―09―
この日の最後の授業が終わると、真弥はさっそうとバッグを肩にかけました。
「ごめん、今日も病院に寄るから先に帰るけど」
「おかまいなく。それより……昼休みに、急に戻って来てノート破いてましたけど……」
「あぁ、あれは……おれの、ストレス解消法」
「……本当に、一度、父さんのカウンセリング受けてください」
真弥が教室を出た後、光莉は久のところに行くことにしました。
今日は、職員会議があるので放課後のカウンセリングは無いと聞いています。会議までの貴重な時間に押しかけるのは心苦しいですが、相談したいことがありました。
久は資料の整理をしているところでした。
「ごめんなさい。長居はしないので……」
「いえいえ。こちらも片手間ですみません。……今日は真弥さんの様子は?」
光莉は、真弥が監視カメラの通知リストに自分も入れてほしいと言っていたことを話しました。それと――
「由香さんが『道連れ』にする生徒に、条件はあるのか……と、訊かれました」
久の、資料をまとめる手が止まりました。
「……気づいているようでしたか?」
「いえ……思いつきだと。でも、わたしが昨日、うっかりいろいろと話してしまったから、ひょっとしたら……」
光莉が言うからには、その可能性は高いと思いました。
「頭の良い方です……。遅かれ早かれということであれば、やはり、先にぼくから彼に――」
光莉は固唾をのみました。たしかに、時間の問題かもしれません。
しかし、たとえ慎重を期して打ち明けたとしても、果たして、真弥は――
「……正気でいてくれるでしょうか……?」
久は……コーヒーを注いで、光莉へと差し出しました。
教室を出た真弥は、まっすぐ屋上へと向かいました。
かくして、彼が昼休みに放置したノートの切れ端は、二つ折りでそのままの位置に残っていました。
拾い上げ、深呼吸をしてから、ゆっくりと折り目を開きます。
そして、内容を確認し……――落胆に肩を落としました。
「……だめか。まあ、手軽すぎるよな……」
消沈気味につぶやき、屋上の扉を見つめてから、踵を返しました。
その時――ともすれば、自分の思考の中に発生したものと混同してしまいかねないほど、それは微弱な、
――本当に知りたい?
少女の声でした。
背後から――たった今、誰もいないことを確認したはずの黄色いテープの向こう側から、自分を見下ろす視線を感じました。
振り返らなくても、そこには白いワンピースから伸びた、おそらくそれに近いくらいに白い二本の足があることがわかりました。
真弥はそのまま、ゆっくり五回ほど呼吸をしてから、まるで、自分の足場を確認するかのようにうなづきました。
一瞬、時間が飛んだような感覚がありました。
いつの間にか、持っていたノートの切れ端が手の中から消えていました。
振り返ると、それは今しがた回収したはずの位置に、まったく同じように二つ折りで置かれていました。
まるで、時間が巻き戻ったかのような不思議な感覚に浸りながら、真弥はふたたび、それを回収して、階段を下りながら折り目を開きました。
……彼の足は、踊り場の床を踏んで止まりました。
ノートには、まず真弥の書いた文字が記されていました。
『由香の道連れに選ばれる生徒には、条件があるのか?』
その文面の下でした。彼とは明らかに違う筆跡で、書いた覚えのない文字が追記されていたのです。
ショックで、脳はそれをすぐには文字として認識してくれませんでした。
一呼吸おいて……ようやく、文字を読んだ真弥は――
光莉は、まだコーヒーに口をつけていませんでした。
カップの中に落とした白いミルクは、かき混ぜなくても徐々にコーヒーの中へと溶け出し、沈み、消えていきます。
その光景に視線を落とす光莉に、久はゆっくりと語りかけました。
「……たしかに。慎重に考えるべきだとは思います。……ただ、最悪なのはなんの準備もなく真実を知れば、きっと彼は……」
深淵の縁を覗いた者は――
真弥はノートを握りつぶすと、絶叫をぎりぎりで押し殺した低いうめきとともに、踊り場の床へと叩きつけました。
衝撃を生まない紙くずは彼の衝動の捌け口として足りず、続けて携帯が叩きつけられました。
そして、自らも倒れこむようにその場に伏し、床のタイルをむしりとらんばかりに爪をたてて、マグマの胎動のような怒りに身を焼かれました。
脳裏では、今しがた読んだ文章から想起された
一人の男子生徒が帰り際、廊下の壁を背にしゃがみこむ少女を見つけました。
知らない顔でした。まあ、入学して間もないので、まだ見たことがない生徒がいても不思議ではないのですが……なぜ、私服姿?
……なんにしても、その思いつめたような表情は気がかりでした。
彼は相手を安心させるような笑顔をつくり――
――彼女が選ぶのは、
一人の女子生徒が忘れ物を取りに教室に向かおうとした時、階段に腰をおろしてうなだれている少女を目にしました。
入学して半年近く経ちますが、知らない顔――いや、どこかで見たような気も――でも、そもそも制服を来ていないので他校の生徒かもしれません。
人を待たせてはいるのですが……ちょっと放っておけない雰囲気でした。
女子生徒はくるりとひるがえって少女に近づくと、やさしくほほえんで――
『どうしたの? 大丈夫?』
そう言って、彼女に右手を――――
――彼女が選ぶのは、自分に優しく声をかけ、手を差し伸べた人。
その日、彼女が手を取った、あかるく気さくな男子生徒は、彼女の親友の代わりに道連れに選ばれました。
数ヶ月後、つらそうな相手をほうっておけない、そうぞうしくておせっかいな女子生徒が、同じように。
真弥は……最初から答えを知っていたのです。
――なあ、神様さ。こいつら、本当にいいやつだったんだよ。
「――……して……やる……」
指からにじみ出た少量の血が、床にきざまれた爪の跡を褐色に染めていました。
「たとえ、死んでいたって……………………殺してやる!」
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