移ろい行く世界

▽side.Sun


 高校生になって初めての夏が来る。

 モデルを始めてから、俺は格段に絡まれる回数が減った。俺自身が特別に気をつけていることはない。近道だからって人気のない道を選ぶし、仕事が遅くなって夜中に一人で歩いていることもある。知らない女に彼氏よりも好きです、と告白される回数は変わるどころか増えた。

 絡まれなくなった理由について、小関は俺の雰囲気が変わったのだと言っていた。けど、自分ではそんなのよく分からない。


 夜十時過ぎ、高校生が一人で歩き回るには遅い時間だ。仕事帰りの俺はゆっくりとした歩調で駅から家までの道を辿っていた。疲れのせいか、急ごうという気にならなかった。

 道すがらの公園から聞こえた物音。

 野次馬なんてする気はない。ただなんとなしに、視線だけを向けただけ。

 知っている後ろ姿がそこにあった。

 好きだと、自覚してから、初めて会う。

 最初は見て見ぬ振りをしてしまおうかと思った。けど、そんなこと言えなかった。

 彼女の身体が赤に染まっていたから。


「――っ宮村ちゃん!?」


 俺は走り出していた。

 突然に乱入した俺のせいか、彼女と対立していた何人かが走り去る。そんなのどうでもよくて、俺はわたわたと彼女の周りをくるくると回った。まるで飼い主に戯れる駄犬である。

 しかし、飛んできたのはいつもの苦言ではなく、彼女の右の拳だった。


「ひっ――!?」


 俺はよく殴られる、それはすなわち、避けるのが下手ということでもある。宮村ちゃんの一発は綺麗に俺の左頬を抉った。


「うぶっ――痛、くない?」


 宮村ちゃんに殴られたことはないが、彼女の一発がどれくらいの威力を持っているかは知っている。体格の良い筋肉だるまみたいな男がぶっ飛んで転がる光景を何度も見ているのだから。

 しかし、そんな必殺の一撃には全く威力がない。

 宮村ちゃんはふらふらとしていて、直立もできていなかった。名前を呼びながら顔を固定して覗き込んでみたが、焦点が定まっておらず、視線は交わらなかった。虚ろな瞳の中は誰のものか分からない血で濡れている。


「宮村ちゃん……? ちょっと、大丈夫?」


 ぺとり、と俺の指を濡らすのは彼女の頬から流れる血だった。俺の単純な思考回路でも出すべき答えはすぐに分かる。


「きゅ、救急車――!!」


 いちきゅうきゅう? いちいちきゅう? ポケットを漁り、携帯を手にした俺の手はぶるぶると震えていてまともに操作もできない。ロック画面にある緊急連絡の機能を今初めて使おうとしている。

 俺の指が一のキーを叩いたとき、携帯電話が叩き落とされた。地面を滑ってどこかに行ってしまう俺の携帯を追うより、俺の視線は宮村ちゃんに持っていかれる。

 急に体を動かすスイッチが切れたかのように倒れ込んできた宮村ちゃんは、うわ言のように「病院、や、……家に、は」と繰り返した。

 何を言いたいかは分かるが、この状況でそれは許されるのだろうか。

 しかし、宮村ちゃんが家を嫌がる訳も俺はちょっとだけ知っている。


「……十分だけだからね。それで起きなかったら病院だからね」


 ここで格好良くお姫様抱っこでもできればよかったのだが、俺の非力な腕力では彼女に肩を貸して引きずるのが精一杯だった。

 近くの地面に座り込み、膝の上に彼女の頭を置く。とりあえず頭にけがをしていないか、髪の毛をすくように怪我を確認してみるが、切り傷も腫れもなさそうだ。しかし、髪の毛は血で固まり束になっていて、返り血の多さを感じさせる。

 真っ赤の服装からも分かるが、おそらくいつも通りに他人の血だろう。本人の血でここまで染まっていたら絶命しているに違いない。


「……宮村ちゃん、あんまり心配させないで」


 彼女が起きていたら、どの口がというだろうか。

 穏やかに寝息を立てるだけをみるなら可愛い寝顔であるが、血まみれ傷だらけとなれば、どうしたって物騒そのものだ。

 なんで、この子はこんなに暴力ばっかりするんだろう。どうして、お父さんと揉めてるんだろう。ねえ、あの一緒に居るいけ好かない優男は誰なの。小関が宮村ちゃんのために喧嘩してるのはどう思ってるの。


「俺、もしかして、君のこと何も知らないのかな」


 なんで、俺はそんな彼女を好きになったんだろう。

 ねえ、宮村ちゃんは俺のことどう思ってる?


「……俺は君が好きだよ、宮村理緒ちゃん」


 俺の声は何事もなかったかのように空気に溶けて消えた。

 頬を撫でてみても、乾いた誰かの血が剥がれ落ちるだけ。血の気の引いた頬からは体温が感じられない。

 このまま、彼女が死んでしまうなら、俺もここで死んでしまおう。そうしたら、きっと俺たちの関係は周りが名前を付けてくれる。現実がどうであれ、俺と彼女はきっと特別に――。


