―07―
声が聞こえました。
「――く――がや――」
今、その声が聞けたことが、なんだか無性にうれしく感じました。
「――っか――しろ! 呉ヶ野ッ」
うれしいけれど……眠るには、少し騒々しい声でした。
「目を――け――くれ、呉ヶ野 光莉ッ」
――…………光莉、か……。
この名前は好きじゃない。
だって……父さんと、母さんは、わたしのことを〝希望〟だって――自分たちにとっての、〝希望の光〟なんだって、この名前をつけたけど……。
でも……わたしは、自分の足元すら照らせないでいる。
世界から傷つけられて、そのうち、自分で自分も傷つけた。
わたしには、この世界は暗すぎた。
それなのに……母さんがいなくってからは、父さんにとって、わたしはよりいっそう、残された〝希望〟になってしまった。
わたしは、かろうじて生きることだけで精一杯なのに。
そう……せめて、生きなくちゃ。
つらいとき、名前を呼ばれるたびに、そんな思いに駆られる。
だから、重いんですよ、この名前は。
父さん以外は、あまり気軽に呼ばないでください……。
「起きろって、怪談ちゃん!」
……いや、だからって、その呼び方は……。
「起きろってば!」
ぺちん!
…………痛った……ちょっと、なにす――
「――……あ、呉ヶ野? 大丈夫か、呉ヶ野!」
(……真弥さん……?)
「良かった……! おまえにまで何かあったら……おれは……」
身体をきつく締めつける真弥の腕が震えていました。命をすり減らすような勢いで激しく波打つ鼓動が伝わってきました。
(……だから、いちいち痛いです……)
声には出せませんでした。安堵と一緒に、胸を締めつける感傷がこみ上げていたから。
言葉を発した瞬間に泣かないように、光莉は黙ったままでいました。
しかし、しばらくして真弥は思い出したように言いました。
「……由香は、どうなった……?」
その名前を聞いて、光莉の神経は張り詰め、まどろんでいた思考もようやく鮮明になりました。
彼女は抱き起されたままの姿勢で、あらためて周囲を見渡しました。
……そこは、屋上でした。
そして、自分を道連れにしようとしていた少女の姿は、どこにもありません。
さきほどまでの記憶と照らして、ようやく自分が不可解な状況下にあることを実感しました。
……そうか。最後に、あの子はわかってくれたんだ。
握っていた手を、自ら解いて――
『……ごめんね』
と、一言だけささやいて、さびしげな笑みとともに、空に吸い込まれるように消えていった。
――そんな、奇跡など、ありえない。
二人には、わかっていました。
その時、光莉は屋上入り口の屋根に立つ、白ワンピースの少女に気づきました。
*
……目があった。考えていることは、なんとなくわかる。
きっと、『あなたが助けてくれたんですか?』……とか。
だから、わたしは首を横に振った。
それを見て、少女は困惑を浮かべる。
おぼえてないの? あなたは見ていたでしょ?
*
(あなたじゃないの……? だったら、由香さんは――……)
その時、光莉の脳裏に、そこに至るまでの記憶がよみがえりました。
二人は、並んでフェンスの前に立っていました。
そして、命のボーダーラインを乗り越えようと手をかけた時――突然、由香だけがフェンスをすり抜けて、前に飛び出したのです。
そこからは、数コマの短い映像が、ノイズ交じりに繰り返されました。
由香が――空に舞っていました。
(なに……今のは……? わたしの記憶……?)
由香が――……されて、空に舞っていました。
(わたし、見ていたの? 記憶の消失……? わたしが……?)
「! どうした? 大丈夫か、呉ヶ野!」
由香が――……に……されて、空に舞っていました。
(うそ……なにこれ……嫌だ……)
由香が――……に突き飛ばされて、空に舞っていました。
(嫌だ……思い出したくない……やめて……)
由香が――
(おねがい、やめてッ)
「おい、呉ヶ野ッ」
由香が――
「……やめて……そんなことしないで……――――真陽瑠ちゃん……」
真弥の耳元で、声がしました。
――……大丈夫だよ。あたしがついてるから……。
結局、雨は降らずに、暗雲は晴れ――月の光にやさしく照らされた屋上に、生暖かい風がふいていました。
そんな夜に、
由香が――真陽瑠に突き飛ばされて、空に舞っていました。
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