第46話 貴女の為に模擬結婚を

『身嗜みに気を遣いなさい。美しさは、内面から溢れ出すのです。良いですか、美しさには美しい心が宿るのです。美しさが無ければ、醜い悪気心が宿ってしまいますよ。ほら、キチンと服整えなさい。キチンと行儀よく』


 母上は、僕の誇りだ。

 優しく、美しく、強い人だ。

 弱き者を守り、強き者を挫く。正義の名を被る女神の様に。


『貴方は、この国を背負い、皆の上に立つ子です。心の乱れは、衣服の乱れ。子供だからといって、王子だからだと言って、甘くするつもりはありません。この母の様に日々、美しくあるのですよ』


 幼い頃、その母は僕に美しいさとは何だと説いた。

 内面の美しさは、外面の美しさに通じる。

 衣服の乱れは、心の乱れ。

 幼い頃の僕は、天真爛漫で、やや活発で、無頓着で。いつも母上に汚れた顔を拭いてもらっていた。


『貴方は、この国を表す王子なのだから。いつでも、清く正しく美しくおらねばなりませんよ』


 王子なのだから。その言葉は好きじゃない。

 好きで王子になったわけじゃない。

 僕だって、場内で遊ぶ子供や、弟みたいに自由に遊びたい。コソコソと大人の目を盗んで遊ぶなんて事なんかしたくない。

 だけど、母上と父上の子で、ランティスの兄で、次の国王で、王子なんだ。

 どれだけ自分が我儘を言って、泣いて、駄々を捏ねて、暴れた所でその事実は変わらない。

 

『王子とは、国民の見本ですよ。いつ、何時、誰が貴方を見ようと、素晴らしいと思わなければならないのです』


 美しい母の心は、美しかった。

 母の言葉は全てが正しい。

 本当は、嫌だけど。

 母が言うならば、僕はどんないい子にだって、ならなければならない。でなければ、僕はたちまち醜くなって、しまうんだ。

 醜くなったら、悪い奴になるんだ。

 王様にもなれないし、みんなからだって、嫌われるんだ。

 ずっと、そう思っていた。

 だから、彼女が僕の目の前に現れた時、僕は恐ろしさに打ち震えた。

 悪い奴が来たのだと。


『お初にお目にかかります。ローラ・マルティスで御座います』


 雀斑が散った顔。

 大きくない目と口。低い鼻。

 醜い顔は、心の醜い証拠なのだ。

 顔の醜さが、心の醜さならば、彼女の心はどれ程醜いのだろうか。どれ程、彼女は悪い奴なんだろうか。

 僕はその日恐怖に打ち震えた。

 きっと、彼女は僕がこれまでしてきた我慢を一欠片もしていないんだ。お菓子を食べてはいけない。遊んではいけない。母上の言う事をきなねばいけない。それを全部破ったから、こんなにも醜い顔をしているのだ。

 そんな奴が、僕の婚約者なんて!

 あり得ない! どんな悪夢だ!




 ふと、僕が目を覚ませば、見知らぬ暗い天井が広がっていた。

 何だか頭が重い。

 頭どころか、体もだ。

 薬の臭いが微かに漂うこの部屋は、一体何処だろうか。

 カーテンの隙間から、大きな月が見える。

 成る程、夜だから暗いのか。

 ぼんやりとした頭で、僕はまた上を向く。

 夢に、母上が出てきた。

 母上は、美しく強い人だ。弱き者を守り、強き悪い者を挫く、僕の誇りだ。彼女の様になりたくて、僕は……。

 ずきりと頭の中が軋む様な痛みを感じる。

 僕は、一体どうしたのだろうか。

 先程迄、何をしていたんだっけ。

 そう言えば、夢に彼女も……。


「ローラ……」


 そうだ。僕は、学園長室で彼女と話していて……っ!

 痛む頭を抑えながら周りを見渡せば、彼女の姿はない。

 代わりに、同じく学園長室にいた叔父が、ベッドに横たわっていた。

 何か、あったのだろうか。

 確か、あの時は急に目眩がして、それで……。いや、その前にローラが狙われていると叔父が言っていた。

 ならば、彼女は無事なのだろうか?

 もし、彼女の身に何かあったら……。

 あったら?

 あったら、どうするのだ?

