第4話


「…………」


 どうして貴方はただのエレベーターの扉をそんなにも恐ろしい形相で見つめることが出来るのですか。あれですか、前世でエレベーターに挟まって死んでしまったとかですか、それとも小さい頃にエレベーターに愛しい人を連れ去れた悲しい過去をお持ちなのですか。


 私のすぐそばで固まってしまっている橘さんと愛菜ピーさんを確認すれば、引きつった笑みを浮かべながらどばどばと滝のような汗をかいていらっしゃる。いや、気持ちはよぉく分かる。なんといったって、悪口にしか聞こえないようなことをさきほどまで話していたのだ。大声で話していたわけでは無いので聞こえていない可能性も高いが、それはつまり、聞こえていた可能性も捨てれないわけであってですね。


「まにゃ、愛菜ちゃ……、あた、しあたし……」


「とりあえず土下座や、なんとか謝ってせめて山坂だけでもなんとかしてそれで逃げてどこに逃げたらあかん、あかんあかん」


「あ?」


「愛菜ちゃぁ!!」


「ひぃ!?」


「さようなら私の大学生活」


 課長さんが振り向いた。ただそれだけで橘さんと愛菜ピーさんはお互いを抱きしめあいながら震え、私は人生の終わりを感じ取った。


「……おう、おはよう」


「ごめんなさいごめんなさいごめ、……はい?」


 私と橘さんをかばうように前に出ながら膝をつこうとした愛菜ピーさんが今度は別の意味で固まってしまう。


「何言ってんだ、嶋井」


 お、そらくは声色から考慮して困惑の表情を浮かべていることが予想されるのだが、端から見れば「○すぞ、クソガキ」と言われているようにしか見えない顔をされながら課長さんは愛菜ピーさんに質問する。


「あ、あのぉ……、か、課長さん」


「なんだ」


「さきほどまでの会話は、そのぉ……」


「会話? 何の話だ」


 途端に私たちを包み込む空気は絶望から楽園へと切り替わる。ここが外でなければ三人で奇跡の生還を抱きしめあいながら喜び合っていたに違いない。


「……なに抱きついてんだ、お前ら」


 訂正。すでに抱きしめ合っておりました。


「……、嶋井、橘」


「はいぃ!」


「な、なんでしょうか課長さん!!」


「おはよう」


「え? ……あっ、おはようございます! 唯! 唯!!」


「おはようございますッ!!」


 ここは軍隊かなにかか。ビシッ! と敬礼までしてしまっている橘さんにそれでも軍隊か、とは恐ろしくて口が裂けても言えるはずがない。


「後ろのは、新入生か」


「え? は、はい! そうです、山坂さん! 挨拶、挨拶して!!」


 橘さんにぐいぐいと背中を押されて、心底嫌だが私は課長さんの視線上に立ってしまう。挨拶!? 挨拶とか言われましても何を言えば良いというのですか、昨日はどうもありがとうございましたでしょうか!? 産婦人科ではちゃんと薬をもらったので大丈夫、とかそんなこと言おうものなら私の人生そこで終わるの確定ですよねぇ!?


。三年の加藤だ、よろしく」


「はぃい! 私は山坂と、……はい?」


 初めまして。

 Nice to meet you.

 Ich freue mich, Sie kennenzulernen.

 初次见面。

 Enchantée.


 ごめんなさい、見栄張りました。三つ目からはあとで調べました。

 それはそれとして、初めまして。何を隠そう初めてお会いする者同士が使う挨拶として日本各地で使われている挨拶であろう。それとももしかして課長さんの出身地では初めましてが、よくも俺を押し倒したなこのビッチが、という意味を持つのでしょうか。

 初めまして、ああ初めまして、初めまして。五七五。


 ぐるぐる思考が巡り続ける私を助けてくれたのは、到着を告げるエレベーターの機械音。ぐい~っと開く扉の向こうに入っていかれる課長さん。ああ、どうかこのままお一人で行ってはくれないだろうか。そのあと私たちはゆっくり優雅にそれでいてかろやかに、