「――わ、や?」


 俺の醜悪な心が咎められているのかと思った。それと同時に、酷く安心も覚えた。

 よかった、生きてる。


「宮村ちゃん、起きた?」

「……わや?」

「そうだよ」


 宮村ちゃんはぼうっとしたままで俺の顔を見上げながら、「なさけないかおだな」と力なく笑った。

 そうだね、俺、情けないのかも。


「身体、痛いところばっかりでしょ」

「ん。……うん、そうだな。一歩も動きたくない」

「でも帰らないと。タクシー呼ぶよ? 本当は救急車呼びたいんだけど、宮村ちゃんが嫌って言うから」


 ポケットを漁ってみたが携帯に指は降れない。そうだ。さっき、遠くに滑って行ってしまったんだった。

 膝から宮村ちゃんをどかして取りに行かなければならないが、俺はこの距離が離れてしまうのが嫌で、彼女以上に俺の方が億劫になっていた。怠慢だ。彼女が致命的な大怪我していたらどうするっているんだ。


「――和屋」

「ん?」

「一日だけ、世話になれないか? 家には、帰りたくないんだ」


 こんな状況じゃなきゃ言われて嬉しい言葉であるが、今の状況では家出の片棒を担いでくれという依頼でしかない。とはいえ、このまま置き去りにはできないし、俺が断ればおそらくあの優男が彼女を保護するだろうことが容易に想像でき、家に何の確認もしていないのに俺の口は「今日だけだよ」なんて物わかりの良い男を演じていた。


「悪い」

「そこはお礼を言うところだし、いつも助けてもらってるのは俺の方なんだから気にしないで」


 ぽんぽん、と柔らかく頭を叩くと、宮村ちゃんは下手くそに笑った。そうしてずっと笑っていてくれれば、俺はそれだけでいいのに。

 俺は宮村ちゃんから携帯を借り、タクシー会社へと電話をかけた。十分くらいできてくれるらしい。もっと遅くたっていいのに。


「……宮村ちゃんが喧嘩してるの、久しぶりに見たかも」

「ああ、最近、しないようにしてるからな」

「え?」

「……いつまでも、このままは生きていけないだろ」


 そりゃあそうかもしれないけど。

 一体、何がどうして。俺がうだうだと少女漫画ごっこに浸っている間に、何が起こったというのだ。

 宮村ちゃんは前に進むって決めたの? どうして? 自分で決めたこと? それとも誰かに背中を押してもらったの?


「……置いてかないでよ」

「和屋?」

「宮村ちゃんは宮村ちゃんのままでいいんだよ」


 宮村ちゃんのままでいてよ。

 誰のものでもない、強くて、優しくて、可愛い宮村ちゃんのままで。いつかは大人になる日が来る。でも、それは明日じゃなくてもいいじゃないか。

 俺はいけない。そんなに早く、進んで行けない。


「……俺を置いていかないで」


 身体を倒して、宮村ちゃんの頭を抱える。

 宮村ちゃんに何も見えなければいいのに。彼女の視界が俺だけで埋まってしまえば、そうしたら――、そうしたら。


「むしろ、和屋の方が私を置いて行ってるだろ」


 はは、とかすれた笑い声が腕の中から漏れる。

 俺がいつ、君を置いていったっていうんだ。笑い事じゃない、と抱え込む腕に力を込めれば、宮村ちゃんは更に笑声を大きくした。


「俺は変わってないよ」


 本当に、何も変わっていないんだ。

 宮村ちゃんと初めてあったあの日と同じ。守られるだけで、支えることもできない、力のないただの男。

 そりゃあ、年齢は重ねたかもしれないけど、顔はますます格好良くなったかもしれないけど、それは自然の流れで意思を持った行動じゃない。


「知ってるか? 私たち、もう知り合って四年目だ」

「え? あ……、もうそんなになる?」

「あっという間だな。和屋はモデルを始めて、知らないうちに大人の顔し始めて、ろくでもない喧嘩に巻き込まれるような無防備でもなくなった」


 四年前、か。今でも鮮明に思い出せる。

 俺にとってあの日は今でこそ人生最大のイベントだ。きっと、これからの人生で越えることもない。


「……飾先輩は私が親に従う人形であることに疑問を持たせてくれた。小関は自由を望むことが当然の権利だって教えてくれた」


 宮村ちゃんはくぐもった声で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 カザリサンも、小関も、宮村ちゃんにとって特別。きっと、俺にとっての宮村ちゃんと同じ。人生で知り合えてよかったと思える大事な人。

 ねえ、宮村ちゃん、俺は?

 俺は、宮村ちゃんにとって――。


「でも、そのきっかけを受け入れられたのは、あんたが傍にいてくれたからだよ、和屋。和屋が私を普通に引きずり込んだ。犬じゃなくて人間だって、教えられてっていうか、知らしめられた」


 宮村ちゃんの腕が俺の首に回る。

 力ない抱擁は俺の首を自分の方へと引き寄せるようなもので、俺は抗わずに従った。こつん、と額同士がぶつかる。

 血の匂いしかしない。


「ありがとなぁ、和屋。あんたは本当にいつでも傍にいてくれた。こんな私を腫れものにもしないで、軽蔑もしないで、ただ普通にしてくれてた」


 それはこっちの台詞だ。

 宮村ちゃんはずっと傍にいてくれた。ずっと。俺にはよく分からないが、俺は面倒な部類なんだったと思う。周りの目がそう言っていた。

 静かな車道から車の近づいてくる音がする。きっと、さっき呼んだタクシーだろう。行かなくては、そう思うのに俺の足は全然動こうとしてくれなかった。

 宮村ちゃんには車の音が聞こえていないのか、へらへらと「そもそも、私が四年も同じ人間と付き合いを持てるなんて。それだけで奇跡だろ」と他人事のように笑っている。


 ――、宮村ちゃんは普通の俺を望んでくれているのかもしれないけど、もう無理かも。俺にとって君は特別のお姫様だから。

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