 ふと、彼女の顔が思い浮かぶ。無表情で人形みたいで、正気もなにもない彼女の顔が。

 ずっと、彼女は僕の後ろで同じ顔をして立っていた。

 幼い頃から、彼女は僕が言っても自分は何も言わずに、表情も変えずに、ただ、床を見ていた。

 その彼女が表情を変えた。

 僕が思わず責めてしまった一人の少女の為に。

 僕が自分から、彼女の所に行けば彼女は苦虫を噛み潰したような顰めっ面を見せた。

 僕が彼女と話をしたいと言えば、うんざりした様な顔で、話すことは何も無いと言った。

 倒れる前に微かに覚えている彼女は、必死に僕の名を呼び、慌てた表情を見せた。


 ずっと、僕はローラ・マルティスと言う少女が人間だとは思えなかったのに。


 ずっと、ずっと、人形の様に生きている、絵本の魔女の様な人間だと思っていたのに。

 彼女は、生きていた。人として。

 本当に、彼女は僕に付き纏っていたのだろうか?

 会うのは、社交場だけ。

 一度も自分から、僕の元に来る事なんて無かった。

 社交場で会っても、彼女は自分から他の令嬢達と違って、ダンスがしたいなどとワガママを言う事がなかった。

 ただ、僕を睨みつけていただけだ。

 でも、彼女の目は確かに何を見ても同じ目だ。叔父と話している時も、睨みつける様に見ていた。けど、言葉には礼儀を重んじていたし、無礼な態度は何処にもなかった。

 ローラは、一体、何をしたんだろう。

 本当に彼女は、自由奔放に生きていたんだろうか。僕が思う程の、悪い事をしていたのだろうか。

 でも、そうなると、何故彼女の顔は醜いのだ?

 美しさは内面から溢れ出る。

 母上が言っていたじゃないか。その母上が、嘘を付くだなんて……。


「お、王子様っ!」


 ぼんやりと考えていると、女の悲鳴が聞こえた。

 声の方を向けば、扉の近くでメイドが僕を見ている。


「……ここは、一体?」


 何処なんだと問う前にメイドは大声を上げて廊下に戻る。


「だ、誰かっ! 王子が、目を覚まされましたっ!」


 何をそんなに慌てているのだ。

 ああ、此処が何処だか聞く前に、ローラの事を聞けば良かった。彼女は、今、無事なのかと。

 彼女は、本当に無事なのだろうか。

 彼女が無事だったら、どうするんだ。

 今度は、はっとせずに僕はまた身体をベッドに預けて上を向いた。

 彼女が無事だったら、話をしたい。

 彼女の変わる表情が、もっと見てみたい。

 人間の彼女が。

 ローラが。


「兄貴っ!」

「ランティスか……」


 どうやって、彼女と話そうかと考えていると、先程出て行ったメイドが弟のランティスと一緒に再びこの部屋に入ってきた。


「起きたのかっ! 身体は!?」

「ランティス、落ち着け。王子も先程、起きたばかりだろうに」

「タクト……」

「久しぶりだな」

「何を言っているんだ。今朝会ったばかりだろ?」


 僕が首を傾ければ、タクトとランティスは重い溜息を吐く。


「ゆっくり寝てたみたいで、安心したよ」

「僕は一体、いつの間に?」

「そこら辺の説明は、ランティス。貴様がしてやれ」

「はいはい」

「そろそろ、学園長も起きるな」


 タクトが叔父の手首を持ちながら、目を開かせる。


「叔父上も? 一体、何があったんだ?」

「兄貴、それは後で話すよ。今はまだ、少し安静にしててくれ。すまないが、兄貴に水の用意を」

「学園長にもだ」


 後ろに控えていたメイドにランティスが声を掛ければ、タクトもそれに続き声を出す。


「……ここは?」


 微かだが、叔父の声が聞こえた。


「学園長、お身体は大丈夫ですか?」

「あ、ああ。一体、どうしたんだ? 私は、寝ていたのか?」

「ええ。今はまだ、身体を動かさずゆっくりと安静に」

「……私は、一体どれぐらい眠っていたんだい?」

「三日です」


 タクトの言葉に、僕も叔父も息を飲む。

 三日だって?


