―05―
彼は、
「なぁ、どうかしたの?」
内に抱いている感情からは想像できないような親身な声で話しかけましたが、反応はありませんでした。
意思疎通ができないのかと案じていると、由香はうつむいていた顔をゆっくりと上げ、真弥と目を合わせました。
その虚ろな瞳は……人、物、風景――世界の全てを絶望として映しこんでいました。
救えない――と、そう感じました。
生きることに苦しみ、その果てに死を選択し……なのに、いまだその苦しみにとらわれ続けている。
こんな目をした人間に……あの二人は、どうして手を差し伸べられたのか。
久も、垣原も……どうして助けられると思うのか。
真弥は、ため息を吐いてから、
「……つらいんだろ? 実は、おれもなんだよ」
そう言って、右手を差し伸べました。
「一緒に、逃げないか? こんな、『最悪な日常』から……」
由香の身体が、感情的にぴくりと反応を示したように見えました。
それを機に、空気に描かれた輪郭のようだった彼女の身体に、次第に色味が宿っていきました。
そして、彼女はためらいがちに少年の手をとろうと――
「――とか、さ……」
その手を払いのけた時、生身の人間に触れたかのような、かわいた音がひびきました。
「言うわけないだろ」
次の瞬間、真弥はポケットに手を入れると、にぶい輝きを宿すナイフの刃を、少女の腹部へと放ちました。
…………感触が、ありました。
「……死にたければ、一人で逝けよ」
体をくの字に折って横たわる由香を見下ろし、真弥は冷たくそう言い放ちます。
「これが、お前の最期だ。こうやって、終わったんだ。孤独に……静かに」
そして、右手に握られた刃を折りたたんで再びポケットにしまうと、ぴくりともうごかない少女に背を向けました。
「……ちゃんと、おぼえておけ。忘れるようなら……また、来るから」
復讐を遂げた彼を満たしていたのは、鉛のような気だるさでした。
うなだれ、月の光が生み出す自分の影を見つめながら、足を進めます。
その光景を、屋上入り口の屋根に立つもう一人の人ならざる少女の、無機質な瞳がみつめていました。
――……あぶないよ。
そんな声を聞いた気がしました。
気がついた時、足元には自分の輪郭の横に並ぶ、少女の影がありました。
振り向くよりも……真弥は自分と少女の影同士が繋いでいる手の結び目を、呆然と見つめていました。
実際の自分の右手に生まれた感触――それをつうじて、身体になにかが流れこんできました。
ようやく抱いた焦燥も、抵抗をうながすまでに至らず、すぐに虚ろへと染められました。
そのまま、彼は――――――
いつからか校舎にこだましていた小さな靴音が、しだいに大きくなり――屋上のドアが勢いよく開き、息を切らした光莉が飛び出してきました。
「――真弥さん!」
目に映ったのは、由香に手を引かれフェンスの方へと歩く真弥でした。
光莉は駆け寄りながらポーチの中のスプレーを取り出し、二人が繋ぐ手と手の結び目を狙います。
ノズルから放たれた霧状の清酒は、霊体への接触と同時に淡白い炎を発現――
その炎の中、結び目が解かれました。マリオネットの糸は断たれ、真弥はその場に膝から崩れ落ちます。
かたや由香は、今しがた燃え上がった自分の手を見つめていましたが、そこに追撃のトリガーが引かれました。
ふたたび、立ち昇る
両腕で顔をかばいながら後ずさる由香を追い、光莉は必要に攻撃を加え続けます。
明確な敵意は、対象との間合いを過剰に接近させていました。その危うさを認める前に、止めどなく炎に絡まれる霊体の腕の隙間から、蔑んだ瞳が垣間見えました。
刹那。白炎を帯びたまま光莉へと伸びた手がスプレーを弾き飛ばします。
地面に転がった武器に意識を奪われていると、今度は顔へと腕が振りぬかれました。
また、かわいた音がひびきました。
『なんで……?』
冷たい熱を帯びていく頬に手をそえることもせず、光莉は視線を落とし、佇んでいました。
『なんで、酷いことするの……?』
問われた光莉の口元が歪みました。
粗雑にポーチをまさぐり、つかみとったものを由香へと突き付けます。
それが、予備のスプレーであることを由香が認識するのと、彼女の視界が炎に覆われたのは、ほぼ同時でした。
「なんで……? なんでって、あなたは……――」
よろめき倒れた由香に、光莉はありったけの清酒を浴びせて全身を炎上させました。
最後に、清めの塩を取り出そうとポーチに手を入れた時――身を丸めた由香の肩が、震えていることに気が付きました。
きっかけを得たように、頬が痛みをおぼえました。
光莉はくやしさに歯を食いしばりながら由香に背を向けると、倒れたままの真弥の元へ駆け寄ります。
「真弥さん! 起きて、真弥さん!」
必死に真弥の体をゆらしましたが、目覚める気配がありません。命に別状はないはずですが……。
やがて、呼びかけのさなか、背後からの気配に気づきました。悪寒などというよりもっと不快に、視線を通じて身体に毒素を注がれているかのような感覚でした。
光莉は背を向けたままポーチの中の塩の小瓶を握ると、起立と同時に身を翻します。
舞いのように可憐に廻る身体。
水平に伸びた腕の先――小瓶から放たれた粉末は、白銀に瞬きながら彼女と真弥を取り巻くリングを形成し、その弧を保ったままアスファルトへと広がりました。
結界の手前で、由香は足を止めていました。
光莉は彼女に、またスプレーのノズルを突きつけ――しかし、トリガーは引かずその目をにらみました。
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