箱庭

遠野

第1話

 窓を開けて数ヶ月ぶりに見た空は、どこまでも澄んでいて美しかった。


 俺は神を信じていない。いや、幽霊、怪奇現象、そういったものを含めた目に見えぬ現象全てを信じていない。俺は目に映るものしか信じない。自分の目で見たもの、とりわけ科学で実証されたデータほど信用出来るものはない。

 しかし目の前の光景は何だろうか? 俺は思わず二度、瞬きをした。自分の目で見るものが、信じられなかった。足下に、黒髪の青年が横たわっている。Tシャツとジーンズを着て、膝を抱えて蹲っている。しかしここは高層マンションの二十七階のベランダである。どこから、という疑問を解決するのは難しく、さらに青年の背には、赤い血で汚れた白い翼が生えていた。まさか空を飛んでいた時に落ちたとでも言うのだろうか。そんなことを信じられる筈がない。

「おい」

 俺は青年の肩を揺らして言った。声を出したのは随分久し振りだった。自分でも情けなくなるほど震えている。

「……ん?」

 彼はゆっくりと体を動かした。ファサ、と静かに羽が揺れる。ところどころ抜け落ちていて痛々しい。青年の顔には見覚えがあった。記憶の中のあいつとまったく同じ顔がそこにあった。大きく鋭い瞳がこちらを見た。汚れた羽が揺れる。

「え!? あ……見えてます?」

 聞き慣れた声が、青年の口から零れた。俺は頷いた。青年は苦笑しながら立ち上がる。飛び立とうとしているのだが、どうやら傷ついた羽では飛ぶことは出来ないようだ。虚しい音を立てて羽は揺れる。困ったなと青年は溜め息を吐いた。

「驚かないんすか」

 黙ってその様子を見ている俺を不審に思ったのか、青年の方が驚いた顔をして言った。

「いや、充分驚いている。昔から顔に感情が出にくいだけなんだ」

「そっか。スミマセン、いきなり…」

「お前はなんだ? 何者だ」

「見ての通りっす」

「天使か」

 俺が言うと青年はうんと頷いた。俺は彼の言うことを信じる他なかった。天使なんていないと言いたいところだが、彼の存在を目にしたからには、いるということにするしかない。青年は困ったままの顔で気まずそうに話す。

「あと…なんっていうか飛べない? みたいなんで治るまでここに置かせてもらえると嬉しいんですけど」

 俺は迷わず頷いた。天使という存在について興味が沸いたのと、あまりに青年の顔が俺のよく知っているあいつにそっくりだったからだ。

 

「へー棗さんは科学者なんですね」

「そうだ。今は人工人体について研究している」

「人工人体……ロボットとかっすか?」

「いや、ロボット、というよりは義手や義足のような身体の機能しなくなった部分を補うための機械を作っている」

「ん…難しいっすね」

 出しっ放しにしてあった様々な器具や報告書を、もの珍しそうな顔で眺めながら青年は言う。棗、というのは俺が先程伝えた名だ。ついでに青年の名は「カケル」と言う。彼の上司が付けた名だそうだ。

「俺にとってはお前の存在の方が理解しがたいな」

「そうっすかね。背中の羽と仕事以外は普通の人間と変わんないっすよ。あ、あと住んでる場所くらいかな」

 カケルは「汚れているから」とすぐに風呂場へ向かった。何の疑問もなくタオル片手にジーンズだけを身に付けて現れたところから、本当に背中の羽と仕事以外は俺達と変わらないらしい。程よく筋肉のついた体は健康的だ。俺は腹の減ったと言うカケルのために少し早い夕飯を作っていた。ついでになぜ敬語なのか、と聞くと、身体が勝手にそうするなどという実に曖昧な返事が返ってきた。

