―08―

 来客が去った後、光莉と久は陰りゆく部屋でしばらくの間、何もしない時間を過ごしました。

 久は窓辺に立って夕陽を眺め、光莉はソファーに座ったまま、少し前まで真弥が居た席を、あいまいな焦点で見つめていました。

 秋の訪れに抗うように、声を張り上げる蝉たち――その音が、ふいに静まり返った時――


「……二人とも、気づいていませんよね……?」


 視線はそのままに、光莉が問いかけました。久は窓に映る光莉に答えます。

「おそらく、今日のところは。ずっとそうあってほしいですが……。光莉、何か訊かれたとしても……」

「わかってます。垣原さんは今度こそ耐えられないと思います。真弥さんだって……壊れるかもしれない」

「そうですね……。『真実を受け入れ、乗り越えられるよう手助けするのが、おまえの責務だろ』――心はそう言っているのですが……」

「惨い真実を突きつけたって人は救われません。その声はきっと、悪魔のささやきか、それ以上に卑劣なお方の啓示けいじという名の戯言ざれごとだと思います」

 光莉にとって後者は、もし実在するなら悪魔よりも忌むべき存在でした。

「いつもそう……。まるで、誰かが仕組んでいるみたいに……みんな、弄ばれて傷ついている」

「その『誰か』が居たら話は簡単なんですがね。ぼくが、やっつけてあげます。でもきっと……誰がやっているわけでもないんですよ」


「……だったら、この世界そのものが悪意の固まりです……」


 少し間をおいて、久が振り返りました。

「……一度、学校に戻らなければなりません。途中で抜けてきたので」

 光莉がおどろいて立ち上がります。

「今からですか? 昨日だって遅かったのに……」

「ショックを受けている生徒は多いですから。今後、そのケアをどうするかも早急に考えなければいけません」

「たしかに、父さんは表向きはスクールカウンセラーですけど……解決に専念させたいのなら兼任業務なんてさせてる場合じゃないのに……」

 久のオーバーワークは、娘の目からも一目瞭然でした。

「それだけじゃない……巷では父さんのことを責める声まであります。まさか、学校内でもスケープゴートになんてされてませんよね……?」

「大丈夫、そんなことないですよ。スクールカウンセラーに関しては、何もしないで学校に置かせてもらうような計らいは校長先生でもむずかしいですし、生徒から事情を訊くのに都合がいいからと、ぼくも二つ返事で引き受けたんです」


――それに……と、久はまた背を向け、窓辺に手をつき、

「今回のことは多忙以前に……いろいろな部分で、ぼくの認識が甘かったのが原因で、それは責められるべきです……」

「いえ……悪いのは、わたしです。一緒にいたのに……」

「光莉……また……」

 それは、あの日から二人の間で何度となく交わされたやりとりでした。

「真弥さん……つらそうだった……」

「君のせいじゃない。彼も責めたりしてませんよ……」

「そうしないように努力してくれてるんです……優しいから。わたし、こんな取り返しのつかないことをしてしまったのに……」


 久は光莉へと歩みより、頭を撫でながら、自分へと抱き寄せます。

 そのまま、光莉は久の胸に顔をうずめ体を震わせました。

「光莉……ごめんね。君だってずっとつらいのに……」

「友達だった……本当に大切な……すぐ助けに行けば良かった……!」

「……何度でも言います。君のせいじゃない……」

「…………」

「あとね、伝えたいことがあります。『この世界そのものが悪意の固まり』――って言いましたね。……ぼくも、そう思えてしまうことがあります。実はさっきも……」

 光莉が赤くなった目で、久を見上げます。

「だから、夕陽を見ていたんです。……きれいでした。光莉の言っていることは正しいかもしれない。でも、純度百パーセントの悪意の中で、あんな景色は生まれないんじゃないでしょうか?」

 父が、そんな想いでいたことを知りませんでした

「ぼく自身、時々、忘れてしまうけど……それに気づいてもらうことが、ぼくの仕事なのかもしれない。そして、もし由香さんにも伝えることができたなら……今からでも、少しは救いのある終わり方ができるんじゃないかなって……」

「救いなんて……」

「信じられませんか? ……大丈夫、きっとぼくが証明しますから……」

 久はしばらく、髪をとかすように光莉の頭を優しく撫で続けました。


 久が出ていった後、光莉は部屋に残り――そのうち、窓辺へと歩み寄って、もうほとんど沈みかけの夕日を見つめました。

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