東野炎立所見而反見為者月西渡

 今回は万葉仮名についてです。

 サブタイトルにした和歌を耳にする機会が有ったのですが、読み方は甚だ疑問です。

 現代では一般に次のように読まれているそうです。


 「ひむかしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ」


 また、次のような読みもあるそうです。


 「あづま野のけぶりの立てる所見てかへり見すれば月かたぶきぬ」


 いずれも「西渡」を「かたぶきぬ」と読んでいて、何か奇妙です。

 次の読みも有るそうです。


 「東(ひむがし)の 野(の)にはかぎろひ 立(た)つ見えて かへり見(み)すれば 月西渡(つきにしわた)る」


 つまり、定まっていないのです。

 文字の音だけ使っていたり漢文だったりと万葉仮名は後から読もうと思っても専門家でもはっきりとはわからない様子です。


 そんなこの和歌を素人解釈してみましょう。


 最も奇っ怪なのが「月西渡」の訓です。

 「つきにしわたる」では座りが良くがありませんし、「つきかたぶきぬ」では字面と違います。

 恐らくですが、「つきかたぶきぬ」は「つきにしわたる」の座りの悪さから、強引に意訳したのでしょう。


 しかしどうしてこうなったのでしょう。

 これも恐らくですが、「反見為者」を「かえりみすれば」と訓じるのが座りが良いことに引き摺られているのだと思います。

 だからと言って、他の部分にしわ寄せするのもおかしな話です。

 そこで「反見為者」を無視して区切ってみましょう。


 前提としてこの歌が助詞を省略した略体歌だとして色々と助詞を補います。

 そしてそう見た場合、助詞らしき「而」「者」は何故省略されなかったかが疑問として残ります。何らかの法則に従って省略するしないが決められていると考えた方が自然です。しかし、上記の二種類の訓ではどちらも法則性がありません。

 ここでは仮説として五七五七七の各句の合間の動詞に続く助詞が省略されず、それ以外が省略されているものと考えます。

 そうすると、区切りが「東野炎立所見而反 見為者月 西渡」となります。


 これなら座りの悪かった「月西渡」の部分も「西渡」だけになって座りが良くなります。「にしへわたるや」と訓じましょう。

 次にその直前の七音ですが、必然的に「見為者月」となります。動詞、助詞、名詞と続いて、助詞が句の末尾ではなく中程に有るので省略されなかったと考えます。「まみらばつきが」と訓じましょう。

 その次に上の句最後の五音ですが、「所見而反」と区切ってしまいましょう。動詞、助詞、動詞と続くので助詞が省略されなかったと見ます。そして「みゆてそり」と読み下します。「みえてそり」や「みてかえり」も考えられますが。


 そして上の句を「東 野炎立」と区切るか、「東野 炎立」と区切るかです。

 それぞれの区切りで訓じたら、このようになります。


 「ひむかしの ののほむらだち みゆてそり まみらばつきが にしへわたるや」

 「東の 野の炎立ち 見ゆて反り 見らば月が 西へ渡るや」


 「あずまのに ほむらたつるを みゆてそり まみらばつきが にしへわたるや」

 「東野に 炎立つるを 見ゆて反り 見らば月が 西へ渡るや」


 後者の方が座りが良いように思います。

 結果的に原文を「東野 炎立 所見而反 見為者月 西渡」と区切ることになります。


 そして意味についても異説を唱えておきましょう。


 「炎」とは何かが重要です。何かを象っていると考えられます。

 一般には太陽と解釈される部分ですが、戦火、あるいは荼毘と考えます。


 戦火、つまり戦または政争なら、戦いに負けて西に落ち延びて行く、あるいは西に流される事を嘆いたものでしょう。

 柿本人麻呂が書いた時期と彼の人生が一致するかどうかまでははっきりしませんが。


 荼毘なら、「自分にとって太陽の様な人が亡くなったので月である自分は西に傷心の旅に出る」と言う恋と死別の歌になります。

 この死別の歌と解釈した方が美しくて良いように思います。

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