「仕事、とは?」

「んと、死んだ人の魂をこちらへ導くこと、ですかね。言い出したらキリがないっすけど。あ、今日はちゃんと仕事終わらせてからこうなったんです」

 だからしばらくお休みしても平気なんすよ、たぶんとカケルは笑った。くしゃと顔を歪ませて笑う顔はあいつに似ていて少し胸が痛んだ。カケルは俺のすぐ側にある冷蔵庫を勝手に開いた。むき出しの背中から真っ白な羽が生えている。カケルは缶ビールを取り出すと「飲んでいいっすか?」と聞いた。俺がいいと言うと、カケルは慣れた手つきでプルタブを開いた。ごくり、と喉を鳴らして身体へ流し込んでいく。天使も酒を飲むのかと俺は感心した。

「今日はどうしたんだ?」

「なんかよく分かんないんすけど…この辺りを飛んでたら急に飛べなくなって、おっこちちゃったんです」

 いろんな所にぶつかっちゃって散々ですよ、とカケルは苦笑いを浮かべながらそう言った。俺は皿の上に鮭を並べてカケルに渡した。テーブルに置くよう指示すると、はいと素直に頷いてすぐに動いた。やはりその姿があいつと重なる。俺はすぐに気のせいだ、と片付けた。偶然あいつに似ているだけだと自分に言い聞かせる。ご飯と味噌汁をつけてテーブルに持って行く。カケルは気を利かせて茶と箸を用意していた。悪い奴では無いのかもしれない。まあ、天使が悪い奴だったら困るのだが。

 俺は夕飯を食べる前に、カケルの後ろに回り込んで背中の羽に触れてみた。ぎゃっ、とカケルはびっくりしたのか変な声を上げた。どうやら羽にも感覚はあるらしい。

 それから、カケルとの共同生活が始まった。

 

「棗さんってずっとここで仕事してるんですか?」

「基本的にはな。生活用品も宅配で送られて来るから、家から出なくても暮らせるようにはなっている」

 実際三年近く家から出ておらず、三か月程人とまともに会話をしていないと知ったらカケルは驚くだろうか。

「つまんなくないですか?」

「いや、研究に没頭出来て良い」

 俺が言うとカケルは納得出来ないという声でそうかなあ、と言った。俺は机の上で作業をしていた。カケルは少し離れたソファの上にねそべっている。研究用具の溢れる部屋の中で、ソファの上が彼の生活スペースとなっていた。

 カケルは俺が研究をしている間、毎日本を読んだり時に俺の研究や家事の手伝いをしたりして暇を潰していた。外に出かければいいと俺は言ったが、飛べない上にどうしてだかこの部屋からも出られないのだ、とカケルは困ったように言っていた。おまけにあちらと連絡を取ることも出来ないらしい。カケルはとうに諦めたのかすぐに生活に溶け込んでいった。

「今はお前がいて楽しい、と言ったらどう思う?」

 ソファに座るカケルに向かって俺は言う。カケルはばっと身体を起こして驚いた顔で俺を見た。いきなり何言うんですか? と照れくさそうに笑った。

 これは本音だった。ずっと人と話さず生きてきた俺にとって彼との生活は新しい発見の連続だった。あいつに似ていることだけが気がかりだったが、気にしなければそれで済む話だった。カケルはあいつに似ているだけであいつとは違う。カケルにはほとんど自分のことを話していない。彼に自分について教えたことは名前と現在の職業くらいだ。それ以上は教えられない。とりわけ過去については話すことなど出来なかった。言ってしまえば、カケルと共にいられるとは思えなかった。

「俺も、って言ったらどう思います?」

 はにかんだ笑顔で、カケルは言った。俺は参ったなと頭を掻いて再びパソコンに向き合った。あいつと似ていなくても、おそらく俺はカケルのことを気に入っていた。

 

