うには余りにも手もかけて貰えず、自分を作り替えて行ったのに。

 貴方が王になるべく、生を賭けた様に。

 私も同じだけ貴方とこの国に、私の全てを賭けたと言うのに。

 でも、そんな運命に私は何一つ嘆く事なんてしなかった。

 それは、私がこの国を愛し、貴方を信じていたからなのに。

 なのに、なのに、なのにっ!

 あの方はっ!

 あの小娘の肩を抱きながら、平然と、まるで当然だと言う様に私を捨てたのだ!

 信じられない程呆気なく、簡単に、私を捨てたのだ!

 ゴミ屑みたいに、捨てたのだ。

 お前が呪いの様に育て上げた次期女王を。

 お前が呪いの様に作り上げた私を。

 あの何も出来ない小娘に、捧げて。

 ああ、今も尚信じられない。

 女神様の前で、あんなにも高らかに宣言するなんて。

 ああ、今尚耳にこびりつく、王子の呪いの言葉。

 耳を塞いでも、耳鳴りの様に何度も何度も聞こえてくる。


『今日をもって、僕の婚約者は、アリス・ロベルトとする。ローラ、お前との婚約は終わりだ』


 ああ、悪魔の言葉だ。

 恐れていた事が、現実になるだなんて。

 信じられない。いや、信じたく無い。

 なんて愚かで、馬鹿げて、滑稽な呪いの言葉だ。

 あってはならない事なのに。

 そんな事、あってはならない事なのに。

 あの平民の小娘が、このローラ・マルティスの座を、次期女王の座を奪うだなんてっ!

