心の向く先

▼side.Dog


 私の人生を一冊の本とするならば、私の中学三年間は修羅の日々と記されるだろう。

 物心がつくとほぼ同時にひねくれ始めた私は、コミュニケーション能力はあるものの、致命的に協調性に欠けていた。

 友人を作る必要性と、父の番犬としての仕事とを天秤にかけ、後者を取ったのだ。私の希望などと関係なく、父が許さなかったのだが、そのころの私には父親は絶対の存在で、歯向かうという選択肢は存在しなかった。


 中一。春。私の世界に夜が訪れた。

 父が沈まぬ太陽だとすれば、彼は星の輝き一つ許さない宵闇。


「おい、理緒りお。散歩行こォぜ」

「……かざり先輩、せめてその足が治ってからにして下さい」


 屋上は私と先輩の憩いの場であった。

 本来は出入り禁止の場所であるのだが、先輩は何故か鍵を持っていて、平然と出入りをしている。その理由を問ったことはないし、これからも問うつもりはない。

 屋上の風に吹かれる短い黒髪、柔らかい雰囲気を醸し出すたれ目、息苦しいのではと思えるくらいきつく締められたネクタイ。

 彼は見るからに優等生であるが、それは本当に見た目だけの話だ。


「俺ァ、いいんだよ。お前が殴る蹴るするの見るだけで」

「知ってると思いますけど、私と歩いてると先輩も巻き込まれますよ」

「はは、お前に巻き込まれるよりも、お前が俺に巻き込まれる方が多いだろ。今更だ」

「質が違うじゃないですか」

「お前が守ってくれりゃあ問題ない。な?」


 にかり、と楽しそうに笑う先輩は、本当に楽しそうで思わずつられて笑ってしまった。

 他人事のようにモノを言うが、飾先輩は私よりも狂暴な”なにか”を抱えている。

 自慢にもならないが、私は理不尽に暴力を振るったことはない。相手は必ず父の敵であり、父を蹴落とすために私に手を出してくる害悪であった。

 それに対し、彼の扱う暴力は無意識で無意味なものだった。

 相手は誰でもいい、理由は何でもいい。


「絶対嫌です」

「可愛くない」

「よく言いますよ。怪我の治りなんて気にせずに手を出す癖に」


 先輩は答えなかった。

 代わりにネクタイを緩め、爽やかに微笑む。なんて嘘に塗れた表情なのか。

 私は残酷にもそんな先輩に安心感を覚えるのだ。

 彼は私よりもいかれた狂人。私はまだ戻れるところにいる、理性に制御された飼い犬なのだと。


 ――いつの間にか、私の首輪は飾先輩に引き千切られていた。気づいたときには、もう遅い。


*****

▽side.Sun


 中学一年の秋。まだ夏の名残があり、半袖でも十分快適に過ごせるが、やはり、日暮れには肌寒さを感じる。

 部活が休みで、ふらふらと街をぶらついていた帰り道、路地裏に見知った顔を見つけた。偶然も偶然、スポーツ用品店に寄って、いつもと違う道を歩いていた矢先のことだ。

 あれは夏に現れた救世主の姿に違いない。


「やっぱり宮村みやむらちゃんだ!」

「あぁ?」


 低い唸り声は同い年の女の子のものとは思えない。威嚇なのか、返事なのか分からないそれに俺は正直、少しだけ、本当に少しだけびびった。


「うわ、何その顔!」


 後悔は、後から悔いると書く。まさに俺は彼女に声をかけたことを後悔していた。

 ぎらりと光る眼光は野犬そのもの。力だけが秩序の自然界を生きていると言わんばかりの瞳は、俺のことを食い物にしてやろうという意思が滲んでいた。

 それだけなら良かった。


「えっと、お取り込み中……だった?」


 彼女の頬を彩る血飛沫、路地の奥で倒れた学生服の男たち。あの制服はこの辺でも有名な不良の集まる高校だ。


 まるで、犬と餌。

 俺の身近な犬といえば、うちの愛犬ペコ。じいちゃんの家から引き取った雑種の犬。芸をしてはおやつをねだる可愛いやつだ。

 ペコがこんな野蛮な食事をしている姿は全然想像できない。けど、俺の目には犬が獲物を並べて置いている姿にしか見えなかった。


「こっわ」


 俺の心の中の声が素直に音になる。

 宮村ちゃんは俺が何者かを見定めているようだった。

 確かに、俺は二、三ヶ月前に一度会っただけの男。覚えていなくても無理はない。特に彼女は、人との出会いと別れが激しそうだし。


「覚えてないかもだけど、俺――」

「あんた、この前のハンバーガー?」

「え? あ、えー? ――そう、そうそう! って、その記憶で合ってるけど、俺はハンバーガーじゃない!!」


 反射で言い返した俺に、宮村ちゃんは「うるせ」と吐き捨てながら頬を汚す他人の血を拭った。

 袖口についた赤に目を奪われる。

 路地から出てきた彼女は、俺の前で足を止めた。大きな目、真っ直ぐで艶やかそうな黒髪、華奢な体つき。

 どう見たって草食の小動物なんだけどなあ。


 俺よりも体格のいい男たちが完膚なきまでに叩きのめされているのに、俺は宮村ちゃんをちょっとも怖いと思わなかった。


「あんた、絡まれやすいんだから、こういう道来るなよ」


 え、優しい。

 単純な俺は彼女が俺を覚えていてくれたことと、俺を気遣ってくれたことに心を射抜かれた。

 強いうえに、優しいなんて。


――彼女がどんな理由で、あんな凄惨な地獄を産み出したのかなんて、馬鹿な俺には関係なかった。

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