「そう言えば棗さんはどうしてこの研究をしてるんですか? 人の役に経つからってのは分かるんですが」

 パソコンの前に座るカケルは突然思いついたようにそう言った。パソコンの画面には今開発している義手のモデル図が写っている。この家に住まわせる代わりに、カケルには手伝いを頼んだ。家事であったり、時には実験をしてもらったりと、一年経った今となっては、すっかりカケルの助けに頼りきってしまっている。最初彼はこういったことには疎いらしく、何をしているかはいまいち分かっていないようだった。しかし分からないことがある度に質問してくるので、俺はその度に色々なことを教えた。カケルはすぐに理解して、次第に科学的な知識を蓄えていくようになった。きっともともと素養はあったのだろう。そんな彼と研究を進めていくのは面白かった。

「……昔の知り合いがな、足を動けなくして」

「……その人のためにも早くいいものが出来るといいっすね」

「そうだな」

 パソコンに向かってデータをまとめる。カーテンは締め切っているし、テレビは滅多に付けないので外のことは何も分からなかった。カチカチと音を立てて進む時計のおかげで、唯一時刻だけは分かる。今は午後五時を指していた。もうじき夕食の時間か、俺は立ち上がって背を伸ばした。ちょうどそのとき、電話が鳴った。実に数ヵ月振りだ。

「おい、生きてるか」

 強い調子で話す友人の声が聞こえた。傍らのカケルは珍しいものを見るような目でこちらを見て来る。

「なんだ、お前か。久し振りだな」

「お前が外に出て来ないからな」

「そういう用件なら切るぞ」

「悪い。切らないでくれ」

 それより今の日付を知っているか? と友人は尋ねた。俺は側にあったカレンダーを見た。見なくても日付は把握しているのだが、念のためだ。

「知っているが」

「明後日、走の七回忌にレギュラー全員で集まる予定だ」

「……明後日か。生憎その日は用事があるんだ」

「どうしても出て来ないのか」

 友人の声は俺を責めるわけでも怒りを含めているわけでもなく、どこか悲しげだった。

「俺には顔を合わせる資格なんて無い」

「なあ、もういいだろう。七年経ったんだ。誰もお前を責めはしない」

「悪い。まだ俺には無理だ」

 俺はそう言って電話を切った。どこか不安げな表情をしたカケルがこちらを見る。大きく鋭い瞳から目を逸らした。今は白い翼も、あいつにそっくりなカケルの顔も見たくはなかった。

「どうしたの? 棗さん。電話なんて珍しい」

「ただの催促の電話だ」

「そう? なんか棗さん、泣きそうな顔してる」

 カケルは俺の隣りに立った。俺の肩を掴んで、無理矢理顔をそちらに向けさせた。大きな瞳が俺を射抜く。

「棗さんが普段何を考えてるか俺にはよく分からないけれど、時々すごく寂しい目をしてますよね」

「それは……」

「とくに俺を見る時なんかそうだ」

 なんかあるならはっきり言ってください、カケルはそれだけ言うと一人キッチンへ向かって行った。白い翼が揺れる。彼はまだここから飛び立つことが出来ないらしい。

「あとさ、棗さん」

 キッチンにいるカケルは静かな声音で言った。俺は何だと聞いた。

「前も言ったと思いますけど、俺達って死んだ人間の成れの果てなんです。こっちでうまく生きられなかった人間がなるんです」

 カケルはぽつりぽつりと語る。

「昔上司に聞いたことがあるんです。時々生きていた頃に強い縁のあった人のところに引き寄せられることがあるって」

「それで」

「俺は自分の生きていた頃を知りません」

 どこか悲しげな声だった。

「あんた、生きてた頃の俺を知ってるんでしょう」

 俺は肯定も否定もしなかった。そんな俺を見兼ねて、カケルは「まあいいや」と片付けた。

「それより夕飯どうします?」

 カケルは時計を見るなり立ち上がって冷蔵庫のほうへ向かった。何でもいい、と俺は返す。

「何でもいいって言ったって、棗さん栄養がどうとか色々言うじゃないっすか」

 そうかな、と俺がとぼけて言うとそうですーとぶうたれた声で返事が返ってきた。

「悔しいから俺の好きなやつ勝手に作っちゃいますからね」

 そう言ってカケルが作ったのはと甘口カレーライスだった。俺はあまり好きじゃないのだけれど、嬉しそうな顔で食べる姿を見るのは楽しかったし、カケルの作る料理はどれも美味しかった。