 この国は、一体何処に向かうと言うのか。

 平民の小娘が政治に精通しているわけもなく。平民の小娘が国の主賓としての品格を育て上げられいるわけもなく。平民の小娘が女王の仕事を勤められるわけもなく。

 待っているのは、争いだけだ。

 この国に他国に付け入る隙を自分から見せている様なものではないか。

 争になれば、この国の兵力が如何程のものか王子は知っているのか。隣国の兵力がどれ程のものになっているのか存じ上げているのか。

 ここ百年余り、大きな戦もない平穏なこの国で戦が起きれば、古びた戦力しかないこの国は間違いなく他国の食い物になる。

 その時、一番苦しめられるのは国民ではないか。

 王族は、戦の負けを死によって清算される。

 しかし、国民は生きていくしかない。清算など用意されず、奴隷としての地獄の様な明日が永遠に続く。

 そんな事、許されるものか。

 そんな事、誰が許すと言うのか。

 よろめく足で登り切った螺旋階段の先にある扉を開けると、一人の剣士が立っていた。

 あの方に、教えられた様に。


『ローラ・マルティスだな?』


 甲冑に隠れた顔から若い男の声がする。

 私が頷けば、男は甲冑を鳴らしながら私に手を差し出した。


『話は聞いている。覚悟を見せてくれ』


 私は男に持っていた麻袋を差し出した。


『お聞きした様に、金貨二百枚を持って参りました』

『確認させてもらう。お前の依頼は王子とあの小娘の暗殺で良いのか?』


 私は男の問いに顔を顰め、首を振るう。


『キルト騎士、私の依頼はアリス・ロベルトとローラ・マルティスの暗殺でございます』


 この国は狂っている。

 私のティール王子が道を踏み外したからだ。

 でも、王子の罪は妻である私の罪。


『私が望むのは、この国を狂わせた原因の、排除でございます』


 王子には、王になって貰わねばならない。

 彼は恋には愚かだが、政への関心は王に相応しい。

 それは一番近くで見ていた私がよく知っている。

 でも、私は彼を助けられなかった。妻として、彼を狂わせる事を許したのは、私の罪だ。

 だからこそ、彼を狂わせたアリス・ロベルトと彼を狂わせる事を許したローラ・マルティスの死が必要なのだ。

 この二人を排除すれば、きっと王子は何にも惑わされる事もなく、正常な判断が出来る彼に相応しい婚約者を探せられる。

 婚約破棄を宣言された私にこの国のために出来る事なんて、これぐらいだ。

 それでもいい。

 自分の命と引き換えにこの国の明日を救えるのならば、それでいい。

 アリス・ロベルト。恨むならば私を恨め。

 いくら王子を誑かした魔女と言えど、この国の民であるお前の命を奪うのだ。地獄ぐらい一緒に落ちてやる。


『確かに、金貨二百枚。確と受け取った。その依頼、受けよう。ただし、王子が邪魔をした場合は王子も殺す』

『何故!? ティール王子は、依頼に含まれていないわっ!』

『これはお前からの依頼じゃない。あの人からの依頼だ。精々、お前が死ぬ迄の間王子が俺の邪魔をしない様に注意するんだな』

『あの人……? それは、まさか……っ』

『ああ、末恐ろしいな。あの方はこの国のあり方を変えようとしている』

『キルト様、お待ちになってっ! この依頼を私は破棄……』

『破棄は受け付けない。前金を貰ったんだ。ちゃんも仕事はするさ。それに、全て知って仕組まれたんだよ。お前もあのろ……』


 ろ?

 誰だ?

 それは、誰なんだ? うまく聞こえない。

 ローラ・マルティスがキルトに手を伸ばすが、届く事なく彼は彼女に背を向けた。

 あれ?

 ローラ・マルティスは私なのに。なのに、ここにもローラ・マルティスがいるのは何で?

 私は、一体どうなったんだ?

 そうだ。ギヌスに腕を切られ、矢を射られ、私は……、死んだのか?

 死んで、ゲームの世界にいるのだろうか。

 だって、そうだろ?

 キルトが生きていて、ローラがキルトにアリス様の暗殺を依頼するだなんて、ゲームのシナリオ通りだもの。

 今度は転生でもなんでもなく、傍観者として。

 私はこの世界にやってきたのだろうか。

 キルトが去った後、ローラは顔を上げた。

 誰もいない筈なのに。

 誰もいない筈なのに、見えない筈なのに、まるで私に縋るように。

 声を上げた。


『王子を、助けてっ!』


 ローラ?

 お前……。

 私が彼女に手を伸ばしかけた時、ぐらりと視点が反転する。

 ローラっ!

 私、貴女に聞きたい事があるのにっ!

 何で、こんな時にっ!




「ローラ……っ! キルトの言ったあの人って誰なんだっ!」


 がばっと起き上がれば、そこは知らない部屋であった。

 あれ。

 ここは、何処だ?

 首をゆっくり動かすと、ずきりと左肩が痛む。

 痛む場所に右手を伸ばせば、私は簡単に体勢を崩してパタンとベッドから転げ落ちた。

 どうやら、私はベッドに寝かされていたようだ。

 そして……。


「そっか。無いんだったな……」


 ギヌスによって切り落とされた左腕がもう無い事を思い出す。

 間抜けな話だな。いや、薄情かな。

 十何年も一緒にいた左腕が無くなってる事に触るまで忘れているなんて。

 でも。

 それでも。

 私は。


「生きているんだ……」


 本当に、生きている。幽霊なんかじゃない。

 この世界にまだ、私はローラとしていられている。

 不意に笑いがこみ上げてきた。

 楽しいのか悲しいのか、わからない。

 泣きながら、笑った。

 私が生きているのは、アスランが手を伸ばしてくれたから。

 あの焼却炉で焼かれるしかない私を、諦めた私を、生きていると、言ってくれたから。

 私の生の道は、彼が作ってくれた。

 誇り高い彼が。

 彼は今……。


「ローラ、様?」


 ふと、声がする。片手で何とか起き上がれば、フィンがいた。


「フィンっ」


 私が彼女の名を呼べば、彼女は持っていた冷水の入った桶をその場で投げ捨てると、私目掛けて飛び付いた。

 私達はそのまま床に倒れ込む。


「フィン、痛いよ」

「ローラ様、ローラ様っ!!」

「うん。私、生きてた」

「ローラ様っ! 私、私っ!」

「有難う、フィン。貴女が来てくれたお陰だよ」

「でも、間に合わなかった! 貴女の腕が、間に合わなかったっ!」

「そんな事ない。私は、生きているでしょ? 十分、間に合ったよ」

「ローラ様っ! ごめんなさいっ! 私、ごめんなさいっ!」

「謝らないで。涙を拭いて」


 涙でぐしゃぐしゃになったフィンの顔を優しく撫ぜると、彼女は私の胸に顔を落とす。


「聞こえる? ちゃんと、生きてるでしょ?」


 私が笑えば、彼女は私の上で頷いた。

 鼓動が聞こえるでしょ?

