第三夜 桜の木の下で会いましょう

 ぼくと彼女との出会いは桜が咲き誇る春のことだった。満開の桜の木の下に彼女は立っていた。


 ひと目見るなり、ぼくは彼女の美しさに惹かれてしまった。彼女は桜に負けないくらいの美しい顔立ちをしていたのだ。もしかしたら、彼女は桜の精なのかもと思ったほどである。


 ぼくはその日に気持ちを伝えた。


 意外にも、彼女からの返事はイエスだった。それから彼女と付き合うようになった。


 毎日がバラ色──ではなく、桜色に染まった。二人でいろんな所に遊びに行った。

もちろん、桜の花見にも出かけた。


 でも、ぼくは桜ではなく、彼女のことばかり見つめていて、彼女に怒られたりもした。


 そんな風にして時は流れていき、ぼくは当然のように彼女にプロポーズをした。


 もちろん、場所は初めて彼女に会ったあの桜の木の下である。


 彼女からの返事はイエスだった。


 でも、ぼくは結局彼女と結婚出来なかった。


 プロポーズをしたその日の帰り道に、彼女が交通事故にあってしまったのだ。救急車が来るまでの間、ぼくは彼女の手を必死に握り締め続けた。彼女の意識が徐々に薄れていき、握り締めた彼女の手から徐々に力が抜け落ちていく。



「生まれ変わったら、またあの桜の木の下で会いましょう」



 それが彼女の遺言になった。救急車が到着する前に、彼女は静かに息を引き取った。


 こうして、ぼくの初恋は終わった。


 ――――――――――――――――


 あれからどれくらいの時間が過ぎていっただろう。


 ぼくは十数年ぶりに、再びあの桜の木の下に来ていた。満開を過ぎた桜の花びらはすでに散り始めており、今日の雨によって、さらに舞い散っていた。

 

 ぼくは雨でぬかるんだ土の上を慎重に歩きながら、桜の木の下まで歩いた。桜の幹にそっと自分の手をあてる。そして、そっと話しかけた。


 まるで桜に話しかけるように。まるで亡くなった彼女に話しかけるように。


「ずっとここに来れなくてごめんね」


 桜に、彼女に、話しかけた。


「毎年桜が咲く頃には、ここに来ようと思っていたんだ。でも、どうしても来れなかった。ここに来たら、きっとまたあの悲しい出来事を思い出してしまうと思ったから……」


 彼女を亡くしてから、ぼくは桜を見るのが怖くなってしまったのだ。


「でも、今日はどうしてもきみに話さないとならないことがあったから、ここに来たんだ」


 そう、どうしても彼女に伝えないとならないことがぼくにはあった。


「来月、結婚することになったんだ」


 相手は彼女とはまるで真逆の雰囲気をした女性だった。


「生まれ変わったらまたこの桜の木の下で会おうって約束したけど、その約束を守れそうにないから、今日は謝りに来たんだ」


 ぼくは桜を見上げた。


「本当にごめんね」


 ぼくはそれだけ言うと、そっと桜の木から離れようとした。



 そのとき──。



 不意に両足を何かに強く掴まれた。そのまま物凄い力でぬかるんだ地面の中に引きこまれていく。


 口と鼻に泥が流れ込んできて息が出来なくなった。意識が遠のいていく。



『生まれ変わったら、またあの桜の木の下で会いましょうって、二人で約束したでしょう? もう忘れたの?』



 どこからともなく、彼女の声が聞こえてきた。



 桜の木の下って、こういう意味だったんだ……。



 ぼくはそのまま暗い穴に堕ちていった。

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