 

 静まり返った夜に、バサッと書斎の方から本の崩れる音がする。うわっと叫ぶカケルの声も聞こえた。俺は研究室を出て、書斎へ向かった。案の定本棚から本が落ちていて、あははと苦笑するカケルがいた。そして彼の手に、見覚えのある装丁が見えた。

「スイマセン! 崩しちゃいました……」

「いや、それはいい。それよりお前、何を持っているんだ?」

 俺が聞くとカケルは申し訳なさそうな顔をした。中身を見ていないことを祈るばかりだったが、すでに遅かったようだ。

「アルバム……」

「そうか」

 カケルはアルバムの一ページを開いて、俺に見せた。トントンと指でとある写真を指す。

「走、って誰ですか?」

 それは中学の時のテニス部のレギュラーで撮った写真だった。周りにはボールペンでそれぞれの名前が書き込まれている。彼らの笑顔は今の俺には眩しかった。

「俺にそっくりですよね」

「そうだな」

 俺は頷いた。カケルは写真の中央で笑う走と瓜二つだった。

「ねえ棗さん、俺はこの走だったんでしょう?」

 真面目な顔でそう尋ねて来るカケルを横目に、俺は「天使が死んだ人間の成れの果てだ」とカケルの言っていたことを思った。俺は最初から分かっていた。走が天使になって現れたのだと言うことを。

「ああ、俺の後輩だった」

 カケルはまだ物足りない表情をしている。

「どうして俺は死んだんですか」

 俺は答えなかった。胸が苦しい。カケルは言った。

「ごめんなさい。聞いちゃ悪かったかな…そんな顔しないで」

 それからカケルは慌ててアルバムを元の場所へ戻した。俺はどんな顔をしているのだろうか。分からなかった。

 

 その日は雨が降っていた。窓を締め切っていても、ザーザーと激しい雨の音が響く。カケルはソファの上でぼんやりと座っていた。部屋の中は雨の音と俺のキーボードを叩く音しか聞こえない。

「今朝上司から連絡が来ました」

「一年経ってやっとか」

「やっとですよ」

 ちょうど走の命日だった。この雨の中、かつての仲間たちは走の死を悼んでいるのだろう。俺はキーボードを叩く手を止めた。カケルがベランダに現れたのはちょうど一年前の今日だった。

「帰って来いと言われました。もう飛べるはずだって」

「行くのか」

「ええ」

 行かないでくれ、無意識にその言葉が零れ落ちる。カケルは一瞬悲しそうな顔をした。それから立ち上がって俺の前に立った。

「行かなくちゃいけないんです」

 意を決したようにカケルは強く言った。俺は彼の腕を掴んだ。

「……どうしても行かなくてはならないのか」

「寂しいっすけど」

 今までありがとうございました、とカケルは深く頭を下げて礼を言う。カケルはベランダに向かい、鍵を開いた。久し振りに嗅ぐ外の空気はじめじめとした雨の匂いがした。

「雨が降っているぞ」

「大丈夫です」

 カケルは雨の降るベランダに足を下ろした。俺もその後に続いた。冷たい雨が容赦無く身体を濡らす。

「それじゃあ、今まで楽しかったです」

 カケルは手摺から身を乗り出した。白い翼が水滴を振り払うように揺れた。俺はカケルの様子を見て、ある光景を思い出した。頭の中に無理矢理仕舞い込んでいた記憶が一気に溢れ出た。頭が痛い。俺はカケルに悟られないよう平気な振りをして手を振った。カケルの身体が宙に浮く。その瞬間眩暈が襲った。フラッシュバック。意識が途切れる。