 フィン、貴女が守ってくれた鼓動が。

 間に合ってるじゃないか。

 私の騎士は、いつだって優秀なんだ。

 

「ローラ様」

「なあに?」

「謝っては駄目なのですか?」

「ええ。駄目よ。だって、貴女は謝る事を何もしてないんだもの。そんな意味のない謝罪をフィンの口から聞きたくないわ」

「なら……。謝らない代わりに私を貴女の左腕にしてください」


 フィンは私の胸から顔を上げる。


「貴女の左腕として、お側に置いてください。如何なる時も、貴女のそばにいる事を、お許し下さい」


 その顔は、真剣そのもので、そして酷く悲しそうで。まるで、迷子の子犬のように。

 この子を迷子にしてしまったのは、私だ。

 愛する男と剣を構えさせ、彼女の運命をズタボロに変えてしまったのは私だ。

 だから、ね。


「……ええ」


 私はフィンの手に唯一の手を重ねる。


「この手を離す時は、私と貴女が死ぬ時だわ」


 私の人生をかけて、フィンに寄り添うのは当たり前の事だろう。

 フィンが私を剣で守る様に。

 私もフィンを守りたい。

 ああ。先程見た夢の中にいたローラはこんな気持ちだったかもしれないな。

 自分を捨てて迄、守らなければならないものの前に全力を掛ける。その気持ちは実に女王と言うには相応しい品格をあの彼女は持っていのだ。


「はい。ローラ様」


 ぎゅっと、フィンが力強く私の手を握った。


「私は、生きる。貴女が、アスランが、私の生を繋いでくれた。私には、まだやるべき事がある。私は進むわ。フィン、付いてきてくれるかしら?」

「何を仰いますか。左手と身体が離れる事は、ありませんよ。貴女の進方向が、私の向く方向です」

「有難う、フィン。……アスランにもお礼が言いたいわ」

「アスラン、ですか?」

「ええ、彼は……?」


 あれだけの傷だ。私を庇って倒れた彼は、ギヌスの攻撃だけではなく、矢の雨も受けていた。

 最悪を、どうしても想像してしまう。

 でも、それでも。

 私は、アスランに会わなければならない。

 会って、お礼を言わねばならない。

 どんな姿になったって。

 彼は、私の命を救った恩人なのだ。


「アスランは……」


 フィンは少しだけ、呼吸を共えると私を抱きしめる。


「フィン?」

「ローラ様」


 少しだけ、鼻声になりながらフィンが私を呼ぶ。

 矢張り……。

 最悪の想像が、現実になっているのか。

 震えそうな程の絶望が押し寄せてくる。

 しかし、それはどうやら些か早かった様だ。


「褒めてあげて下さいね」


 そう言って、顔を上げたフィンは泣きながら笑っていた。


「え?」

「彼は弱くなかった。心強き、我が一族誇りの戦士です」


 そう言ってフィンは立ち上がり、隣のベッドのカーテンを開ける。

 そこには……。


「アス、ランっ!」


 ベッドに横たわったままのアスランが、眠っていたのだ。

 胸が小さく上下している。

 すぅすぅと、微かな呼吸音が聞こえてくる。

 ああ、ああ。神様。


「生きてる……」


 彼は、生きている。

 あれだけの傷を負いながら、あれだけの血を流しながら。

 それでも、まだ、生きている。


「アスランっ!」


 まだ目を覚さない彼の頬に、私は手を伸ばした。


「頑張ったね……」


 生きようと、頑張ったんだね。

 アスランは、頑張ったんだね。


「凄いね、アスラン」


 涙を流しながら、私は彼の頬を何度も撫でる。

 まるで、母親が子供にする様に。

 大切に、愛おしく、それでいて、誇り高く。


「願い事を、叶える程頑張ったんだね」


 生きたいと言った君が、生きる為に頑張ったんだ。

 生きてる。

 力強く、そう言ったアスランが笑った時を思い出す。

 そうだ。生きてる。私達は生きてる。


「ギヌスに、勝ったんだよ。アスラン。お前は、誰よりも強いよっ!」


 私達は生き残った。

 それは、アスランの強さの賜物だ。アスランが、やり遂げてくれた結果だ。

 もう、誰も彼を弱い人間なんて言わせない。

 生きたいと願って、生に必死にしがみついて、戦った、勇敢な人間じゃないか。


「アスラン、有難う」


 私を守ってくれて。

 私に勇気をくれて。

 もう、私は諦めない。


「これからは、私が貴方を守るから……」


 だから、今だけはゆっくりとお休み。アスラン。





_______


次回は10月15日(火)23時頃に更新予定となっております。お楽しみに!

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