「はやく乗れ」


「「「はい!!」」」


 怒られまいと我先に無様に乗り込んだ私たちを笑いたければ笑うが良い。


 これ以上あるのだろうかと思うほどにエレベーターのなかの空気は重かった。さきほどまで花のように明るかった橘さんがこの世の終わりのような顔をして、愛菜ピーさんはこっそりと橘さんの背中を優しく撫でてあげ続けている。

 そんな空気を作り出している張本人は、なにも気にせずエレベーター上部に取り付けてある階数を示す文字盤をただ見つめ、訂正、睨み付けている。

 私? 勿論、頭の中で遺書を作成していることに必死でしたよ。


 永遠とも思えるほどの時間がながれ、ようやくエレベーターは四階へと私たちを運んでくれた。


「課長さん! さあ、どうぞお先にッ!!」


 光の速さも真っ青なスピードで開くボタンを連打する愛菜ピーさん。


「ああ、ありがとう」


「ぃ、いえぇえッ!!」


 不思議で仕方がない。どうして感謝の言葉で私たちは恐怖に落とし込まれているのだろう。感謝ってなんだ。ありがとうってなんだ。


 先に降りられた課長さんは、そのまま左へと進んでいくのだが、


「え、あ、あの今日の練習室は右、で……ひぃ!?」


 なけなしの勇気を持って間違いを教えてあげようとした勇者橘さんはあっけなく魔王の瞳に敗北する。


「トイレ。お前らは先に行っとけ」


 それだけ言い残し、彼はすたすたと歩いて行ってしまった。

 開くボタンをずっと押し続けてしまったがゆえに警告のビー音が鳴るまで、残された私たちが再稼働することはなかった。





「とりあえず、ウチらの会話は聞かれてなかったみたいやな……」


「あたし、もう死ぬんだと……、もう、あたし死ぬんだと……」


 練習も始まる前から体力を使い切ったかのように疲れ果てている私たちは、とぼとぼと廊下を進む。


「ごめんな、山坂さん……、ウチらのせいで怖い目に遭わせてしもうて」


「い、いえッ! そもそも私が課長さんのこと聞いたせいですしっ!」


「山坂ちゃぁぁん! 辞めないよね? サークル辞めないよねぇ!?」


「ぎゃぁ!?」


「あー、もう……」


 ぐだぐだと泣きながら橘さんが私に巻き付くように抱きついてくる。うぅむ、やはりなかなかのお胸様が……。


「離さんかいこんアホッ! それこそほんまに辞めてしまうやろがッ」


「初めての後輩なのぉぉ! 優しくするからぁ、あたしがいっぱい色んな事教えてあげるから辞めないでぇぇ」


「や、辞めません! 辞めませんから落ち着いてください!」


「~~っ、ほら行くぞド阿呆!!」


 泣きつく橘さんをべりっと引き剥がし、ずるずる引きずりながら歩いて行けば、「中会議室」と書かれたプレートのかかった扉の前にたどり着く。


「中会議室?」


「名目上はな。とはいえ、なかはフローリングのなんもない広い部屋や。おはようございまーす!」


「おはようございますー」


 引きずる愛菜ピーさんと引きずられる橘さん。挨拶しながら部屋へと入っていく二人を追いかけるように私は入室する。


「お、おはようございます……!」


 そこには、


「ういーっす! 相変わらず仲良しだな、びっくり箱コンビ」

「ねえ、愛菜ピー! ラジオ体操のCDどこにあるか知らない!?」

「おはよっす。なんかガンセキのやつ今日休むらしいぞ、ったくあの馬鹿本当にいつも急なんだからよ!」

「あ、ユイー! 見てこれ、コンビニの新作チョコレート! 超旨そうじゃない!?」


 愛菜ピーさんの言うとおり何も無いフローリングの広い部屋に、たくさんの人があふれかえっておりました。

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