小さな少女
翌朝。
静かで、まだ薄暗い時間。
ぱちりと目を覚まし、ふう、と息を吐く。
小さいけれど柔らかい枕がそれなりに気持ち良いからなのか。
それとも疲れがとれてないからなのか。
どうにも動く気になれない。
はあ、と、
枕に貼りついていた髪の毛を指先に絡めとる。
じっと観察しなくともわかるほどに、派手な金色。
「あー……そろそろ汚ねえプリンになっちまうなあ……」
毛根の黒い部分を見ながら、カナメは苦笑した。
髪を染めるのはもちろん校則違反。
だが、知ったこっちゃない。
ふっと、髪の毛を吹き飛ばす。
そして横になったまま億劫な感じで首を回し、無為に虚空を見上げるカナメ。
新庄家――と、いえば、それなりの名家で。
かつてこの辺りでその名を知らぬ者はいないほどだったらしい。
しかし開業医だった祖父はとっくの昔に死んでいて。
その一人息子だった父親も、大病院で医師として勤めながらも、真面目が故に馬鹿な死に方をして……祖母も後を追うように自動車事故で不幸な死を迎えた。
残されたのは、カナメと――カナメの母親だけ。
その母親は、正直、立派といえる人物でもない。
新庄さんの息子は悪い女にひっかかった、と、そんな陰口がまだ幼かったカナメの耳に届くほどで、実際、今や働きもせず、やはり残された大きな家で酒を煽る日々。
特に最近はヒスが酷く、カナメと顔を合わせるたびに暴言を吐かれる。
いい加減、慣れたとはいえ、もちろん気分の良いものではない。
――あいつが目を覚ます前に、さっさと学校に行こう。
毎朝のことながら、そんなことを思ってしまう自分が嫌になる。
湧き上がる憂鬱さを抑え込もうと、横臥したまま呼吸をひとつ、気持ちを整えた。
「……ん?」
背後から、小さな物音。
猫か、と、カナメは寝返りをうつように、ごろりと身体を逆方向に向けた。
「…………?」
無言のまま、わずかに首を傾げて、数刻。
「はあ?」
視界に飛び込んできたのは、なんとも異常な光景。
いや、何が異常なのかもわからず、動悸を感じるほどに心が強く揺さぶられる。
……ああ、なるほど。
思考がついてこないというのは、こういうことなのか、と。
カナメは渇いた口内に沸いた唾を飲み込み、何とか冷静に確認する。
横たわったままのカナメの姿を、じっと、見つめる存在。
それは、猫なんかではなく――
小さな、少女だった。
小学校低学年……いや、もう少し幼いかも知れない。
けれど、妙に大人びた印象も受ける。
それはその整った顔つきに表情がなく――まるで人形のようだったから。
鴉のように黒く艶やかなその髪は、眉の上で綺麗に切りそろえられていて。
後ろ髪は、その小さな肩にかからない程度。
それはまさに日本人形といった風貌で。
なによりその衣装。
身に纏うのは、白い小袖と紅い袴。
いわゆる、巫女装束といわれるもの。
コスプレなんて言葉は、まったくもって似つかわしくなく。
まさに神聖な存在とでもいうのか、それとも――霊的な存在とでもいうのか。
カナメにとってすれば、生まれて初めて見たような……
ん、いやまあ……実際、見知らぬ子であるわけで……
「……こんなところで、な、何してるんだ、お前?」
つい、うわずってしまったその言葉が、質問としておかしいのはわかる。
何をしてる、じゃない、そもそもどうやって……
「…………」
無言のまま、表情を変えない少女。
質問の意味がわからないのか、それとも言葉が通じていないのか……
ええと、どこの子だ……?
身を起こすこともできず、とにかく困惑するカナメ。
この周辺は区画整備がされていて、似たような家が並んでいる。
酔って帰ってきたら、隣の家だったとか。
それこそ遊びに来た子が、どこかわからず迷子になったとか。
そんな話を聞かないこともない。
しかし、カナメの家は別格というか。
いかにも古く、代々続いているといった感じの立派な作り。
敷地も広く、他の家と間違えるなんてことはあり得ない。
――鍵を、閉め忘れた? いや、けど。
――ひょっとして、自分が知らない親戚の子か?
――父方の親戚はもういない。母方は遠く地方にいて、正直よく知らない。
――関わりも薄く、知っているのは祖父も祖母もとっくに死んでいることくらい。
――だからあり得なくはない、のか? いや、だとしても。
こんな朝方に……どう考えてもおかしい。
じゃあ、やっぱり……と、カナメは思わず唾を飲み込んだ。
ともすれば人間離れした雰囲気。
なんとなくその存在も希薄な感じというか……
幽霊、みたいな……?
