―03―

「……由香は、わたしの……」

 垣原が、重く口を開きました。


 由香は、垣原――千種の親友でした。同時に、引っ込み思案な千種にとって姉のような存在でもありました。

 中学の部活も、進学する高校も、千種は由香に手を引かれて一緒の場所を選びました。

 由香は少し人当たりがきつい性格だったので周りから孤立しがちでしたが、逆に自分にだけは心を許し、悩みなどを話してくれることを、千種はうれしく思っていました。 


 しかし、いつからか由香が打ち明ける相談事には、以前までのような夢や恋といった青春の欠片の代わりに、現状の苦しみ、未来への不安……諦め、絶望といったものが入り混じるようになりました。

 同じ頃、千種も心をにごらせる出来事がいくつか起きて、二人はお互いを浄化させることなく、抱いた闇を共有し、深め合う関係となっていました。


 そんな日々が続いた、ある日の夜――。

 眠りについていた千種は、由香からの電話で起こされました。

『今さ……学校にいるんだ』 

『どうして?』と、訊きながら、千種にはその理由が想像できていました。 

『……こんな最悪な日常から逃げ出すにはさ……やっぱり、こうするしかないかなって……』


 最悪な日常――

 いつからか、その言葉が彼女たちのテーマであり、この先も不変に続いていく絶望の象徴でした。

 それから逃れる方法があることは知っていました。けれど……。

『……でも、由香……』

『うん……怖いよ。生きてるほうがマシなんてことないのにね……。前も話したよね。きっと、この恐怖は人間にかけられた呪いなんだって。どんなに酷い目にあっても、逃げ出せないように……とことんまで苦しむようにって。でも……千種と一緒なら、その呪いに勝てると思う……』

『…………』

『ごめん、千種……。あたし、もう限界なんだ……』

 通話口から、由香のすすり泣く声が聞こえました。

 親友が自分を必要としている。最期の瞬間を一緒に迎えてほしいと望んでいる。

 そう実感した時、千種の心は暗く満たされました。

『……そうだね。一緒に逃げようか……』


 家を抜け出して学校に向かった千種は、由香に鍵を開けてもらい、校舎に入りました。

『信じてたよ。来てくれるって』

 これからやろうとしていることから想像できないほど、由香はうれしそうに笑いました。 

 屋上への階段を上る前に、二人は手を握りました。生きている間――いえ、その先も、決してほどけることがないように、固く、強く――

 最上階に着いて扉を開けると、秋の夜風が肌寒く身体をなでます。

 繋いだ手からお互いの温もりを確かめ合って――まっすぐ、フェンスの方に歩いていきました。

 肩までの高さの柵を乗り越えて、並んで断崖の淵に立ちます。

『思ったとおりだ……。千種と一緒なら……越えられたよ、このフェンス……』

『うん……』

『ありがとう……いつも一緒にいてくれて……』

『……これからだって、ずっと一緒だよ……』

 そして、二人は呼吸を整えてから、目配せし、うなずいて……その時を迎えました。


 自分の重心が傾いて、なにもない空中へとあずけられていきます。千種は目の前を流れていく景色を見つめていました。

 スローモーションの中にいるようでした。視界から、夜空の星の瞬きが消え――住んでいる町の夜景が消え――その先にあったのは――――


 ――――なにも、ありませんでした。


 そこにはただ、闇が自分を飲み込もうと口を開けていました。

 それは、この瞬間まで直視することを避け続けてきた、千種が抱く『死』の恐怖そのものでした。

 親友に手を引かれ死へと誘われながら――千種の心は、ここまで来て、突然に彼女自身の決意を裏切ったのです。


『――いやぁ、死にたくないっ!』


 声を発した瞬間、千種の落下が止まりました。状況を把握する暇もなく、左手に痛いくらいの重みを感じます。

 その先には……自分の手で空中につなぎとめられた由香がいました。


――なんで……?


 由香の目が、はっきりとそう訴えていました。

 ……初めてではありませんでした。昔から、たまに意見が合わずにぶつかった時、由香はこんな目をするのです。

 そういう時、たいていは千種が折れて仲直りしていました。怒っている由香がこわいのではなく、彼女の瞳からは、千種に自分を認めてもらえないことの憂いがにじんでいたからです。


 でも……どうして、今なのでしょうか?

 どうして今、彼女にこんな目をさせてしまったのでしょうか……?

 ……もう……これきりなのに……。


 強く……固く握り合ったはずの手なのに、たった人一人の重みにも耐えられず、結び目は思った以上にあっけなくほどかれ……由香は、闇の中へと落ちていきました。

 千種は、その夢のような光景を呆然と見つめながら……いまだ自分が由香のように死に導かれない理由を、理解できていませんでした。


――死にたくなければ、死ななければいいのに。


 背後からの声に、千種は振り返りました。そこには、白いワンピースを着た少女がいました。その肌は異様なまでに白く透き通り、表情もまるで人形のように無機質でした。

 その少女の手が――千種の右手首を掴み、落下を妨げていたのです。

 ……人ではないと、直感的に理解しました。

 感情の一切を排した声で、少女はもう一度ささやきました。


――どうせ、さいごは死ぬんだから。 


「うわあぁぁぁぁぁっ!」

 とっさに千種は顔を背けました。次にもう一度少女を見た時……彼女の姿はなく、自分の手は屋上のフェンスを掴んでいました。

 ……すべてが信じがたい悪夢のようでした。そうでなければ、昨日までとは違う別世界に迷いこんでしまったのだと思いました。


 千種は、一人で夜の校舎から逃げ出しました。地面に落ちた由香を確認することもできませんでした。もし、ここで由香を見てしまったら、この世界は現実として確定し、二度と逃れることができないように思えたのです。

 このまま家に帰って眠り、目を覚ませば、自分は昨日までの世界に戻ることができる……そんなことを考えました。

 そう……自分は、由香からの電話を受けてなんていない。学校になんて行っていない。すべては悪い夢……。


『由香は死んでなんていない……』

 

 朝に、昨日までと変わらない最悪な日常で、いつもどおり由香と会えることを願っていた千種は、母親から学校が休校になったことを知らされました。


 唯一心をかよわせることができた親友すら失った絶望の世界――そこが、千種の居場所になりました。

 それは、親友を裏切った自分への罰なのだと思いました。それから、千種は学校を退学し、抜け殻としてただ存在し続けました。

 魂だけはあの日、由香と一緒に死んだのだと思いました。

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