 

「棗さん、大丈夫ですか?」

 目を開くと、先程出て行ったはずのカケルが今にも泣き出しそうな顔で俺を見ていた。いつの間にか身体はベッドの上に横たえられている。どうやらあのまま倒れてしまったようだ。脇にしゃがむカケルの頭に触れた。かつての後輩にもよくそうしてやっていた。そうすると彼はいつも照れくさそうにやめてくださいと笑

 うのだ。

「出て行ったんじゃないのか」

「あんたが倒れるのが見えて。それにまだ、棗さんと話したいことがある」

 俺はすぐに、彼が何を聞きたいかを理解した。俺はそれを言わなくてはならないとも分かっていた。

「あまりいい話じゃない」

 それでもいい、とカケルは言った。俺は話すべき言葉を探して、一気に組み立てた。最後まで冷静に話せないかもしれないと言うと、カケルはそれでもいいと言った。

 俺と走は、中学の頃同じテニス部に所属していた。一つ違いの先輩と後輩の関係にあたる。俺はレギュラーだったが、たった一人後輩の中で彼もまたレギュラーだった。彼は天才だった。

 彼とはよくダブルスを組む機会があったのだが、彼の強さには驚くばかりだった。彼は生意気で明るい性格だったけれども、俺たち先輩を誰よりも尊敬していた。敬語は勿論、レギュラーの中で一番練習をこなしていた。彼はどうしてだか、特に俺を慕っていた。練習に付き合ってくれ、ここを教えてくれ。俺が教えると、走ははいと返事をして、あっさりとやってのけた。どうして俺かと一度聞いてみれば、俺が一番自分を成長させてくれそうだから、と照れくさそうに走は言った。俺はそんな後輩を持てたことが嬉しかった。大会を終え、部活を引退し、中学を卒業しても走との付き合いは続いた。

 大学になって、俺はテニスをやめた。代わりに研究の世界へ身を投じた。走はその才能を遺憾無く発揮出来るプロの世界へと入っていった。彼の活躍を耳にする度俺は自分のことのように誇りに思った。また、プロになってもまだ俺を慕って、時間があれば近況を伝えて来る後輩が可愛かった。

 ある日、走に暇が出来たからと二人で会うことになった。コンビニで買ったアイスを咥えて、走は俺の二、三歩先を歩いていた。中学のころから変わらない笑顔で「棗さん、もっと早く!」と俺を急かした。俺達はテニスコートへ向かっていた。ラケットを握るのも久し振りだということもあって、プロの走と互角に打ち合えるとは思ってはいなかったが、走が「先輩に教わりたい」なんてあの頃のように言うものだから、俺は押し入れに仕舞ったテニスラケットを探した。

「棗さん」

 走は立ち止まって俺のとなりに並んで言う。

「なんだ、畏まって」

「俺、ヨーロッパに行きます」

 本気でプロとしてやってくつもりです、と彼が言った時だった。

 

 車のクラクションが辺りに鳴り響く。地響きのような大きな音が耳を襲った。危ない! と走は叫んだ。俺は突き飛ばされる。元いたところに視線を向けた。先程まで無かったはずのトラックと地面一杯の赤い血が俺の視界を支配した。

 それから必死に走を助け出した。彼はトラックの下敷きになっていたが、生きていた。良かった。俺は安堵しつつ必死に彼の身体を車から離した。彼は今にも死んでしまいそうな荒い呼吸をしながら「大丈夫ですか?」と聞いた。それから意識を失った。

