―04―

 もう、目は闇に慣れていました。

 窓から漏れるあわい夜光だけをしるべに階段を上がります。音を立てないようそっと足を運びますが、段のすべり止めの部分を踏みしめると、わずかばかりきしんだ音が鳴りました。

 彼は最上階の踊り場手前で足を止め、バッグからアンテナの生えた携帯サイズの機材を取り出し、スイッチを入れました。

 妨害電波発信機ジャマーと呼ばれるもので、作動中は周囲の無線を利用した通信機器を使用不能にすることができます。

 高校生には高価な買い物でしたが、性能は値段に見合うものでした。

 ほどなく、携帯画面で確認していた監視カメラのライブ映像が途絶え、回線切断が告げられます。念のため、手だけカメラの視界に入れてみましたが、動体検知による侵入の通知は届きませんでした。

 先日、せっかく自分も追加してもらった通知リストが、自身の侵入が露呈していないことの確認に要されているのは、皮肉なことでした。

 もっと言えば――

 

 最初の障害を排除し、立入を禁じるテープを乗り越え屋外へと続く扉の前に立ちました。

 扉は施錠されていました。由香の道連れから、生徒を守るために。

 そして、誰かが早まったやり方で幕引きしようとするのを防ぐために。

 ポケットから、二種類の鍵を取り出します。

 一つは南京錠、もう一つは扉を開けるための鍵。

 順番に解錠しました。


 もっと言えば――垣原に警告したことを、今まさに行おうとしていることも。

 運命とでも言うのでしょうか。

 まるで、全てが悪意ある誰かの手により仕組まれていて、その下衆げすいた存在は、今の自分を高みで眺め嘲笑っているのではという妄想すら抱かせました。

 もっとも、そんなはっきりとしないものにまで、矛先を向けている余裕はありませんでした。


 静寂に鉄の軋む音がひびき、戸の隙間から生ぬるい外気が吹き込んできました。その風を受けながら、屋上へと踏み入ります。 

 雲の間からわずかに注ぐ月明かりが――真弥の姿を照らしました。

 未だ雨は降っていませんでした。


 屋上の中央まで移動し、周囲を見渡します。

 星は見えませんでしたが、学校のある小高い丘の周辺に広がる町の夜景が目に入りました。

 ここが自分にとってどんな場所か。今、何をしに来ているかわかっているはずなのに、一瞬だけその光景に心を奪われました。


 彼がここまでに至った理由は、自分にも由香が見える――正確には、『見えるが、記憶にとどまらない』という結論に行き着いたからでした。

 ……真陽瑠がそうだったからです。

『道連れ』に選ばれる条件が、自分から手を差し伸べることなら、真陽瑠は間違いなく由香が見えていた。

 でも、由香が最初の『道連れ』を行った時、その光景を間近で見たはずなのに、彼女は由香のことをおぼえていなかった。


 波長が合う霊体、被る霊症は、久と光莉を見れば遺伝的要因が大きく関係していると想像できました。

 双子ともなれば、おそらくその傾向はより顕著なものでしょう。

 光莉はわかっていたから、以前に『由香さんのこと見えてませんでしたよね』と、断定するように言ったのかもしれません。

 決して関わらせたくなかったから。


 その想いを無下に、真弥は待ち続けました。

 人の優しさを……かつての自分を救ってくれた妹のあたたかさを、命を奪うための選定条件とした者を。


 どのくらい経ったでしょうか。彼の胸に、兆しとして意識していた違和感が芽生えたような気がしました。

 視界は、まだその姿を捉えてはいません。

 それでも……おそらく、間違いはないと思いました。

 真弥は、一度目を閉じました。

 自分の息遣いだけが、耳に聞こえました。

 閉じた目蓋の裏に、友達が――垣原が――久と光莉が――真陽瑠が浮かび……胸が苦しくなって、吐息は過呼吸のように荒くなりました。


 再び目蓋を開いた時、瞳は紅く充血していました。

 ……その目で、彼は視認します。

 さっきまで誰もいなかった空間――彼の前方、屋上のフェンスを背にし、こちらを見つめる少女。

 失われていた記憶が、再構築されていきました。

 あの日、ずっと真陽瑠の手をにぎっていた少女がいたこと。

 生気を欠いた、その顔を――

 

「ああ……。そうだ、おまえだ……」


 つぶやいた真弥の口元は、歪に笑っていました。

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