小さな幸せ、小さな少女

こばとさん

夜の、家


 暗い中、プラスチックの薬瓶を傾ける。

 手のひらの上、錠剤が転がり落ちるのを幽かに感じて。

 ペットボトルの水で、ごくりと、それを流し込んだ。


 ――6月とはいえ、この、家は、少し涼しい。


 5-ヒドロキシトリプトファン


 安眠のため、と、親父も寝る前に良く飲んでいたもの。

 ただ、医者で多忙だった親父はまだしも、自分はまだ高校生。

 薬に頼るなんて、と、思うところがないわけではない。


 けど、まあ。

 海外では健康のためこういった薬が積極的に飲まれている。

 人間にとっては、夜にきちんと眠るのが一番の安らぎだ。

 親父がそう言っていたのを思い出すと、さほど抵抗はない。


 とはいえ、その本人が過労で死んでしまったのだから……

 なんつーか、ま、医者の不養生どころの話じゃないわけで。


 責任感が強すぎる人だった――


 葬式のときに散々聞かされた話。

 わざわざ言われずとも、わかっていたことだった。

 家族を犠牲にして、仕事を優先する姿をずっと見てきたから。


 ――お前は医者なんかになるなよ、と。


 広い我が家。

 たまの休日を過ごす親父に笑いながら言われて。


 ――アホか、なりたくてもなれねーよ、と。


 視線も合わせず軽口を返す。


 ――あなたも地頭は良いんだから、勉強すればなれるでしょう。


 口のきき方をたしなめられながらも、そう褒めてくれたのは。

 今は亡き祖母だった。

 親父の横で笑っていた母親が、まだ、優しかった頃で。


 そう、あの頃は――幸せだったのかも知れない。


 代々続く医師一族の家系。

 自慢の息子が、立派な父親の後を継ぐのだろうとか言われていたが。


 そんなことを言うヤツは、もうどこにもいない。


 はあ、と、息を吐き、倒れ込むように横になる。

 毛布を肩までたぐり寄せ、仰向けで目を閉じた途端に。

 ごそごそと、音が聞こえた。


 にゃー、と、少し離れたところから小さな鳴き声。


「お前か……」


 目は閉じたまま、ひとり、呟いていた。


 猫は飼ってない。

 しかし最近、どうしたわけか、黒猫が入り込んでいる。

 初めて遭遇したときは、そりゃまあ、びっくりしたわけで。

 唖然としていたら、窓の隙間から勝手に出ていった。


 台所の床には缶詰の中身が散らかっていて。

 どうも自分の母親が、野良猫を餌付けしているらしいことがわかった。

 

 らしい、というのは、きちんと確認できないからであり。

 

 その後すぐ、その本人にその猫について尋ねたところ。

 ウイスキーの瓶がこちらの顔を目がけて一直線に飛んできて――

 慌てて避けると同時に、背後にあった収納棚のガラスが音を立てて砕け散った。

 そして当人は、ヒステリー気味にわけのわからないことを叫び続ける。

 

 それ以来、そういうものか、と、気にしないことにした。

 

 その黒猫とはときどき出会う。

 怖がっている様子もないから、きっと可愛がられているのだろう。

 心の寂しさを――紛らわせているのかも知れない。


 あんなヤツでも、血のつながった母親だ。

 自分の代わりに少しでも癒しになってやってくれよ、と。


 の中に、潜む、その存在に、心の内でただ祈る。


 ふわあ、と、大きなあくびと共に、眠気が襲ってくる。

 薬が効いてきたのか、心地よく、穏やかに。

 気持ちが、ふわりと、弛緩して。

 やがて、すべてが溶けるような闇の中。


 眠りに落ちた――

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