 救急車で病院に運ばれる。彼はすぐに集中治療室に入った。

 そして手術が終わった時、彼は両足を失っていた。

 複雑骨折の上に神経が切れている。再び歩ける見込みは無い。医師と彼の両親の話し合いの結果彼はテニスプレイヤーとして命ともいうべき足を失ったのだ。

 目覚めた時、カケルは頬を引きつらせて嘘だと声を震わせた。それから現実だと受け止めてうなだれた。忘れがたい光景だった。

「…すまない走。本当にすまないことをした」

 俺は走に謝ることしか出来なかった。毎日病院に行き、走の側にいた。俺が謝る度「棗さんは悪くない」と無理矢理笑って言った。俺は泣きたかった。走は一度も俺の前で泣かなかった。

「謝らないでください」

「しかし」

「俺は平気です」

 へたな嘘だった。

「棗さんは気にしなくていいんです。だから大学行って研究頑張ってください。ほら、棗さんって確かサイボーグだかロボットかなんだかの研究してるんでしょ? 早く俺のために立派な足作ってくださいよ。あんたの作ってくれた足なら俺、喜んで使います」

 わざとらしく明るい声で走は一気に捲し立てた。

「だから、泣かないでよ。俺まで泣きたくなるじゃないっすか」

 

 走が死んだのはそれから三か月後だった。死因は屋上から飛び下りたことによる自殺。病院の屋上から、俺の目の前で車椅子ごと地面へ落ちた。壊れかけたフェンスに、たまたま俺に掛かって来た電話、強い風、沢山の偶然の結果走は死んだ。俺は手を伸ばした。届かなかった。ごめんね棗さん、待てなくてごめんね、そう言いながら落ちていった。

 

「……ごめんなさい」

 俺の話を黙って聞いていたカケルはゆっくりとそう言った。

「いいや、お前の謝ることじゃない」

 俺が言ってもカケルはぶんぶんと首を横に振ってきかなかった。

「だって棗さんに辛いことを話させちゃったし……それに棗さん、泣いてる」

 俺は頬に触れた。冷たい水の感触に気付いた。乾いてしまったとばかり思っていた涙は、止めどなく流れていく。カケルは両手で俺の頬を覆った。彼の胸に顔を押しつけられる。そうか、彼は天使だったか。俺は改めて思った。彼はあまりに人間のようだったから。

「走には、償いきれないことをしたんだ。俺の一生をかけても足りないくらい」

「だからずっとここで一人で戦っていたんすか?」

「……皆に合わせる顔が無い」

「ねえ、もういいじゃないすか」

 走はそう言ってさらに強く抱き締めた。

「俺はここにこうしているんです。あんただって生きているんだ。あんたの人生を生きなくてどうするんですか」

 俺には返す言葉が見つからなかった。

「きっとあんたが後悔してるから、俺はここに呼ばれたんだ。あんたがちゃんと前を向いてくれないと俺はここから出られない。だからさ」

 もう謝らなくていいんだ、と走はそう言って笑った。本当に、彼は天使になったのだ、と俺は思った。

 

 再びカーテンを開くと雨は止んで晴れ間が覗いていた。久方振りに見る太陽は目が痛くなるくらい眩しかった。ベランダに出る。今度こそ彼は飛び立つ準備をしていた。

「そう言えばあの日、ここで何をするつもりだったんです?」

「……死ぬつもりだった」

 俺が言うと、走は良かったと笑った。

「俺が居たから死ねなかったんでしょう」

「そうだな」

「俺、棗さんが死んだら迎えに来ます。だから、うんと長生きしてから俺を呼んでください」

 それじゃあ、と彼は飛び立った。白い翼がバサッと音を立てて羽ばたく。辺りに小さな羽がいくつも散らばった。俺は一つ手に取って、空を飛ぶ走と交互に眺めた。天使は美しかった。この世のものとは思えないくらい、美しかった。

 走は笑って手を振った。じゃあね、棗さん、またと言って空に消えた。

 俺は部屋に入ると直ぐに出かける準備をした。家を出る前に、ある友人へ電話をかける。

 

「もしもし? 今からそっちへ行ってもいいか」

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箱庭 遠野 @sakaki888

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