「ローラ、ローラ・マルティス令嬢は?」

「叔父貴、ローラなら、無事だよ。大丈夫だから、身体を起こすなって」

「ああ、ああ……。そうか。彼女は無事なのか」


 ローラは無事だと聞かされて、僕はほっと肩を撫で下ろした。

 そうだ。一番最初に彼女の事を聞こうと思っていたのに。


「しかし、色々とご報告があります」

「何かこの学園であったのかね?」

「ええ。色々と」


 随分と、タクトらしからぬ含みのある言い方に、僕は眉を顰めた。

 それを見ていた弟は、メイドから水を受け取ると僕に飲ませて口を開く。


「兄貴は大丈夫そうだな」

「ああ。頭痛がするが、三日寝ていたなんて嘘みたいだよ」

「そうか。じゃあ、部屋に戻るか? タクト、兄貴を部屋に戻していいか?」

「貴様が一晩付いてるなら許可しよう」

「勿論。タクトは叔父貴を頼む。兄貴、立てるか?」

「あ、ああ。大丈夫だ」


 最初はランティスに支えられていたが、数歩歩くうちに自分の足でしっかりと床を蹴れる様になっていた。

 叔父が、若いとは良い事だと言ったが、先程起きたばかりの叔父の体調は良くはなさそうだ。

 僕とランティスは寮の自室に戻ると、ランティスが気を利かせて湯浴みをさせてくれる。


「悪いが、手伝いは俺で我慢してくれよ。兄貴」

「王子に湯浴みを手伝ってもらえるだなんて、光栄だよ」

「へへ、弟王子だけどな」

「すまないな。誰か呼んでも良いのだぞ?」

「いいよ。夜も遅いのに、兄貴も気を使うだろ?」


 ランティスは、我が弟ながら実に心優しき男だ。

 少し乱暴な所もあるが、誰にも分け隔てなく気が利いた接し方をしてくれる。


「ありがとう。自慢の弟を持ったものだ」

「何言ってんだよ。俺の自慢だって、兄貴の弟でいる事なんだ。兄貴が無事で、良かったよ。本当に」

「何か、僕が寝ている間に大変な事が起きていたんだな」


 そんな弟が、わざわざあの部屋から席を外す様に言うなど、余程僕には聞かせたくない何かがあったのだろう。

 それか、タクトの報告を指している事ぐらいすぐにわかる。


「そう、だな。何から話していいかわかんねぇけど。悲しい事も沢山起こったよ」

「話を、聞かせてくれるか?」

「ああ。勿論だ」


 ランティスは、ゆっくりと、僕が寝ている間に起きた事を教えてくれた。

 僕が殺されそうになった事。それを、アリスとシャーナが守ってくれた事。

 その犯人がこの学園のメイドで、今朝亡くなった事。

 そのメイドの想い。


「そんな事が……」

「もう、終わっちまったんだ。兄貴が気に病むなよ。って、俺も言いたいけど、俺も王族の端くれ。思う所はあるよな」

「ああ」


 ランティスはいつでも正直で真っ直ぐな弟だ。

 そんな彼の言葉が、今だけは嘘であってくれと願いたくもなる。


「僕と叔父上に睡眠剤を入れたのも……」

「そのメイドだよ。学園長室の茶葉に、睡眠剤を紛れ込ませたらしい。叔父貴が茶葉の量を調整してなけりゃ、今頃兄貴も叔父貴も睡眠剤が致死量になってて死んでた事だろうよ」

「恐ろしいな。ローラはお茶を飲んで居なかったのか?」

「ローラ? ああ、ローラか。あいつは、どうやら無事だったみたいだよ。けど、何でローラの事を気にするんだ? 兄貴は、あいつが嫌いだったろ?」

「ああ……。そうだったみたいだな。なあ、ランティス。お前から見て、ローラ・マルティスはどう思う?」

「どうって? ……兄貴と同じだと思うけど?」

「すまない。話が飛び過ぎたな。ローラ・マルティスと言う少女をお前はどう思う? 悪人だと、思うか?」

「悪人、なんだろ? 兄貴もそう言ってたじゃねぇか」

「そう、だな。でも、それが間違いだとしたら?」

「兄貴?」

「ランティス、落ち着いて聞いて欲しい事がある。どうか、驚かずに聞いてくれ」

「何だよ、突然改まってさ」


 そうだ。

 ランティスだって、彼女をよく知らない。

 僕と同じ様に。

 やはり、僕は彼女を知るべきなのだ。

 ローラ・マルティスを。


「僕は明日からローラ・マルティスと模擬結婚をする。ここは僕達夫婦の部屋になるから、お前は余りここには寄り付いちゃ行けないよ」


 僕がそう言うと、ランティスは桶のお湯を零しながら、立ち上がった。


「はぁ!? ローラとぉ!?」


 やれやれ。驚くなと、言ったのに。

 困った弟だ。




_______


次回は7月22日(月)23時頃に更新予定となっております。お楽しみに!

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