あまり考えたくない結論が浮かびあがる。
背筋がぞくっと冷たくなったのは、朝の涼しさのせいではないだろう。
混乱と、困惑と――少しばかりの恐怖に襲われる中。
目の前に立つ少女の様子が、急に変わった。
きょとん、と。
本当に不思議そうな表情を浮かべると同時に。
あなたこそ何をしているの? と。
そんなことを言いたげな感じで、ちょこりと小首を傾げた。
そこには神聖とか、霊的とか、そういった印象は一切残っておらず。
何とも可愛らしく――まさに普通の、年相応といった印象を与えるものだった。
カナメの内に浮かんだのは安堵感。
そして同時に。
クソ、脅かしやがって……と、そんな腹立ちが湧き上がる。
――は? オマエはドコノ誰なんだよ。
自分でも驚くほどの低い声。
他人に馬鹿にされたくない。故にとりあえず威圧する――
というのが、カナメのポリシー。
ヤンキーかよ、と、友人に揶揄されるのは昔から。
けど、だからって、こんなガキ相手に喧嘩腰になるんじゃねえよと、自分に突っ込みをいれられるほどの気持ちの余裕を、カナメは取り戻していた。つーか、こんな寝っ転がった姿勢でドスを効かせてもなあ……と、言い訳のように呟きながら苦笑いを浮かべるカナメ。
そんな心中とは裏腹に、ポリシー通りの効果はあったようで。
眼前の少女は明らかに怯えた表情を浮かべると、ひっと小さく声をあげる。
うるっと、目尻が潤んだかと思うと、慌てて逃げるように……
だっ! と、背を向けて走り出した。
「あ、おいっ! こら、待て、待てっ!」
慌てて身体を起こすカナメ。
同時に、頭の奥が冷たく――ぐらり、と、視界が歪んで。
「あ、う……」
重く、何かが消えてしまうような感じ。
貧血のように、冷たさが落ちて。
世界が、暗闇に覆われたかのように――
「……って、ん? あ、あれ?」
ぽかんと、刹那の記憶が抜け落ちてしまったような。
「ええと、今、ここ……いや、目の前にいたのは……」
カナメは上半身だけ起こした姿勢で、自分の額に手を当てる。
思考がついてこない状態に、再び。
ぶるっと――身体が震えて。
……今朝は、寒いなあ、と。
素朴な気持ちが湧き上がる。急に日常が戻ってきたかのように。
クローゼットからもう1枚、毛布を持ってきた方が良かったな、と。
「いやいや、んなことどうでもいいだろうよ……」
切り替えが早すぎるというのか、危機感のない自分自身に呆れるカナメ。
そう、危機かどうかはさておいても、異常な事態であるのは間違いなく。
今さっき、ここにいたのは……
にゃあ、と、聞き覚えのある鳴き声。
「ん?」
カナメの足元。視界の片隅に入り込んできたのは、黒くて小さな生き物。
家に居ついている猫だった。
わずかに射してきた朝日を浴びる毛並みを見て、少女の綺麗な黒髪を思い出す。
「ふむ、なるほど、なるほど」
ポンと、わざとらしく手を叩いて。
「お前が人間に化けてたんだな、ははは……って、なわけねーだろ……」
馬鹿みたいに自分で突っ込みをいれながらも、近づいてきた黒猫の頭を撫でる。
ごろごろと喉を鳴らすその姿を見て。
「よし、わかった。今のは」
夢だ、と。
ばさっと毛布をはねのけて、勢いよく立ち上がりながら、ひとり頷くカナメ。
ここは古い家で、まあ、たまにゴキブリなんかも出たりもする。さっさと退治できりゃ良いけども、どこかに隠れてしまったとき、そいつが……夜中に自分の枕元を這ってたらなどと思うと……そりゃ気分はよくない。
そういうときは、まあ忘れてしまうしかない。
それは……お化けだって同じことだろう、うん、うん。
拳を握りしめながら、カナメは自嘲気味に笑ってから。
「けどな……やっぱり……」
力なく声を吐き出した。
梅雨時期の空気。目覚めたときから感じる湿気と肌寒さ。
それは確かな現実で。
さっきのが夢だとか、あの少女が幽霊だとか……やはり考えにくい。
あり得る線としては、やっぱりアイツの……母親の、親戚か何かで……
「…………」
カナメの耳に静寂が響く。
あの少女が何者なのか。それを確認するために……アイツに会いたくはない。
カナメは無意識のうちに、自分の首元に手をあてていた。
じわりと痛む。
それは2週間ほど前のこと。
わけもなく突然、激高したアイツに――
どうして、お前なんか、が――とか、そんな、こと、を――
みゃあみゃあ、と。
足元。
餌をねだるように鳴き始めるちいさな存在。
とんとんと、カナメのつま先を突くように。
「……はは」
微笑ましくなり、軽く身を屈めてその頭を撫でた。
その黒い毛は濡れた感じで、朝日を浴びて輝いている。
カナメは姿勢を正してから、んー、と大きく伸びをする。
そして拾い上げるように枕と毛布を手に取った。
「日干ししないと、な。これも」
そんなことを、ひとり呟く。
話しかけた相手は、にゃと、小さく鳴いてトコトコと歩き始めた。
カナメは再び眠気を覚え、ふわあと大きくあくびをする。
猫はそれに反応したように立ち止まると、甘えた顔をカナメに向けた。
たぶん「早く飯をよこせ」という意味。
「……はいはい、わかったよ」
カナメは笑いながら、ゆっくりと、その後に続いて歩き始めた。
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